言葉と音で綴る 素敵LIFEダイアリー from 神戸 -9ページ目
学生生活が始まってから、
2ヶ月が経過しました。
これまで12年近くの間、
自宅近くの職場に居たため、
自転車または徒歩による通勤でしたが、
この4月からは、
路線バスと地下鉄を利用して
通学しています。
公共交通機関を利用しての行き来は
久々で、
この12年の間に乗り物にも
めっきり弱くなってしまっていたため、
通学を始めた頃は、
バスに乗っている間に、
途中でしんどくなったりしないかな
気分が悪くなったりしないかな
という心配を
特に往路の間にしていましたが、
何事も慣れのようで、
そんなことはない、大丈夫!
ということを身をもって体感したことで、
そのうち、上記のような心配をすることは
ほとんどなくなりました。
すると、わたし自身の中で
ゆとりが少しずつ生まれてきて、
周りを見渡せる余裕が出てきました。
朝、路線バスのバス停で、
バスを待っているメンバーが
いつもほぼ同じ顔合わせであることに
気づきました。
そのうち、
高校生の男女のペア、
カップルと呼んで良いのか分からない
男の子と女の子のペアと一緒になることが
多いことに気づきました。
そう、
この高校生の男の子と女の子のペアを
果たしてカップルと呼んで
良いものなのかどうか、
いつも心密かにどうしたものかと、
考えております。
バス停には、
わたしが先に着いていることが多く、
バスが来るまでは
本を読んで待っていて、
わたしの次くらいに
彼らがバス停にやってきます。
観察をしていますと、
いつも男の子が女の子の1メートル程前を
歩いていて、
女の子がそれに従うように、
彼の後ろをついてきているように見えます。
しばらくすると、バスがやってきます。
わたしが先にバスに乗って、
座席に着きます。
そして、ふと、
チラリと見てみますと、
男の子は女の子が座席に座ったかどうかを
見届けているようなのです。
場合によっては、空いている席を見つけて、
彼女に座るよう促しているようにも
見えます。
そして、彼は離れたところで
立っているのです。
男の子も席が空いていれば
座っていることもあるのですけれど、
なかなかステキな彼なのです。
帰りも、彼らと一緒になることがあり、
帰りは男の子一人のときもありますが、
やはり帰りも行きと同様で、
バス停を降りてからは
男の子が先を歩き、
その後ろを女の子が1メートル程空けて
歩いていきます。
お似合いなカップルのように
見えるのですけど、
カップルではないのかな?
兄妹なのかな?
「兄妹かも」という発想は
たった今までなかったのですけど。。
カップルだとしても、
カップルではなくても、
兄妹だとしても、
兄妹ではなくても、
傍から見ていますと、
なんだかキュンとしてしまうような
光景なのです。
老婆心ながら、
彼らのゆくえを見守っている、
今日この頃です。
中学入学以降に出会い、
お付き合いをはじめた方々は
どなたもご存じでない、
小学校卒業直前の頃までの
わたしの過去のことです。
わたしは、今でこそ、
時と場合によって右手と左手を
使い分けていますが、
元々は左利きです。
左利きを右利きに矯正するため、
確か、4歳か5歳頃から
絵画教室に通い始めました。
そうです、わたしは、
ピアノを習い始める前に、
先に絵を習い始めていました。
人物画を描くのは苦手でしたが、
風景画を描いたり、
アタマの中にある「世界」を
紙上に落とし込んで描いたりすることが
好きだったように記憶しています。
小学校にあがってからは、
少女漫画の「りぼん」に出会い、
いつもお小遣いを握りしめて
「りぼん」を買いにお店に行くことが、
楽しみになりました。
そして、当時、
「りぼん」に連載中だった、
池野恋先生の「ときめきトゥナイト」の、
ファンタジーの世界に夢中になりました。
ストーリーもさることながら、
絵がとってもかわいくて、
すぐに大好きになりました。
やがて、
自分も、こんなふうにかわいい絵で
物語を描いてみたいと思うようになり、
漫画を描くようになりました。
絵画教室はというと、
書道教室での訓練により、
文字を書く際は、左手ではなく、
右手で書けるようになりましたが、
絵となると、
どうしても左手でないと描けなかったこと、
また、絵画教室では、
別の曜日にそろばん教室を
されていたことから、
小学校2年生のときに絵画教室をやめて、
そろばん教室に移ることになりました。
絵画教室はやめたものの、
絵を描くことは続けていました。
むしろ、それまでよりも、
「漫画漬け」の毎日になっていました。
らくがき帳と自由帳、鉛筆に消しゴム、
そして「りぼん」と
「ときめきトゥナイト」のコミック本が
わたしにとって必携になりました。
とりあえず、
らくがき帳と鉛筆があればOKで、
時間さえあれば、
漫画描きに没頭していました。
祖母も、よく、
らくがき帳を買ってくれていました。
祖母のお家に遊びに行くと、
折り紙等と一緒に、
新しいらくがき帳も用意してくれて
いることがありました。
それだけずっと、
漫画を描いていたのだと思います。
絵を描いているときは
ただひたすら物語の世界に夢中になれて、
時間もあっという間に過ぎ去って
しまっていたように思います。
そんなわたしでしたが、
小学校卒業直前に、
漫画を描くのを
パタリとやめてしまいました。
小学校6年生のとき、
記憶が断片的に
なってしまってはいるのですが、
自分が漫画が好きであることを
恥ずかしいと思う出来事があった。
そして、酷く心が傷ついた。
そして、漫画を描くのをパタリとやめた。
覚えているのは、これだけです。
本当は大好きなことのはずなのに、
どうして恥ずかしいと思ったのだろう。
それからのわたしには、
なくてはならなかった
らくがき帳も自由帳も
必要ではなくなってしまいました。
わたしが漫画を描かなくなった当初、
母も祖母も何も言わなかったように
記憶しています。
時間さえあれば、
没頭して取り組んでいたことなのに
何の音沙汰もなく
突然やめてしまったために、
なにか感じるところがあって
声もかけられなかったのかも知れません。
その後、
わたしは絵や漫画を描いていたことを
誰かに話すこともなかったように
思います。
大好きだったことを、
黒歴史として心の深い底に押し込め、
封印してしまったのです。
でも、本質的に
少女漫画は好きでしたので、
中学入学後は、読み手専門で、
漫画を読むようになりました。
月日は流れ、
このほど、前職を退職する前のある日、
あるイラスト集を眺めていたとき、
母に言われたのです。
昔、あんなに山ほど絵を描いていたのに、
どうして絵を描くのをやめてしまったのか。
続いていればよかったのに、と。
そして今、通っている学校では、
デザインを学ぶ授業があることもあり、
すでに芸大や専門学校で
デザインの勉強を経験済の方や、
アニメや漫画が好きな方、
絵心のあるクラスメイトが多く、
ふと、頭によぎったのです。
今のわたしの心の中には、
絵として紙に落とし込んでみたい情景が
たくさんある。
これらを絵として描けないだろうか、と。
スケッチ帳と鉛筆で
なんとかならないだろうか、
でも、イメージする情景を
いざ絵にしようとするとして、
いったい、どういうふうに描いていったら
いいのだろう?とも。
手段や段取りがすっかり
分からなくなってしまったけれど、
否応がなく絵心が求められる
環境に身を置いたために、
葬り去ったはずの過去の封印が
解けてきたのかも知れません。
本当は、大好きなことだったから。
あれから随分経ってしまったけれど、
もう一度、絵を描いてみようかなと
思い始めた今日この頃です。
中学生のとき、
夢中になって観ていたドラマがあります。
フジテレビ系列で放映されていた
鈴木保奈美さん主演の「ニュースの女」です。
大手テレビ局・チャンネル2の
看板ニュース番組「イブニング・ニュース」
のアンカー(メインニュースキャスター)
への就任が決まった麻生環は、
国際政治学者の恋人との結婚も決まり、
公私ともに順風満帆の
真っ只中にいたものの、
イブニング・ニュースのアンカー就任1日目に
結婚したばかりの夫が
交通事故で亡くなって・・・
というところからストーリーが
展開していきます。
環はサバサバしていて、
少々気が強すぎる性格(わがまま?)の
ような気もするけれど、
いきいきとしながら仕事をこなす様子や、
ジャーナリストとしてのプロ意識の
高さや使命感、
アナウンス技術の高さから、
周りの同僚や上司も環の仕事ぶりを
認めて評価しており、
また、夫の死により
同居することとなった夫の連れ子や
弁護士をしている夫の友人も
次第に環を応援するようになるなど、
「ドラマの中のおはなし」ではあるものの、
環の姿から、
仕事をするとはどういうことなのか、
伝えなければならない情報を、
必要な人に向けて、正確かつ正直に
伝えていくことの大切さ等々を
学んでいたように思います。
1998年放映ですので、
その頃と現在を比較すると、
情報発信の手段は随分様変わりし、
今や誰もがネットやSNSを通して
情報発信できるようになり、
メディアから発信される情報も
テレビや新聞のみでなく、
ネットから欲しい情報を欲しいときに
得られるようになりました。
これだけ大量のニュースが毎日止めどなく
発信され続けていますと、
すべてのニュースを
丸々鵜呑みにするのではなく、
ある特定の事実について、
本当に「真実」を伝えているニュースか、
あるいは、
その「事実」に対して記者が
ご自身の「私見」を述べている
ニュースなのかなど、
情報の取捨選択をするための
真実を見極める目を持つことが
大切な時代になったのではないかと
感じています。
人間はどうしても自分の考え方に近い
情報を探して集めようとする機能が
働きがちで、
第三者的な視点を持って
物事を見極めるということは、
高度なことですし、
また、さまざまな考え方をあることを
知ることも大切なことながら、
事実に対して自分は
どう思うか、どう考えるか、
といった点が大切なのではないかと
考えます。
そして、私自身は、
仕事で報道の業務に携わったことは
ありませんが、
これまで自分が広報担当として
仕事で情報発信する側に立っていたときは、
基本的にはマイナスな情報を発信する
機会がなかったということもありますが、
所属していた組織の性格や
情報を受信していただきたい方々が
どういった情報が喜ばれるかを考え、
発信した情報を受け取られた受信者にとって、
その情報を受け取ったことにより、
「なにか良いこと」があること。
かつ、
発信した側にも「良いこと」があれば良いな、
といった思いで携わってきました。
事実は事実として
正確に伝えなければならないという
使命を全うするとともに、
自らが発信した情報、
また、その言葉の数々によって、
誰かを温かな気持ちにできたり、
今よりももっと「良いこと」が
双方にもたらされるような情報発信を
していける広報パーソンでありたいと
思っています。
私は3月末付けで前職を退職し、
4月から学生生活を送っておりますが、
これまでの経験にさらなる積み重ねを
図っていくとともに、
新たな視点を積極的に取り入れ、
より幅広い視野と関連の技術を
合わせ持った広報パーソンになることを
目標に切磋琢磨していく所存です。
自分が発信して情報によって、
あるいは、
私にできることで、
誰かを温かな気持ちにできたり、
双方にとって喜びや今よりもさらに
「良いこと」をもたらすことが
できるようになることを願って。
いよいよ今週から
17年ぶりの学生生活が始まりました。
起立、礼、着席という号令に日番、
避難訓練等々、
本当に「ザ・学校」で、
それらすべてが懐かしく、
なによりとても新鮮で、
久々の学生生活を満喫しています。
それもこれも、
私たち学生に不利益なことがないよう、
常に私たち学生のことを
熱心に、1番に考えてくださり、
温かく、やさしく、そして、
しっかりとした確かなサポートを
してくださる先生方に囲まれていること、
そして、
同じ、または似た方向の目標を持ち、
ともに机を並べる同期生のみなさんも、
温かく、やさしく、
学生生活が始まって数日ではありますが、
学校に居る間は、私自身も
楽しく、温かく、穏やかな気持ちで居られ、
帰宅後、夜には、
「明日はどんな1日になるかな」と、
明日を楽しみにしながら眠りにつくという
日々になりました。
正直、つい数ヶ月前までは、
このような満ち満ちた、
とても幸せな気持ちを
ここまで感じられる生活がやってくるなんて、
想像すらできませんでした。
夜は眠れない。
ああ、1時か、
ああ、まだ2時か、
バイクの音がする、新聞配達かな、
ということは、3時半か、
うーん、4時過ぎ、
起床時間まであと少し、
少しだけでも寝たいなと、思っていたら
ようやく少し眠れた、
といった日々が続いていました。
朝、出勤時には
ああ、行きたくないと思い、
職場の建物の中に入っていくときは、
足取りも重くなり、
自席に近づくに連れて、
空気が薄くなっていくような感覚。
そして、自席では、
なんとも言えない息苦しさ。
いつも「構えて」いて、
常に過度に緊張している状態。
そんな状態だったのが、今はどうか。
なんと、温かな、穏やかな、
やさしく、柔らかで、熱心な、
心地よい空間。
「明日も楽しみ」と思う夜。
私にとって、
職場は「戦場」だった。
職場に着て行く服は「戦闘服」だった。
そう、私は、
職場で常に「戦っていた」。
だから、苦しくて、辛かったのだと、
環境が変わったことで確信しました。
今は、
温かくて、やさしい先生方に
守っていただいている、
温かな、穏やかな、心地よい環境に
身を置けていることを
本当に恵まれていると感謝しています。
身を置く環境は、本当に大切、
こんなにも変わるのですね。
この1年は、
神様からいただいた貴重な1年と思い、
さらなるスキルアップをはかり、
バージョンアップして実務の現場に
戻るべく、
できる限りの勉学に励みたいと思います。
私事で恐縮ですが、
本日、令和3年3月31日付けで
12年半、勤めた会社を退職いたしました。
数年前から「いつかは」と、
「卒業時期」について考えていましたが、
なんとなくながら今のままだと
心に思い描く未来は来ないだろうと
思いつつも、
かといって、
これといった決定打もなく、
なかなか踏ん切りがつかずにいました。
13年近く同じ場所で、
ほぼ同じ業務に従事していたことで
社内外の多くの方々とつながりができ、
その方々に、
さまざまなことをお教えいただいて、
育てていただいたからこそ
今の自分が在るのであり、
仕事においても、
決して私一人で成し遂げられる業務は
ほぼなく、
その周りの多く方々に、
お力になっていただくなど、
たくさんのお支えをいただいたからこそ、
遂行できていたわけであり、
できれば、逆に、
その方々のお仕事において
プラスとなるような、
お役に立てる、お力になれる仕事をしたい
という希望を持っていたことが
残り続けることにした
大きな理由のひとつになります。
しかしながら、今思うと、
退職を決断するに至るような兆候は
3年前から始まっていたのかもと
思うようなことが起こり始めており、
特に、
2019年度は私自身の体のことで、
これから先の人生の生き方を
真剣に考える機会があったこと、
体は無事ながら、そうこうしていると
今度は新型コロナウイルス感染症により
世界が一変、
いくら感染予防に努めていても、
いつ我が身も身体的・経済的に
どうなるか分からない世の中になったこと、
なによりも、
2020年度にはコロナに加え、
職場内の環境が大きく変わり、
今の状況・環境では、
自分にできることで、
お力になりたいと思う方々にとって
お役に立てるような働きは叶わないと悟り、
それなら違う場所で
それが叶えられるように
パワーアップして、
そうなれるようになったらいいのではないか。
との確信を得たことで、
このたびの決断に至りました。
末付けの退職ながら、
事実上は3月の半ばには退き、
有休消化、
その後は、
お世話になった方々のお手元に
3月末頃に届くよう、
退職をお知らせするための挨拶状を
したためていました。
一般的には、退職日の2、3週間前には
退職のごあいさつをするものですが、
会社から3月末までは
公表を差し控えるようにとの指示を
受けていたため、
メールでご連絡したり、
電話を差し上げることも叶わなかったため、
おひとりずつ、
手書きで個別にお手紙をしたためることに
しました。
本当は直接ごあいさつしたかった。
ところが、
ごあいさつできなかったどころか、
建物の外の方々からしたら、
私はある日突然
いなくなった人になっている。
最後にお声が聞きかった。
会うことも叶わない。
話しもできなかった。
辞めると決断して、
とても清々しくあったけれど、
一方で、切れたくないご縁が
こんなにあったなんて─
決断するということは、
良いことも悪いことも全部
まるっと引き受けることなんだと、
痛いほど感じました。
まるで
一気に結構な数の方々と
失恋したかのような感覚でした。
せいせいした気持ち半分と、
ぽっかりと、とてつもなく大きな穴が
空いた気持ち半分。
そんな状態の中、
お一人おひとりを思いながら
手紙をしたためる時間は、
まるで写経をしているかのような、
心落ち着く時間でした。
お手紙をしたためながら、
それぞれの方との
これまでのやりとりや思い出を
思い出しながら、
それらを便箋上に文字にしていく作業は、
心の澱みを洗い流し、
心にぽっかり大きく空いた穴を
埋めていくような作業でもあったように
感じます。
むしろ、感謝の気持ちが溢れてくる
温かな時間となりました。
3月末になり、お手紙を投函、
お届けしたかった方々の
お手元に届いた模様です。
退いた当初は
一気に結構な数の方々と
失恋したかのような心境でしたが、
退職して場所は変わっても、
つながり続けることのできるご縁も
あるんだなということを
今は感じています。
そして、4月からは、
これまでの経験を活かしつつ、
さらなるパワーアップを遂げるため、
1年間、実務の現場からは離れて
現場ですぐに役立つ技術を身につけるべく、
1年間、学生になることになりました。
お力になりたい方々の
お役に立てるような仕事が
今よりも、もっともっとダイレクトに
できるようになるために。
そして、これから新たに出会う方々の
お力になれる仕事が
できるようになるために。
長くなりましたが、
より一層、
努力してまいる所存ですのて、
今後とも変わらぬご指導・ご鞭撻を
賜りますよう、
よろしくお願い申し上げます。
令和3年3月31日
Erika

