
挑戦状
今年も多くのスタッフ候補がアルバイトとして採用された。募集で来る多くの場合は、大学生や専門学生などの学生さんである。
特に場所柄と縁なのか、関学と神戸大学の学生さんが比較的多く来てくれる。卒業生は通算100人以上いるだろう。
そして、多くの場合、そのまま卒業まで働いてくれて輝かしい企業に就職されて、店に遊びに来てくれるのである。
その他、専門学校生や、高校生なんかもいる。最初に働いた子は、居心地がいいのか、ほとんどが最後卒業まで働いてくれている。
しかし、こうして数多くの学校が当社で働いてくれてる中、ただ一つ相性が悪い大学がある。
K学院である。
K学院は当店からも比較的近くに位置しているせいか、その学部の子からの応募が多々やってくる。
しかし、何故だろう・・・その大学の子で、1か月持ったことはない。
一人二人の話ではない。相当の人数を採用してきたが、
誰一つとして2週間の研修期間すらクリアできず、辞めてしまうのだ。
何故だろう・・・
うちが、よほど厳しければ理解もできるが、内はスパルタでも昭和の教育スタイルでもない。
同時期に入ってきた他の大学の学生は少なくともよほどのことがない限り殆ど辞めることはないことから考えれば、統計学上も有意な差として結論できるレベルである。15年以上の記録上、誰一人として1か月持たなかった。去年も複数人、オープニングスタッフという比較的美味しい条件で採ったが、ものの見事に2、3回目の研修で全員が脱落した。研修としても非常に優しい指導期間である。以上の事から、もうK学院を採るのをやめようと学校フィルターを付けようかという話になった。何故なら、教える分時間とコストの無駄であり、何の役に立たない教育期間でも時給は発生するからだ。
しかし、学校フィルターというのは、差別につながり、やる気重視の企業理念としても全くそぐわない事から今年も複数人採用することになった。GW明けである。そして念のため、彼らには警告を出しておいた、「かつての君たちの先輩で誰一人として研修期間を終えたものはいない、もし終えたらそれが初になると・・・」これにより、学校の名誉をかけて一発奮起してくれよと期待を込めてだ・・・そして6月になろうという前、見事に全員いなくなった。研修としては1、2回しただけである。見事にまた裏切られた・・・。なんたる様か・・・一体、この記録はいつ破られるのだろうか。
そして炎上覚悟でこのブログを書いている。
聞いてくれ、K学院の諸君。もし君らに誇りと志があるのなら、当店に働き、最低1年間働いてみないか、もしK学院で見事研修も終え、1年間見事に働いてくれた人がいたなら、賞金として5万円進呈しよう。これはK学院限定の破格の提案である。
1年間頑張れば、K学院に対する不名誉な記録は止まり、賞金が手に入るのである。時給は飲食店で破格の1300円!交通費も支給、豪華なまかないも支給である。(細かい条件は後程聞いてくれ)
これで文句はなかろう。さて、我こそはと志あるK学院のツワモノよ、神戸の長田タンク筋の板場に
「出てこいや!」
1,17 天災に備えるべきこと。
1.17 午前5時46分 黙祷・・・
震災から30年、テレビは震災の特集が流れるばかりだ。
まともに見ていると何回涙があふれてくるかわからない。
そしてステレオタイプにテレビはこう締めくくる
「あの時の事を忘れない、あの時のことを伝えていく」
なるほど、それもいいだろう。たくさんの犠牲の元に
我々は生かされており、犠牲者の尊い命の鎮魂と平和と安寧を
当たり前と思わずに感謝し、祈る事は重要なことに違いない。
しかし、こんな暗くて悲惨な話を子供らに聞かせても、テレビを見せても
全くと言っていい程興味を持たない。
自分が子供の頃、校長先生がしてくれたシベリア抑留の話や満州の話、
神戸大空襲の話をお年寄りが語り部のようにしてくれたが、自分は我関せず
鼻をほって聞いたふりをしてた。
それよりも、長田神社の前で、切断した片足で立っている軍服を着たオジサンの
姿の方が、生々しく何か得体のしれぬリアルを感じ心に響いた。
怒る人がいるかもしれないが、あえて極端な言い方をすると
現実、大上段に構えた震災のらしい教訓は、一部の子供たちにとっては、
全く興味のない話で、押し付けられるような昔話なのである。
阪神大震災の教訓を語り継いで、語り継いで30年の間に
おこった、東日本や能登の地震の際にそれは役に立ったのだろうかと心から思う。
あれだけ、大きい家具を置くなと言ったのに、下敷きになってしまう人がいるのか。
日本のどこでも地震はありうるとしながら、何故、教訓は完全に生かしきれないのか。
そして控えている南海トラフ地震
その時、生かせる教訓とは何か、自分が経験した中でこう備えるべきを書き連ねておこうと思う。
いつか誰かがこの文章を見つけくれて参考にしてくれれば幸いである。
1震災~直後
まず超初期段階の地震の時、これがなかったために往生したもの、あったらよかったものを列挙する。
この段階では自分が助かる事。家族が助かる事。人命救助、被害の最小化が目的である。
①靴 (ほとんどの人は裸足で寝ているので、すぐに取り出せる靴は必至である。
靴を履かなければ、ガラス破片や瓦礫のギザギザの中を裸足で歩かなければならない。
②軍手 素手は一瞬で怪我をする
③シャベル・スコップ・大きいバール・梯子など 掘り返す道具
④バケツ・消火器 消化で活躍各家に2台は欲しい、2台置けないところは自治会に了承を得て共有地に消火器を設置しておくべき
⑤懐中電灯1人1個以上
⑥毛布・人を運ぶ単価としても、身体を保護、保温する道具としても便利
タオル 怪我を抑える道具
⑦携帯・充電器・ラジオ(情報がすべてを制す)
⑧マスク 現場の土埃は異常である。
⑩ロープ
2.生活
命が助かった後、襲い掛かるのは、恐ろしいまでの渇きと疲労である、夏ならば、暑さ対策・冬ならば防寒対策は用意すべき
①水 そして大きな水筒や 持てるレベルの水タンク
②お湯を沸かす道具 やかん鍋など (ガスコンロがあればいいが
③アルミホイル(食材調理だけでなくか体の保温もできるので重宝)
④ブルーシート(いざとなると売り切れており、手に入りにくい一品)
⑤コップ 意外とコップがなく、水などをシェアするときなくて困る。味噌汁やスープもいれられる割れないものがいい。
⑥タオル・毛布 多い方がいい 枕として使える
⑦下着 同じ下着を履いておくと衛生上よくない
⑧冬ならカイロ、夏なら氷枕
⑨大きい段ボール 仕切り版として、寝床として、差布団として万能で、重宝する。段ボールにくるまれるだけでも
温かい。
⑩オムツ・生理用品・ティッシュ・トイレットペーパー 避難所にあるが、切れている場合も多い
⑪情報機器 ラジオ・スマホ
⑫飲食物(個人的にはノドアメが時間つぶしと喉対策にお勧め)基本数日中に配布されますので、最低限だけでいいと思います。
被災者の集会場で配られやすいもの。オニギリ・汁・カレー、焼きそばなど なので精神衛生上、少し違う食材やオヤツを用意しているといいかもしれません。最近はレトルトでも様々な商品が出ています。
⑬テント 被災地の体育館はプライバシーが守りにくい環境です。着替えや就寝の際
⑭LED ランタン(夜は真っ暗ですので懐中電灯とは別に持っておくべきです)
⑮水のいらないシャンプー、体拭くウェットタオル、石鹸
⑯マスク 震災後の街はとにかく煙たい、アスベスト対策 避難所でも集団感染がおこらないように
⑰裁縫セット、ハサミ、工具類
その他あればいいものは、枚挙にいとまがないがこれらをまとめておいてもいざというとき集められないので、これらをバッグに収容しておくか、車がある人は、キャンプセットのように置いておくとよいでしょう。
2その他
自動車・・・スポーツカーはほぼ役に立たない。出来ればタイヤ厚めの4輪駆動車か1BOX
ガタガタ道で、車高の低い車は段差を登れない、ジープのようなRV車や現場の1BOX車がいい
最終的に生活できるようフルフラットにできる車が最高
バイク・・・自動車は渋滞があるのでバイクや自転車が便利ではあるが、瓦礫の上を走るのですぐにパンクする可能性がある
発電機・・・あったらいいなではあるが、発電機があるとあらゆるところで助かる。ただ、音がうるさいので使う場所を選ぶ
最近では静音のもあるが、バッテリー寿命が早い。
携帯の充電・ヘアドライヤー・電動工具・常時照明
カメラ・・・震災時の写真や動画は、もちろん、起こる前の家の外観、車の外観などしっかり撮っておきましょう。
3.雑談
地震保険にははいっておくこと
避難所からはとっとと出て、安全な離れた場所に移動して生活を始める。避難所で負の空気の中にいるより、
復旧がおわるころ、帰った方が精神衛生上よい。田舎であれば、信じられないくらい安い家賃で十分暮らせることろがある。
水がある。食料がある。そして風呂に入れる。プライバシーが守れる。お金がなくても各市町村に相談すればかなり快く対応してくれる。気が満ちた後に戻れる者は戻ればいいのである。
現場にいたからって、復興が早まるものではない。余震などで二次被害を被る場合もある。
震災直後に不謹慎にも上がる株があるのでチェック
阪神淡路大震災30年を迎えるにあたって
まもなく阪神淡路大震災から30年がたとうとしている。
1995年1月17日午前5時46分
それは真冬の早朝、世の中がグッスリと眠っている頃だった。
ドッカーン、ガタガタガタ!ボゴォ
飛び起きて、目を開ける、土煙とともに、目の前に瓦が崩れてくる。
上を見上げると、煙の中から空が見えた。足元には巨大な箪笥が左足を直撃しており、
金具がそのままの形で食い込んだ。自分の寝床の周りには、屋根瓦が、山のように重なり合って落ちていた。
爆弾を落とされたと思った。テポドン?
土煙の中、お袋がいたであろう、場所に這っていくとお袋は床の間の柱に
しがみついて目を丸くして、「なんやなんや」と震えていた。
そんな母を連れ出して、外になんとかはい出たっとき、目の前には
映画でも見たことないような、果てしない、崩れた家とがれきの景色が果てしなく続いていた。
着の身着のまま、そんな格好のおっさんや、おばちゃんが呆然と立ち尽くしていた。
そこらじゅうで助けてくれぇ、誰か来てぇという声
考える間もなく無我夢中で瓦礫をかき分け、穴の空いたところにいる2階部分であったであろうヵ所に人が埋まっていた。
その手に届くことも出来ず、梯子がなければとても助けることは出来なかった。
家に戻って、梯子を用意しようにも、ぶっ潰れた家のどこに梯子があるかなど瓦礫の山の中から探せるはずもなかった。
その間もあっちこっちで助けを呼ぶ声に、母親を安全なところに避難させ、何人か引っ張り出して助けだした。
後で気づいたのだが、自分は着の身着のままどころか、素っ裸にパンツ一丁の裸足であった。
とにかく、足に瓦礫やガラスの粒がささっており、それでも瓦礫の上を歩かなければならない状態だった。
外は1月の早朝で相当冷えてたはずだったが、アドレナリンが全開だったせいか、全く気が付かなかった。
そんな格好で、お婆さんを担いで運び出したり、がれきから人を探したりしていた。
しかし、素手で道具もない状態では出来ることが限られていた。
そんな格好でいろいろとしているうちに、
町の東側で火事がはじまったという報が聞こえた。これはヤバイ
ところで、消防車は?警察は?なにしてるのか
火は瞬く間に、すぐ近くまで、瓦礫を這うように業火で焼き付くしていった。
後から聞いた話では、毎朝買っていたパン屋さんのおっちゃんは機械に挟まれたまま焼け死んだそうだ。
火事が家の眼前に迫るころ、自分は、屋根が落ちて、ボコボコにズタボロになった家の駐車場にとめてあった車をなんとか移動させ、その流れで怪我した人々や、お袋を乗せて、なんとか病院に連れて行こうとした。
どうやって道路まで出れたのかの記憶は定かでないが、とりあえず幹線道路である国道二号線まで出た。
国道二号線は、日本を代表する阪神間の大幹線道路である。日頃はトラックや自家用車が走っており、しかも上には阪神高速道路がはしっていて朝でも夜でも賑やかな道路である。
それがこの二号線に、恐ろしいくらい、車が一台も走っていない。
信号はすべて消え、
街灯の明かりすらない
音のない不気味な二号線。
私は薄気味悪さを感じながら海浜病院まで負傷者を連れて行った。
自分が連れて行った頃は、病院に負傷者らしき人はほとんどいなかった筈である。
狐につままれたような気持ちのまま、
ケガ人を病院に託し、車に戻る
流れているラジオからは地震の速報が流れている。
その時は、あ、これは本当は地震だったのかと初めて気づいた。
普段地震のない神戸でこれなら、大阪や東京は今頃、スゴイ事になっているだろうと思っていた。
しかし次にラジオは信じられないことを伝えた。
「今日、午前5時46分ごろ地震があり、大阪では、家具の上から落ちてきたものに頭をぶつけて怪我をした人がいる」
というような内容であった。
自分は、阿鼻叫喚の只中にいるのに、すぐ近くの大阪では、こんな緩いことを言っているという事に
驚くしかなかった。震災後、テレビの特集でみたが、神戸でとんでもない惨状が起こっている事をその時点で局はつかんでなかったらしい。今では考えられないが、震源地が速報で出ない時代であった。自分がまさに震源地にいるとは思ってもなかった。
運がよかったといっていいのか、自分の家は破壊されたものの、道を挟んだ町から鷹取商店街のほぼすべてを焼き尽くした火事は、うちの家と町には燃え移らなかった。おかげで、いろんなものを後程回収できたが、火事のあったところはその全てが
灰に変わってしまった。瓦礫の中で埋もれたままの亡骸さえも、残酷に焼き尽くした壮絶なものであった。
やがて、日が昇り始め朝になり昼になるにつけても、火事は広がり続け、長田区のあちこちを燃やし尽くしていった。
自分の故郷、思いでの場所はたった数時間で焼け野が原と化していった。
半日もたったころ、崩れた家の中からようやく、自分の靴を見つけることが出来た。足はいろんなものが刺さり、血だらけであった。不思議なもので徐々に痛みが意識されるようになった。とても自分が経験してきたものが現実だったとは思えないような不思議な感覚がしばらく続いた。
そんな阪神大震災から30年、それ以上の復旧復興の思い出話や苦労話は山ほどあり、いくらでも書くことは出来るが今回は
その事は置いておこう。
震災から30年が経ち、ずっと思っていながら、引っかかっていたことがある。
それは、震災で亡くなった人の命を無駄にしてはいけない。たまたま生き残った者は震災から学んだ教訓を広めて生かさなければならない。というものである。
被災者として、震災の教訓を忘れるな等というが、そんな事よりも重要なのは、
この阪神大震災がその後起こる震災の教訓を生かせたのかとういう問題である
東日本は?能登半島は?阪神大震災の教訓をいかせたのか、世の中は南海トラフ地震への対策はできているのかという問題である。
結論から言うと、私は、全く生かせていないと感じている。
次回はそれを取り上げて考えてみたい。
長田タンク筋南京町店への道順
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