「道鳥居」とは主要街道を跨いで設置された大鳥居のことで、当該街道が有名寺社の参詣道と重なっている場合、設置されることがあります。
金毘羅宮門前、
昭和期は
坂本龍馬がこの鳥居をくぐったのは文久二年(1862)2月半ば過ぎ。一ヶ月前、長州萩で久坂玄瑞から琴平の勤王任侠・日柳燕石を紹介された龍馬は、燕石邸である呑象楼(旧地)で美馬君田らと交流。
この時、龍馬は金毘羅表参道沿いの大旅籠「芳橘楼」に宿泊したとされているのですが、
旧呑象楼跡(現、高田工業)から
(2) 立見山大鳥居(徳島県美馬市)
呑象楼で君田から阿波の鎌村熊太を紹介する紹介状を受け取った龍馬は、金毘羅参詣道・阿波道で阿波に入り、同参詣道・坊僧道を辿って鎌村邸へと向かいます。
中村、藤宇を経て立見山集落へと入るのですが、所々に 古道と共に丁石地蔵や道しるべ、常夜燈、庚申塔も残っており、往時を偲ぶことができます。
「立見山庚申塔」周辺は民家の敷地に取り込まれてしまっていますが、私は民家の垣根を突破し、再び農道と化した街道に出ました。
その狭い農道が主要道路に合流する手前に、支柱が何割か地中に埋まった大鳥居が忽然と現われます。かつて街道は鳥居の下をくぐっていたのですが、道が車道化された際、数メートル、道筋が変更されたのです。
この様はまるで映画「猿の惑星」(旧一作目)のラストシーンを彷彿させます。
尚、龍馬が越えた讃岐と阿波との国境の峠の近くにある三頭越にも道鳥居が残っており、こちらは古道が現存しています。
新町大鳥居や立見山大鳥居近辺の街道や龍馬関連史跡の詳細については拙著「大回遊!四国龍馬街道280キロ」を。
(3) 平串大鳥居(高知県四万十町)
龍馬が嘉永三年(1850)、四万十川の堤工事の監督として出向した際歩
いた土佐西街道は、
その平串にある大鳥居は高岡神社への参詣のものですが、高岡社前身の仁井田五社大明神は、弘法大師によって創建されたとされているのです。
正確には元々一社だったものを大師が五社に分け、境内に神宮寺を創建し、そこを四国霊場第37番札所としたのでした。
しかし戦国期頃に廃寺となり、代わって岩本寺が神宮寺兼37番札所となり、現在に至っています。
大鳥居のある場所は道の駅あぐり窪川の少々手前、平串バス停のある三叉路を西に折れ、JR土讃線の踏切を渡ったところ。
現在は道路の北に建っていますが、これは車道化の折、移動させられたものと思われます。
尚、旧遍路道と土佐西街道は、鳥居の数軒西で分かれます。Y字路南の水路南側に昭和四年建立の小さな地蔵があるのですが、そこから西街道は南に折れて畑の中を通り、JR鉄橋のやや西で仁井田川を飛石で渡り、線路としばらく並行した後、線路を斜めに横断していました。
飛石は既にないので、今は車道を迂回するしかありませんが、線路を越えてから国道に合流するまでの区間は、当時のままの古道が残っています。
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