自然、戦跡、ときどき龍馬

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本物ノ安徳天皇陵ハ高板山中腹ニ在リ・其ノ三

<建礼門院のかんざしが出土した安徳帝高板山陵>

前回の投稿から期間が空いてしまったが、それは崩落箇所のある林道を辿らずに高板山(1427.1m)や安徳帝高板山陵に登るコースを未踏査だったため。

そのコースは林道(造林作業路・槍水線)終点(下の地図)から不動堂跡参拝道を登るコース。尚、今の時期、高板山は白ツツジこと、シロヤシオと赤紫色のツツジが咲き誇っていて、美しい。 

 

地形図「奈呂」にある廃村・槍水から北上する林道が造林作業路・槍水線。地形図では林道終点のやや手前から破線が不動堂跡の峠へと上がっているが、その道の最初の方は荒廃しているため、現在、林道の終点から上がるコースに変更されている。

地形図では峠の南側に神社マークが記載されているが、不動堂跡は峠の北側で、崩れた屋根だけが残っており、側には複数の記念碑が建立されている。登山道は堂跡の西側から上がっている。

地形図の破線は途中から尾根を離れて東側斜面を迂回するように描かれているが、そのコースは廃道同然で、本来の登山道ではない。山伏も登った本来の登山道は高板山まで、終始尾根上を通っている。標高1160mまでは急登が続く。

20分少々登ると、尾根道にいきなり自然石の手水鉢が現れ、驚く。弘化から嘉永年間の幕末に寄進されている。ここにあった石を掘ったものだろう。

それを過ぎるとすぐ、中身が空っぽの小堂若しくは小社が現れる。

不動堂跡から尾根道を登ること2時間弱でようやく、高板山南東の鞍部へと到る。ここを道標に従い、南に折れ、やがて林道に出る。これを下って行くと高板山中腹を走る林道に出る。

ここから安徳天皇高板山陵までは、分かる者なら分かる目印が付けられている。そこの林道合流地の南側の白いポールには、色が褪せて白っぽくなった赤い布テープ(リボン)のような物が巻き付けられているが、これが目印である。

それに従い、林道を東から西へと下って行くと、1176m独立標高点北西の林道分岐に達する。地形図では三差路になっているが、実際には四差路だったと思う。ここにも南側の林道の路肩のポールに、さきほどと同じ色褪せた布テープのようなものが巻き付けられている。それに従い、南に折れる。

200mほど進んだ谷の手前、林道と小径が交差する三差路の西側の白いポールにまた、例の布テープがある。これが最後の目印である。

植林帯の中を下って行くとすぐ奇岩と玉垣が見えてくる。玉垣には石段があり、それを上った所に鍵付きの扉がある。

扉の奥は二つの巨石が合わさって洞穴風になっているが、そこが安徳帝陵の本来の参拝所である。「安徳じゃが浮かびたい」(細川幹夫氏著)では、この巨石に人工的に穴を開けて貫通させ、巨石内から奥の陵墓を遥拝していた旨、記述されているが、見た感じでは、元々このような洞穴風に見える石だったように思える。平家の落人だけで石を貫通させることは、不可能に近かったのではないであろうか。

玉垣から奥の植林帯にはロープが二重に張られているが、天皇陵の上を踏まれないようにするためである。この陵墓が’90年代に再発見されるまでは、造林作業員らは陵墓と知らずに、腰を掛けて休憩していたという。

洞穴風巨石のすぐ背後の巨石は陵墓ではない。更に奥にある自然石による三段四角形の石組が陵墓(上と下の写真)である。最下段の石組は東西10mほどであるが、経年変化で土に覆われ気味であるため、明確な石組には見えない。元々は上円下方墳だったのではないかと言われている。

陵墓(下の地図)の西側は戦国末期に起こった土砂崩れで、端が崩れている。そのため、墳丘の形は明瞭ではない。

陵墓の北側に乳母役女官の墓、すぐ南西下には殉死した二人の女官の墓、北西には従者6名の墓があるというが、どれも墓碑がある訳ではなく、また立入禁止でもあるため、分かり辛い。

 

陵墓の北東上が仮御所跡だと言うが、横倉山のような明確な広い平地がある訳ではない。

尚、陵墓自体は’94年に再発見されたのであるが、昭和5年、陵墓から安徳帝が母の建礼門院から形見として受け取った金銀の二本のかんざしと、珊瑚細工の赤い玉が出土していたのである。

しかしそれを掘り起こした者が為近氏を始め、誰にも出土場所を明かさなかったため、陵墓が公にされることはなかった。

が、戦後、為近氏の長女が偶然、そのかんざしを掘り起こした者の家に嫁いで行き、たまたま、風呂場の天井裏でその二本のかんざしを発見したのである。

以後、かんざしは為近家に送り届けられ、今日まで大事に保管されている。全国の安徳帝陵墓参考地や伝承地でも、このような決定的な遺物が発見された例は極めて稀。安徳天皇高板山陵が本物と言われる所以の一つである。

早速、安徳帝陵墓を参拝し、シロヤシオが咲き誇る高板山に登りたい、という方は下のバナーを是非クリック。

天空の林道・上名野川線と猿越山(仁淀川町)

<天空を体感するなら猿越山へ>

近年、「天空の鳥居・土佐吾川版」で触れた、高知県仁淀川町の中津明神山(1540.6m)の8合目辺りから分岐して県境尾根を走る「林道 上名野川線」が「天空の林道」と呼ばれている。

確かに中津明神山から望見すると、大平原を走っているかのように見える。しかし実際に走ってみると、尾根の天辺を通っているのはごく僅かで、大半が尾根の東下の狭い箇所を走っており、東側の展望しか望めない場合が多い。

また、距離も3キロ少々で、路面の状態がいいのは、県境尾根の縦走路の登山口(標高1390m)がある箇所までの2.2kmのみ。この林道は将来的には、雑誌山下方を走る大規模林道に繋がるであろう。

林道だけなら、期待していたパノラマは得られないが、前述の登山口から20数分で登頂できる猿越山(さるごしやま・1436m)山頂とそこに到る尾根道からは、期待に応える大パノラマが広がっている。

尾根道沿いと山頂にはミツバツツジもあるが、昨日は辛うじてまだある程度咲いていた。

山頂からカラ池へと伸びる県境尾根を望むと、笹原のきれいな尾根道が付いているかのように見える。

ただ、カラ池や西雑誌山、雑誌山、東雑誌山へ登るには大規模林道や水の峠からのコースが楽。猿越山までの尾根道が森林限界を超えたパノラマが広がっていたから、県境尾根も大部分が、同様に大展望が広がっているものと想像できる。

尚、林道 上名野川線の幅員は、前半(ジグザグに下る部分)は中津明神山への道路よりは広いが、後半は中津明神の道路程度で、離合できる場所は限られる。

猿越山の尾根は、笹が膝位の高さまであるため、ロング登山スパッツ(ゲイター)かヤッケズボン等を穿いた方がいい。

 

また、コースと山頂、林道にはブト(ブヨ)が大量に飛んでいるため、山頂等で弁当を食べるのであれば、森林香を焚いた方が良い。以前も説明したように、殺虫剤は効くが、蚊取り器は全く効かない。

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レトロカーに乗って記念写真&プリンス社風マイカー

<一人で行っても記念写真を撮ってくれる>

西日本のレトロ&クラシックカーマニアならご存知、広島県福山市の福山自動車時計博物館だが、実は来館者が少ない時、記念写真を撮って貰えることがあるのをご存知だろうか。

 

当館のウリは「乗れ!見れ(見ろ)!触れ!写真撮れ!」。そう、大正時代から昭和40年代までの展示してある大半の国内外の車(企画展示車を除く)を触ることができ、写真に撮ることができるのである。

更に運転席側のフロアにスペースがある車には乗車して記念写真を撮ることも可。車内も触り放題。一人で来館した場合でも、来館客が少なく、係員に所用がなければ、カメラを預けて撮って貰えることがある。

 

因みに当方の場合、コロナウイルスの影響(緊急事態宣言前)で来館客は他にいなかった。但し、野外の観光地や行楽地は普通に人出があり、当時、マスクをしている者も殆どいなかった。

当方が記念撮影に選んだ車は、ダットサンスポーツ1000の後継車、初代ダットサンフェアレディ1200の北米向け輸出車、昭和36年製造のSPL213。世界で初めて認められた国産スポーツカーでもある。日本車は安価なところも好評だった。

因みに当時は「フェアレディ」ではなく、「フェアレデー」だった。

エンジンはブルーバードの1200CCをチューンアップし、最高速度も132キロまで上げた。テールランプは当時技術提携していたオースチンA50を流用している。

記念写真を撮って貰った後、「もう一台どうですか?」と言われたので、展示車の中では唯一のスーパーカー、後期型マセラティカムシンを選んだ。これはマセラティギブリの後継車。

カムシンは1973年から1982年まで製造され、スーパーカーの中では屈指の長寿。’77年に後期型になった。エンジンはギブリSSと同じ4.9LのV8 DOHC。

最高出力は320psに抑えられてはいたが、最大トルクは49.0kgmにアップし、最高速度は275キロを叩き出した。「サーキットの狼」にも登場している。

 

カムシンの撮影では失敗してしまった。車高とシートが低く、車窓の位置が高いため、ドアを閉じたままだとあまり顔が分からない。撮影は、ドアを開けて、立ち上がり気味のところを撮って貰うべきだった。「西部警察」や「ロボット刑事」(特撮モノ)等、刑事モノ番組の雑誌掲載写真によくあったポーズである。

館の車は各種映画にも登場しているので、映画ファンなら「スパイゾルゲ」、「力道山」、「瀬戸内ムーライトセレナーデ」の車で記念撮影することも(全て乗車できたか否かは要確認)。

勿論、戦前の車や日本陸軍のサイドカーでも、フロアにスペースがあれば乗車可。車以外にもジェームス・ディーンやエルビス・プレスリー、エイブラハム・リンカーン、ジョージ・ワシントン、マッカーサー、吉田茂、バラク・オバマ等の等身大蠟人形とも記念撮影できる。

展示フロアは広く、奥には国産の各種三輪自動車や360CC時代の軽自動車等が。但し、それらはスペースがないものが多いので、乗車も不可のケースが多い。更にその奥の移築された旧家内には、何十もの時計台のムーブメントや鎧等が。前者のマニアはいるのだろうか?

館内では国産旧車のプラモデルも販売されている。フェアレディ2000、ホンダS600、トヨペット・クラウン、ヨタハチ、ベレット1600GT、日野コンテッサ1300、各種三輪自動車、プリンス・スカイライン、プリンス・グロリア等々。

館外の展示場にはボンネットバス群も。中には木炭バスも。更に屋外には、両備軽便鉄道の機関車の実物大レプリカまである。

ところで、プリンス自動車時代のスカイラインとグロリアは初代モデルがマイナーチェンジして2灯ライトが4灯になったが、当方の今のマイカーは、フロント部をその4灯式ライト・モデルに改造した軽のハコバンである。

これも前乗っていたシトロエンバス風のハコバン同様、そういうキットが販売されており、近くのレストア等をやっている自動車整備工場に依頼し、取り寄せて取り付けて貰ったのである。

リア部は流石にその二車風にすることは不可故、それとは別のパーツを取り付けている。たとえ現代の車に乗っていても心はレトロ(?)。

「トヨタ・クラシック」や「トヨタ・オリジン」のような復刻車風の車(トヨタ2000GTやケンメリ2000GTR復刻車は以前紹介済)が欲しい、という方は下のバナーを是非クリック。

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本物ノ安徳天皇陵ハ高板山中腹ニ在リ・其ノ二

<阿佐家・平家の赤旗の真実>

本物の安徳帝一行は祖谷に入る前、西日本第二の高峰、剣山の岩屋に籠り、文治元年年末まで居たが、寒さと飢餓のため下山する。剣山には以前も触れたように帝の刀掛の松や宝剣を埋めた宝蔵石、髪を禊いだ御神水(おしきみず)、平家の馬場等、各種伝承地が残っている。

 

下山して古見に到った頃には、一行は餓死寸前だったが、帝の愛馬・銀駒が倒れたので皮を剥いで食した。その皮は「馬皮神社」として祭った。帝は轡と手綱を銀駒の形見として、潜幸時も放さなかったが、その二点は現存している。

一ヶ所に長居は禁物なため、祖谷へと入る。東祖谷の栗枝渡では、侍従の一人が亡くなったため、火葬したというが、恐らくこれは、八幡神社背後の「安徳帝御火葬場跡」のことであろう。

 

源氏の追手から逃れるため、潜幸中に亡くなった従者らを安徳帝に仕立てたのではないかと思われる。因みに納骨所は西谷八幡の地だという。

文治2年3月、一行は栗枝渡を後にし、遂に土佐に入国する。三嶺の登山口がある西熊から笹に移動し、笹川の岩屋に居住したが、手狭なため、随行していた武士らは山を登り、笹川西方に君佐古城を築いて帝を迎えた。

 

しかしここでも長期過ごすことはできず、遂に高板山中腹の赤牛(あかぎゅう)へと至る。ここには平地もあり、沢の水の豊富だったことから、仮御所を建設し、侍従や家臣団も周辺に住居を建て、田畑を耕し、安楽の地となった。

が、そんな生活は突然一変する。その年の夏、帝は病にかかり、高熱にうなされることになる。そして8月15日、看病の甲斐もなく、崩御された。数えで10歳(満8歳)の短い生涯であった。

 

帝は乳母役の女官らが離れた間に崩御され、女官らも当初、帝が眠っているものと思っていた。それ故、責任を痛感し、女官2名、雑士女1名、侍従5名も殉死した。

その後、帝に随行してきた武者たちは帝の形見分けの品を受け取り、土佐と阿波へ四散して行った。門脇中納言(下の画像)は馬路村魚梁瀬へ、小松一族は香美市物部町別役、久保一族は三好市東祖谷久保へと落ちて行った(他の有力従者は割愛する)。

 

残りの遺品は藤原知康が保管し、一族と共に大豊町豊永西峰に落ちて行った。そこで5年暮らした後、再び香美市物部町に戻り、楮佐古に移った。

しかしここでも源氏の追手を警戒して5年後、物部町神池の当時下池村と呼ばれていた地に移り、「下池為親(ためちか)」や「下池知康」と名乗った。後裔の為近氏の苗字は前者の下の名に由来している。

 

為親がその地で没すると、京都に在住していた子息の重高(壱岐式部中納言)が跡を継ぐことになり、下池村に来て、安徳帝陵守護を受け継いだ。

重高は梶原城を築き、父の遺志でもあった帝の御陵の代りとなる御陵八幡宮を城内に建立し、五色錦の赤旗と帝の遺品も城内に運び入れた。この時姓を「山内」に改名している。

 

しかし重高の子、若しくは孫が城主の時代、鎌倉幕府方に城を攻撃され落城。一族は皆殺しにされる。そこで重高の孫の一人、国義が山内家を継ぎ、城の名も山内城、後に安丸城と改称した。

 

時代が下り、安丸孫四郎が城主の時代、大飢饉が連続し、安丸一族も疲弊していた。そこで孫四郎は家宝の一つ、五色錦の赤旗を安徳帝従者武将の一人で、阿波に移り住んだ平国盛子孫の阿佐家へ持参し、食糧と交換して貰ったという。この逸話は阿佐家にも口伝されている。

 

阿佐家には大小二流の平家の軍旗が現存しており、日本最古の軍旗とされているが、孫四郎が持ち込んだのは大きい方、縦3メートル、横1.1メートルのもの。

但し、源平時代のままの状態ではない。天正13年、蜂須賀家政が国主として入国すると、旗印として反乱の恐れあり、ということで二流共、没収されてしまった。しかし家政がその価値を認め、表装して「大切にせよ。」と返却してきたという。

余談だが、以前紹介したように、阿佐家の祖谷川を挟んだ北側の旧喜多家(宝暦13年建築)横には、国盛が宮島の厳島神社から拝領した御鉾を埋めた後、植樹した鉾杉が威容を誇っている。→阿波一の巨杉から犬山へ

 

次回、崩落した林道を迂回して安徳帝陵へと登るコースをネット初公開する(飽くまで予定)。

 

参考文献「安徳じゃが浮かびたい」(細川幹夫氏著)

「祖谷の語りべ」(森本徳氏編著)

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本物ノ安徳天皇陵ハ高板山中腹ニ在リ・其ノ一

<帝が昭和22年に現れた訳とは>

現在、高知県香美市と大豊町の林道が崩壊して登山者数が激減している高板山(1427.1m)だが、山頂西方の二ノ森頂上部を安徳帝陵墓とする説が昔からあった。

 

が、それについては注目されることなく、中腹の赤牛という地で’94年、安徳天皇高板山陵が約400年ぶりに再発見されたことがテレビ高知のニュース番組等で取り上げられた。

’10年代等には自治体が見学ツアーを開催したが、なぜかネット等で取り上げられる機会は極めて少ない。

ところで皆さんは、全国に無数に存在する安徳帝陵とされるものの内、宮内庁が陵墓参考地にしているものが、信憑性が高いのでは、と思っていないだろうか。それは大きな間違いである。

 

本来、全国各地にある安徳帝陵伝承地は、墓守等管理者は代々、口外を固く禁じられていた。管理者や世話人の多くは、安徳帝従者の平家の武将や、現地の平家方の土豪の末裔で、中には安徳帝潜幸と陵墓のことについては、一子相伝の口伝としていたケースもある。

にも拘らず近代以降、宮内庁が陵墓参考地に指定した地等の関係者は「禁」を犯して公表してしまった。郷土史研究や安徳帝研究の立場からすれば、これは歓迎されることであるが、見方を変えれば、安徳帝への忠誠心をなくした反逆行為とも言える。

 

安徳天皇高板山陵についても、その所在や伝承については一子相伝として秘匿されてきた。故に戦国時代後期以降、所在が分からなくなっていたのである。

そんな中の昭和22年のある日、安徳帝高板山潜幸時の責任者だった藤原知康壹岐判官の末裔、為近氏は日中、うたた寝をしていた時、奇妙な感覚に見舞われ、「安徳じゃが、浮かびたい。」という子供の声を二度聞く。

 

この体験に何かを感じ取った為近氏は父親にこのことを話すと、先祖代々一子相伝の「伝承」を聞かされることになったのである。

藤原知康(光家)は平清盛に仕えていたが、平家が都落ちして以降も付き従った。そして一ノ谷の合戦で平家方が大敗を喫して讃岐・屋島に敗走した翌月の寿永3年3月25日、知康は平家から本陣の「五色錦の赤旗」と平家の家紋入りの鏡を託されると共に、安徳天皇とその従者、総勢12名の守護を依頼される。

 

但し、帝は屋島の行在所ではなく、従者らと共に平家の本陣に居たとされる。

そこでの生活が1年近く経った寿永4年2月17日、帝は屋島の内裏にいる母君、建礼門院に会いに従者らと出向いた。

が、その翌日、若しくは19日の未明、源義経軍が屋島を目指して進軍している知らせを受け、安徳帝と建礼門院は引き離されることになる。別れ際、建礼門院は「これを母だと思って。」と、自分のかんざしと珊瑚細工の赤玉を帝に渡した。

 

安徳帝一行は遍路姿に変装して阿讃山脈へ登り、阿波へと逃れた。阿波では建礼門院付きの武将、平教経(阿波では「国盛」と名乗るが、別人説もあり)や教経の父である門脇中納言教盛とその一族の門脇家とその分家、久保家の武者らと合流する。元々、阿波に逃れて落ち合うことを取り決めていたのである。

尚、教経はご存知のように、一般には壇の浦の合戦で義経を追って闘いを挑むものの、八艘跳びで逃げられたため、安芸太郎・次郎兄弟を両脇に抱え、道連れに海に飛び込んだ、とされる(上の画像)。

 

因みに「平国盛」の名は、安徳帝祖谷潜幸伝説には出てくるが、横倉山潜幸伝説には登場しない。横倉山中腹に平教経の墓あり。馬路村の魚梁瀬には平教経一族の屋敷跡(下の画像)もある。

阿波では源氏の追手を攪乱するため、帝の替え玉を立て、二手に分かれて行動することにした。知康とその一族の藤原家及び久保家が本物の帝を守護し、小松家と門脇家は帝の替え玉と共に阿波の山中深くに分け入り、祖谷へと至る。

 

阿波の潜幸ルートは、祖谷潜幸伝説ルートに似通っている。

次回、帝の最期と殉死する従者たちが・・・。

 

参考文献「安徳じゃが浮かびたい」(細川幹夫氏著)

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