歴史絵巻的まつり(中四国と大分) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

<朝から晩まで複数日開催するものも>

全国各地では武者行列や大名行列、各種合戦等を再現した歴史絵巻的まつりがコロナ前までは開催されていたが、今年は開催に望みをかけ、高知・香川・山口・大分県のまつりを取り上げたい。尚、大分のもの以外は過去紹介済み。

 

(1)土佐一條公家行列「藤祭り」(高知県四万十市)

土佐一條家の元祖の元関白、一條教房公は応仁2年(1468)、京都から所領のあった幡多荘(四万十市の一部)に下向、中村御所を創建し、公家大名として戦国時代まで100年余り統治した。四万十市の中心街「中村」が「土佐の小京都」と呼ばれる所以である。

平成4年より毎年5月3日に開催されていた土佐一條公家行列「藤祭り」は、教房公の中村入府を再現したもの。室町時代の衣装を纏った約200名の参加者が、御所跡の一角に建つ一篠神社を出発し、中村市街地を練り歩く。

 

行列のメインは一條教房公役と二代房冬公の正室、玉姫役で、前者はこれまで市長や知事、一篠家子孫が乗馬して務め、後者は各局のアナウンサーや市のキャンペーン・レディ、ミス高知等が務め、輿から笑顔を振りまいていた。→関連サイト

尚、当方は祭りを観光目的にすることは2018年までなかった。この時は中村の龍馬の伝承地や地元の志士、龍馬からの求婚を断ったお徳の住居跡等を探訪したついでに見物した。

(2)しものせき海峡まつり(山口県下関市)

このまつりについては拙著やブログでも説明したが、明治時代から続いている先帝祭と昭和30年に開始された「みなと祭り」を核に、源平合戦や赤間神宮、巌流島の決闘に関係するイベントを組み入れ、昭和60年、県随一の祭り「下関海峡まつり」としてスタートした。

 

GW期間中の3日間、連続して行われるが、中日がメインで先帝祭と源平まつりが同時進行されるため、下関中心街は朝から夕方まで人でごった返し、幹線道路は終日大渋滞を起こす。

先帝祭は市街地を花魁行列が練り歩き(上臈道中)、安徳帝を奉る赤間神宮ではその間、本殿祭や奉納行事が行われる。神宮での行事が終わると、練り歩いていた花魁行列が神宮に参拝する。尚、拙著等で解説したように、花魁の起源は、壇ノ浦の戦いで生き残り、身をやつした平家の女官たち。

源平まつりは、平家と源氏の武者行列がそれぞれ違う場所からスタートし、勝鬨を上げながら練り歩き、姉妹都市ひろばに集合する。

その後、平家と源氏が的を射る「矢合戦」や、約80隻の漁船が、安徳帝や二位の尼、各武将役を乗せ、赤旗や白旗をはためかせながら、全速力で下関海峡を疾走する「源平船合戦」が行われる。

まつりの最後はミュージカル風劇の「源平ドラマページェント」だが、拙著等でも触れたように2010年、この劇の練習中、巨大モニター画面が真っ赤に染まる不可解な現象が起こった。舞台のすぐ背後は平家の御霊が眠る馬関海峡である。→公式サイト

因みにこの祭りは、下関の龍馬の脱藩の道や各伝承地を巡った際、見物した。

(3) 高松秋のまつり・仏生山大名行列(香川県高松市)

高松市仏生山地区にある法然寺はかつて33門、24宇の仏閣僧房を備えた大寺院であったことから、初代高松藩主、松平賴重公は300石の寺領を寄進、四代将軍、徳川家綱の代には朱印地の指定を受けるほどだった。

 

法然寺は松平家の菩提寺でもあることから、門前町の「お成り街道」と呼ばれる道を、賴重公の大名行列が参拝する様子を再現した「仏生山大名行列」が「高松秋のまつり」のメイン行事として、平成5年から毎年10月中下旬の日曜に開催されるようになった。

この行列の練り歩く距離は約1.5kmなのだが、所々で突然、チャンバラ寸劇が始まるのが特徴。2013年時は、悪党の忍者が味方を装い、賴重公の姫をさらおうとした所へ正義の剣豪が現れ、殺陣が始まった。

「ヤマザキ 春のパンまつり」ならぬ、「タカマツ 秋の藩まつり」を楽しまれよ。→関係サイト

因みにこの行事は、法然寺へ閻魔像や涅槃像、人骨で造った仏像等を拝観しに行った際、たまたま開催していたから見物した。

(4) 大野川合戦まつり(大分市)

今までで唯一、まつり目当てに観光したケースがこのまつり。それはこのまつりの登場人物の中に、長宗我部元親・信親父子が出てくるためと、信親の墓所や討死場所等を400年以上に亘って守り、供養してきた地域住民の真心に触れたい、と思ったため。

「大野川合戦」とは「戸次川の戦い」のことで、長宗我部家凋落の元凶となった戦でもある。この戦いは端的に言えば、九州を制覇しようとしていた島津氏と、全国平定を推し進めていた豊臣秀吉との対決なのだが、それに長宗我部軍は巻き込まれる形となった。

 

豊後の大友宗麟は自分の領地に島津軍が侵攻してくると、秀吉に援軍を乞うた。そこで秀吉は毛利らの中国軍と長宗我部らの四国軍を九州へ送る。

天正14年(1586)12月、四国軍の軍監、仙石秀久の無謀で強引な作戦により、四国軍は広い平地で、自軍の4倍以上の兵力を擁する島津軍と戦わざるを得なかった。

 

四国軍が劣勢に立つと秀久は一目散に逃げ帰ったが、四国軍は必死に戦った。特に信親の活躍には目を見張るものがあったが、多勢に無勢で討死する。信親の持っていた刀は鍔の根元から剣先まで刃こぼれを起こし、鎧には無数の刀疵や槍で突かれた跡があったという。

四国軍の奮戦をよそに、大友軍は動こうとしなかった。中国軍も間に合わなかった。そのこともあり、今でも大南(大分市南部の一部)地区の人々は信親らに感謝し、供養を続けているのである。

 

まつりは11月上中旬の土日に行われるが、土曜がメインで朝から晩まで、合戦場跡の河川敷に設けられた特設ステージで行われる。故に練り歩きは堤防からステージまでの短い距離。

日中は豊後大友宗麟鉄砲隊の演武や甲冑劇、「合戦YOSAKOI」を始め、各種踊りやダンスが披露される。夜は「合戦絵巻」と称し、火矢の演武等が行われ、フィナーレは花火が打ち上げられる。→公式サイト

 

当方が信親の墓に参った時、元親の居城、岡豊城跡に建つ高知県歴史民俗資料館の職員も来ていたが、高知県民なら是非ともこのまつりを体験し、地域住民と交流して欲しい。

因みに当方は合戦の武士関連の寺で「接待」が行われていた際、交流した。

今年はコロナにめげず、各まつりを開催して欲しい、という方は下のバナーを是非。

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