坂本龍馬の求婚を断った女性の末路 | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

坂本龍馬のファンなら、龍馬が土佐在住時、「お徳」という女性に求婚したけれども、「龍馬さんは土佐にじっとしている人ではないから」ということで断られた、ということは周知のことと思います。
自然、戦跡、ときどき龍馬-お徳の晩年の住居跡

 

お徳は元々の名を「岩本徳」と言い、四万十市の旧中村城下横町に天保14年(1843)に誕生しました。

 

小さい頃より「美少女」として評判が高く、「中村小町」と呼ばれていましたが、13歳時、一家は高知市秦泉寺(地名)に移りました。

 

ここでもお徳の評判は高く、数年後には高知城下等から毎日、多くの侍等が来て、求婚したと言われます。その中に龍馬もいたのです。

 

司馬遼太郎の著書では、龍馬が童貞喪失した相手がお徳だった旨描かれているようですが、当然、そんな根拠はありません。ただ、生誕地の中村では、龍馬とお徳は男女の仲になったことがあると伝わっているのです。

 

その後、お徳は町医者だった父・里人に連れられて京都見物に行った際自然、戦跡、ときどき龍馬-川村宮司邸 、大坂の豪商・鴻池善右衛門に見初められ、善右衛門の妾になったと言います。

 

善右衛門死去後は元水戸藩士の野村宣之の妻になり、やがて宣之は高知市に警官として赴任し、お徳も共に高知に帰ります。

 

晩年、宣之死去後は故郷の中村に帰りましたが、住居は四万十川河原の掘建て小屋で、乞食同然の生活を送っていました。

 

晩年の性格は生活ぶりが影響してか、少々変わり者風で、四万十川の土手で大声を出して道行く人と口喧嘩したり、文句を言う等の姿が目撃されています。

 

そんなお徳を見かねたのが中村随一の神社・一條神社の川村宮司で、土佐の偉人・龍馬が恋した女性だけに、なんとか地元で救済しようではないかということで、募金を募り、天神山(現在の四万十市役所のある台地)麓にお徳の家を建て、毎日の食事も宮司が運んだと言います。

 

お徳は晩年も色白で実年齢よりも若く見えたと伝わっていますが、昭和1自然、戦跡、ときどき龍馬-お徳が日々利用した井戸跡 4年、97年の天寿を全うしました。

 

 

墓は市役所南方の樋口真吉等の墓のある羽生山にあるようですが、私は探すことができませんでした。地元の郷土史家も墓を確認しておらず、川村宮司の案内がないと分からないとのこと。

宮司は身寄りのないお徳の墓を自家の墓所に建立しているのです。

 

とは言え、宮司たちの浄財により建設されたお徳の家跡と、お徳が毎日使用していた共同井戸跡は見つけることができました。

 

場所は市役所北西隅下の三叉路から東に二軒目の民家です。その民家と西隣の「セントポーリア」の境界から、若干ポーリア寄りの道路側に井戸があったようです。

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