坂本龍馬史跡「袂石」を陸地から探訪 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

今日のRKCラジオの番組で、高知市の堀川から桂浜沖を周遊する遊覧船について取材していましたが、その中で運営団体関係者から、周遊ルートに坂本龍馬の史跡「袂石(たもといし)」があり、これはこの船でないと見ることができない旨の発言がありました。

 

その遊覧船については去年、龍馬史跡の月見台を取り上げた記事で紹介しましたが、実際、袂石へは陸地からも行くことができます。その写真は去年11/15の「坂本龍馬の帰国時の滞在所跡」の記事に貼り付けています。
自然、戦跡、ときどき龍馬-地蔵から見下ろす満潮時の袂石

 

袂石についてはその記事で解説したので、改めては詳しく説明しませんが、龍馬が脱藩以来、最初で最後の帰国(実家へ)をした慶応三年九月、浦戸湾の狭島に碇泊した藩船から小舟に乗り移って湾の西岸に渡り、接岸した箇所です。

 

袂石へは、干潮時は高知市御畳瀬の奥から岸沿いを歩いて行けますが(但し多少、足は水に浸かる可能性あり)、満潮時には一枚目画像のように、天辺しか海面に現われません。

 

袂石へのアプローチは御畳瀬集落奥から湾沿いを進みます。車で行く際は、駐車場所がないので、梶ケ浦渡船場を過ぎると適当な路肩に駐車し、集落の端まで歩くことになります。

 

公共交通機関利用時は、高知市中心部から御畳瀬(終点)行きのバスに乗るか、県立龍馬記念館や中条家探訪時は、前述の渡船の東側の乗り場になる種崎渡船場に行き、そこから渡船に乗って浦戸湾を横断し、梶ケ浦で降り、北上して御畳瀬集落に向うことになります。

 

渡船場から数百メートルで集落の端まで来ま自然、戦跡、ときどき龍馬-二代目狭島 すが、横には朱塗りの太鼓橋で繋がった人工の「二代目狭島」があります。昔、旧狭島は浦戸湾の景勝地の一つだったのですが、戦後、大型船の通行の邪魔になるからということで、昭和37年11月、爆破されてしまいました。

 

が、島に鎮座していた厳島神社は漁師らの崇敬を集めていたため、石造祠は新たに岸沿いに造成された人工島に移されたのです。もちろん厳島神社を奉るために造成されたのです。

 

その先には石油油槽所があり、それを過ぎると左手に別荘跡がありますが、別荘の北にはかつて、海軍第23突撃隊御畳瀬派遣隊である第127震洋隊基地の素掘り隧道が貫通していました。

 

今でも尾根に上がる歩道沿いに入口(三枚目画像)は残っていますが、すぐ奥で土砂崩れを起こしており、尾根の反対側出口は完全に埋没しています。

 

その尾根を越えた方が近道ですが、山慣れし自然、戦跡、ときどき龍馬-別荘跡の素掘り隧道口 ていない方は下り時に転ぶ可能性があるため、無難に別荘跡の先から湾沿いに続く、簡易鉄板橋を歩いて行きます。

 

この橋は小さな燈台を越え、狭い浜の船舶修理工場まで続いています。その浜の北側から比較的間近に袂石を見ることができます

因みに工場北側の山際にも壕が掘られていました。

 

更に一枚目画像のように上から見下ろしたい場合は、工場敷地の西上の斜面に這い上がり、道なき斜面を適当に歩き、北の尾根に乗ります。

 

尾根上には踏み跡が付いているので、これを尾根の東突端まで辿ると、一枚目画像の地蔵があります。これは震洋艇の練習中、事故死した隊員を慰霊するためのものだと言われています。

 

ここから磯に下りるロープが残っていれば下りて、更に間近に袂石を見学することができます。干潮時は側に行って触れることもできます。

 

尾根の反対側には今でも震洋艇格納壕が複数残っており、デリック(自然、戦跡、ときどき龍馬-燈台から先の鉄板道 巻揚げ機)の残骸らしきものも横たわっていますが、基地の詳細と全容は拙著「四国の戦争遺跡ハイキング」を。

 

余談ですが、去年「坂本龍馬の帰国時の滞在所跡」を投稿した数日後、龍馬記念館館長から電話がありました。話によると、私が館や学芸員の悪口をブログで書いたり、出鱈目ばかり記述している、という報告が当の主任学芸員からあった、というのです。

 

まさにこれは寝耳に水のこと。その報告が嘘か誠かは当ブログをご覧になっている皆さんが一番承知のはず。

 

確かに龍馬の帰国時の記事については、複数の誤りがありました。それは当時、本の製作が遅れがちで、イライラしており、普通なら行う推敲を行ってなかったからです。しかし10日後位には全て訂正しています。

 

もちろん、館長は私がそんな下衆なことをする者ではない、ということは分かっているので、誤解を解くため、後日、学芸員から当方宅へ電話をさせるとのことでした。

 

しかし電話はありませんでした。私が龍馬関連の会を退会したため、もう関係なくなったので、仲直りする必要もないから電話する意味はない、と判断したのでしょう。

 

が、いくら会を退会しても、龍馬関連の研究をしている限り、どこかで会うことがあるかも知れません。私がその学芸員の立場なら、かつて毎月顔を合わせていた仲であるから、いくら退会したとしても、電話して蟠りを解き、どこかで再会する時は笑顔で挨拶することでしょう。まして全国の龍馬ファンに顔を知られ、毎月のように地元マスコミから取材を受けている立場であれば尚更。

 

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