高知龍馬空港で来高し、空港近くのレンタカーで車を借り、県道14号を桂浜方面へ走る県外観光客の中には、
その正体は高知海軍航空基地の練習機「白菊」や零戦の格納壕です。これは
掩体(えんたい)と呼ばれるもので、四国にはここと
松山海軍航空基地の掩体が三基しか残ってないのに対し、高知海軍のものは七基も現存し、その全てが自由に見学できるようになっています。
龍馬空港の前身が海軍航空基地で、今でもトヨタレンタカー南東の高知農大の放牧場には戦闘指揮所壕、農大の寄宿舎等のある敷地には地下通信室も現存しているのですが、北方の香美市寄りにもいくつもの地下壕が残っています。
航空基地の建設は昭和16年から開始され、近隣の勤労奉仕のほか、
受刑者や強制連行された朝鮮人も駆り出され、従事させられました。
基地竣工後の昭和19年3月15日、練習隊である高知海軍航空隊が開隊。兵員3,660名、白菊機55機が配備されましたが、この白菊機と交信していた施設が海軍送信所で、当初はJR土讃線北方の陣山南部の平地にありました。
しかし戦争末期になると米軍機による爆撃の回数が増加してきたため、更に北の「北陣山」の山中に全長230mもの長大なコンクリート壕を掘り、長い電線を引き、送信機材を移したのです。
その壕は現在、途中で土砂崩れを起こしているものの、そこま
での区間は見学することができ、迷路のように枝分かれした地下壕や送信機材台座等を間近に見て、触れることができます。
この壕に入ると皆、驚きの声を上げます。私が’07年、高知放送のテレビ取材で記者とカメラマンを案内した時も案の定「おおっ!!こんな壕見たことない!」と目を円くしていました。
そんな四国最大級の地下コンクリート壕ですが、車道から入口までの間が藪化しており、入るには勇気がいるかも知れません。私の場合はいつも、隣の家に声をかけ、庭を通らせて貰い、藪を迂回しています。
最初、声をかけた時も親切に懐中電灯をお貸し戴いた位なので、誰でも気軽に通して下さるものと思います。中は真っ暗なので、懐中電灯がないと一寸先すら見えないのです。
壕は微妙に蛇行しながら奥に続いていま
すが、20mほど行った地点に送信機を据え付けていたコンクリート台座があります。
そこを過ぎると壕は右にカーブします。壕内には絶えずねずみのような鳴き声と「バタバタ」という音が聞こえるのですが、実はこの壕、コウモリの巣となっており、電灯を向けると反射的にこちらに向って飛んできます。
しかし衝突することはなく、手前まで来るとまた引き返す、といった動作を繰り返すだけ。
ほどなく壕は右に枝分かれし、そちらの方は20mほど先にブロックが積まれ、外に出られなくなっています。
本道に引き返し、先を進むとまた分岐。こちらの枝道も出口は藪。本道の方もほどなく土砂崩れ箇所に達し、行き止まりです。
この壕は観光地化することも可能ですが、入口の複数の地権者がいがみ合っていたり、道路が狭かったりと、悪条件が重なっているので、難しいでしょう。
アプローチは目印になるようなものも殆ど
ないのですが、バイパスの方の国道195号を香美市方面に進み、
そして二つ目の十字路を西に折れ、突き当たりの三叉路に駐車します。
三叉路から南西に延びる水路沿いの道路を進みます。右手に最初に現われる民家が前述の庭を通して貰った家。
壕の入口は民家奥の西隣。一見、シャッターのない車庫のように見える所が入口です。民家に声をかけることを躊躇う方は、民家西の畑の藪を突破するしかありません。
私はこの「高知海軍航空基地陣山送信所壕」を、ミシュランが選出した高知城の対抗馬として挙げます。「城下町の展望」と「コウモリと戯れる漆黒の闇」、あなたならどっち?
尚、壕の詳細や掩体を始めとした各地の基地遺跡、コース図については拙著「四国の戦争遺跡ハイキング」を。
コウモリと遊びたい方は次の二つのバナーをプリーズ・クリックonMe&東日本義援金にも善意を。