<日本初(世界初か)のUFO搭乗者は愛媛県民>
以前、テレビ東京の番組で、愛媛県はUFO出没多発地である旨、放送されていたことを述べ、各出没地を紹介したが、日本初、或いは世界初のUFO搭乗者も愛媛県民で、その時のUFO着陸地の地図を今回、ネット初公開する。
また、2007年に宗教的に開山された、古代ユダヤの「失われた十支族」の祭祀場(百合の宮)を擁す淡路島の洲本市にある通称「紫苑の山」(等高線標高80m)には、先祖が宇宙人だった記憶を持つ人物が複数来訪し、太古や縄文時代に、母星から宇宙船で逃れて来た旨、語っている。
(1) 縄文時代・紫苑の山(洲本市)
先祖の宇宙人が紫苑の山に降り立った旨、語る人物の中で最も有名なのは、ニュージーランドのワイタハ族のテ・ポロハウ長老。先祖の母星はシリウス星で、星人は龍族。一人一人に守護霊的な龍がついているというが、龍族の王は天皇の先祖であるという。

が、1,200万年前頃、シリウス星は昆虫型宇宙人に攻められたため、龍族の龍たちがその宇宙人には有害になるガスを吐き、「三次元の」生物は住めない星にしてしまった。そこで龍の鱗で造った宇宙船「ナ・ワカ・マラキーホ」に乗って脱出した。
その後、プレアデス星団、オリオン三ツ星、火星(地下に在住)と移住していき、何万年か後、淡路島の紫苑の山に降り立った。当時、まだ地球人はおらず、他の惑星から移住してきた宇宙人だけだったという。

また、紫苑の山を開山した魚谷氏の著書によると、徳島在住の女性の先祖の母星は、科学技術の誤用で爆発し、その直前に宇宙船で脱出。10年以上、放浪していたところ、地球からテレパシーで「私たちの星にいらっしゃい」という声が聞こえ、導かれていった先が紫苑の山だった。それが縄文時代なのだという。
「私たちの星にいらっしゃい」と発したのは、紫苑の山の山頂の一角にある縄文時代の祭祀場(開山後は「布留辺の宮」[ふるべのみや]として整備)で祭祀を執り行っていたシャーマンであるという。

布留辺の宮(上の写真)には、表面が一部、龍の鱗を彷彿させるようになっている磐座があるが、見る人によると、この石を囲むように筒状の光が天に向かって伸びており、この光に誘われ、今でもUFOがやってくるのだという。ユーチューバーの中にも、この光が見える者がいる。
紫苑の山の山頂手前は広大な削平地となっているが、これは関西国際空港の昭和62年の第一期埋立工事の際、尾根の二つのピークが削り取られたもの。が、山頂寄りの尾根は1万分の1の地形図を見ると、元々平地だった。

つまり、昭和50年代以前にUFOや宇宙船が着陸するとすれば、ここ以外にはない。但し、全長が100mを超えるような大型の宇宙船はスペース的に不可なので、通常の大きさのUFOか小型宇宙船になる。ただ、削平された現在なら、全長150m位の宇宙船でも着陸可。
紫苑の山の入山日は2~12月の毎月7日と決まっており、事前に魚谷氏の会社にファックスで連絡する必要がある。但し、魚谷氏の都合のつく日に限る。それ故、登山口やコースに関する情報は公開できない。

入山料は2,000円位だったと思うが、各宮(私設の簡易的なもの)での魚谷氏の話や歌が長いため、一日がかりとなる。しかし魚谷氏は今年で80歳。後継者はいるのだろうか。
(2)江戸初期・天来風伯神社(西条市)
この神社と逸話は前述のテレビ東京の番組でも紹介されたので、参拝した者もいると思う。
今から三百数十年以上前の藩政時代初期、夜中に空から光る物体が鍋のようなものに載って、現在、天来風伯神社が建つ地に、フワリフワリと降りて来るのを目撃した住民がいた。

現地に行ってみると、鏡と鍋の欠片のようなものとがあったので、ご神体として、天来風伯神社を建立したという。この伝承は、無人偵察用小型UFOが故障して、地上に落下してきた事等、想像される。
御神体は本殿に祭られていると思われるが、神事等でそれを見たという情報はネットにはない。科学的に分析できればいいが、御神体だけに不可だろう。

この神社のある地は分かり辛い、という者がいるが、地形図には神社マークと歩道が描かれているので、非常に分かり易い。
ただ、登山口付近の車道が、地形図やGoogleマップに記載のものは、現況とは異なっているため、地図に慣れていない者にとっては、やや分かり辛いかも知れない。そこで、登山口(武丈丸野線4号橋)の少々手前の道路から神社までのコースを記した地形図を添付する。

登山口の標高は約390m、神社は約490mなので、短時間で行ける。橋を渡った先の急カーブの内側にはかつて丸野集会所があったが、落石で潰れ、更地になったのだろうか。
2010年代まで居住していたと思われる伊藤家まで、歩道は舗装されている。
つまり今は廃村。因みに丸野集落で最も多い姓が伊藤姓。西条で伊藤というと、天正の陣時、金子備後守勢として戦った伊藤近江守を思い出すが、一族の末裔かも知れない。

植林帯に入るとほどなく、左手に石段が現れるので、上がると社殿が現れる。
拝殿手前の右側に三基並ぶ祠は「三社様」で、右端の祠はツチノコを祀る「七十五ソウ様」。
昔、集落の畑の隅の大石によくツチノコが現れていた。が、当時、「寸胴で短い気持ち悪い蛇」にしか思われてなかったため、耕作者は「下肥でもかけたろか」と言って、追っ払っていた。
が、その者の家に不幸が続くようになったことから、拝み屋に視て貰うと、ツチノコが怒って祟っているという。ツチノコの神霊は「我は氏神の門番もできるほど、位の高い者である。それをよくも恥かしめてくれたな!」と言ったことから、山伏に祈祷して鎮めて貰った。
(3)昭和4年・高忍日賣神社御旅所(松前町)
日本初のコンタクティ(宇宙人との接触者)として、一部で知られる天中童(仮名だがK氏のことか)氏の体験談については、昭和期に発行されたUFO雑誌「UFO contactee」(下の絵)や平成期の星野明彦氏の著書で紹介されているが、その体験地を「松山市郊外」と記述していたことから、ネット民等は松山市だと思い込み、UFO着陸地を同定できずにいた。そこで当方の出番となる。

天中氏が初めて宇宙人と接触したのは昭和元年の2歳時。ある夏の夜、就寝していると、なぜか優しい雰囲気に包まれた感覚になり、目が覚め、外に出たいと思い立ち、玄関の戸を開けると、身長が2m近い、20~30代位の宣教師のような服装をした青年が立っていた。
彼は優しく微笑み、天中氏を抱っこした。天中氏自身、それがとても心地よく感じられた。そして抱っこされたまま、近所の高忍日賣神社や墓地、湿地(現在は水田)等を散歩した。
それ以後、毎年夏になると数回、同時刻に青年は訪ねて来て、天中氏は不思議と目が覚め、抱っこ散歩を楽しんだ。

5歳時の昭和4年8月2日も21時過ぎ、玄関先で自分を呼んでいるような気がして、天中氏は目を覚まし、外に出ると、また青年が立っていた。が、その日は散歩ではなく、青年は「今日は面白い所へ連れて行ってあげるから、何でも見たいものがあったら、言ってごらん。」と微笑んだ。

天中氏が「キリンと鯨が見たい。」と応えたところ、青年は「じゃあ、見せてあげよう。」と言い、いつものように天中氏を抱っこし、墓地を抜け、水田の一角にある高忍日賣神社の御旅所に行った。当時の御旅所は今の倍以上の広さがあり、東側は湿地帯だった。そこには直径数十メートルの円錐形をした金属の物体があった。当時はUFOという言葉は勿論、「空飛ぶ円盤」という言葉すら日本にはなかった。

抱っこされたままUFO内に入ると、他の乗員の出迎えを受けた後、白い貫頭服に着替えさせられ、座席に座り、シートベルトを付けて貰った。
その後、南氷洋で鯨を見学し、ケニア辺りで象やキリンを見せて貰った。

UFOは更に北上し、砂漠に到った。そこには無数の切石で築かれた四角錐の巨大な構造物があり、その前には砂漠から頭部らしきものが突き出た、巨大な像があった。それは後年、エジプトのピラミッドと、首から下が砂に埋もれたスフィンクスだったことを知る。当時、海外旅行を楽しむ観光客は稀だったため、スフィンクスは整備されてなかったのである。
御旅所に戻った際、天中氏は青年から「あなたはアブラハムの子です。これは大事なことだから、よく覚えておきなさい。」と言われた。
自宅に帰ると8時間が経過しており、「神隠し」に遭った、と、騒動になっていたという。
翌年の8月2日もUFOに搭乗したが、行きたい所を聞かれると、通学している学校等と答えたため、近場を往復するだけだった。
三度目の搭乗は小学4年か5年頃(昭和9年か10年)で、青年に「綺麗な月に行ってみたい。」と言ったところ、「本当は、月はあんなに綺麗な所じゃないんだよ。」と言われ、UFOは東方に飛行して行った。

着いた所は笹原の高山の山頂だった。「ここなら月がもっと綺麗に見えるから。」と、促され、外に出てみると、非常に寒く、月を愛でる余裕はなく、すぐ帰った。
それもそのはず、そこは四国屈指の高山、標高1897mの瓶ヶ森だったのである。夜は夏でも流石に寝間着では寒い。
因みに平成期、単行本著者の星野氏が天中氏夫妻と瓶ヶ森に登った際、石鎚山上空を飛行していたUFOの写真を撮っている。
以上、久しぶりにUFO記事をアップしたが、6月22日に再手術&再入院するので、当該ジャンル記事をアップすることもしばらくないかも知れない。紫苑の山については、詳しい記事を後日アップしたいが、予定は未定。
入院中もアップして欲しい、という方は下のバナーを是非。

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