[なぜ招賢閣に×印があるのか]
坂本龍馬の脱藩古文書は「関雄之助口供之事」の「写し」のことを指すということは、皆周知のことと思う。
そして一ヶ所だけ、「違和感」があることも、誰が見ても明白。
そう、本文の最後から二行目の「招賢閣」に付けられた×印である。
この謎について、とうの古文書発見者である、愛媛龍馬会顧問の方の著書では、「招賢閣」と書いた後で、建物名よりも地名を記した方が分かり易いから、ということで、×印をしてその後に「三田尻」と書き直したのだろう、としている。
しかしこれはあまりにも不自然な見解である。なぜなら、土佐を始め、長州へ脱藩して入った多くの藩の勤王志士は、「招賢閣」に入り、ここで長州藩の思想を叩き込まれるからである。つまり、招賢閣は、あまりにも有名な施設なのである。
では、この×印の意味することは何なのか。そこでまず私は、この施設がいつ、建設されたものであるかを調べたのだが、この施設は飽くまで長州藩の三田尻御茶屋の付随施設である別館なため、詳細は判明しない。
そこで次に調べたのは、この名称は建物建設時にあったものか否かということである。これを調べると謎が氷解したのである。
実は「招賢閣」という名称は、龍馬が脱藩した文久二年には存在していなかったのである。勿論、建物自体は前々からあった。
この名称が付けられたのは、京で「八月十八日」の政変があって以降、つまり文久三年なのである。
この政変によって、京の尊攘派公卿七卿は都落ちすることになって長州に向った。その七卿が向かった先こそ、山口県防府市三田尻の三田尻御茶屋内招賢閣だったのである。
藩の方では、七卿を迎えるにあたって、相応しい名称を考え、付けたのである。これは私の推測ではなく、山口県側の文献にも記されていることである。
つまり、古文書を記した龍馬の義兄である高松順蔵(小埜)は、「招賢閣」と書いてしまった後で、龍馬の脱藩時にはその名称が存在しなかったことに気づき、×印を付け、「三田尻」と書き直した、これが最も自然な解釈ではないだろうか。
「三田尻」ではなく、「三田尻御茶屋」と書いた方が親切だが、文面を見ても分かるように、人名も苗字を省いている位だから、省略したのだろう。
また、この古文書の写しを偽物ではないかという輩もいる。
例えば文面の最後の方にある「自宅」という言葉は、この時代になかったのではないかとか、日にちの「二十七」は「廿七」とするのが正しいのではないか、ということ等である。
しかし明治期は新しいものが言葉を始め、次々と出現してきた時期である。「こんな言葉は存在しない」と言いきれることができるだろうか。
また「二十」と「廿」についても、藩政期の墓碑や道しるべ、絵図等に「二十」と記されているケースもあるのである。
それに脱藩道の人気も殆どなかった時代に、わざわざこんな偽物を作るだろうか。もし作るなら、人名は全て姓名を入れ、地名も高知城下から順を追って入れるだろう。×印を付けて、書き直す等というような、不自然なことをするはずがない。
更に署名には号の「高松小埜」ではなく、分かり易い「高松順蔵」と記すのが普通であろう。
と、いうような訳で、現在、脱藩道ガイド書最終章となる「長州・龍馬脱藩道(龍馬が辿った道Ⅲ)」を執筆中。
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