古文を読むときに、「べし」は「べき」と訳して読んだらいいのでは? | 神戸国語教育研究会カプスのブログ

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古文にとって文法は重要だ。

 

特に助動詞。代表格は「ぬ」。これが、完了か打消か、取り違えたら意味が真逆になってしまう。中学の古文で文法を細かく教えることはないが、さすがにこれは不可避。とりあえず、ざっくりと文末の「ぬ」は完了、文中の「ぬ」は打消と、単純化した識別法を教える。

 

ただ、高校の古文の授業で、ちまちまと品詞分解しては現代語訳をする、それで1コマの授業が終わってしまう、というのはいかがなものか。

 

たしかに品詞分解をすれば生徒の文法力は確実に高まる。文法と重要単語を押さえて訳することは意味がある。

 

けれど、それで終わってしまう授業ほど退屈なものはない生徒の古文嫌いを増やすだけだ

 

前述の「ぬ」のように、読みを左右するような重要なポイントに絞り、あとは品詞分解も現代語訳もプリントしたものを配布してしまえばいい。そのうえで、古文の背景知識とか、価値観とかについて考えさせる授業がいいと思う。

 

特に、「べし」の解釈。一般的に「すいかとめて」で覚える。そして、「べし」がでてきたら、推量・意志・可能・当然・命令・適当のどれかを考えさせる。

 

これは、「べし」が出てくるたびに考えさせる必要があるのか? 中には、「当然」とも「適当」とも解釈できるような例を何度も見てきた。

 

そもそも、古文の時代の人が、「べし」の意味をいちいち考えながら書いているわけではない。「べし」は「べし」なのである。

 

だから、読みの授業では、とりあえず「べし」は「~べき」と訳して流してしまえばいい、と思っている。よほど顕著なものだけ、あるいは文脈上で重要と思われるものだけ、演習問題で問われているものだけを考えればいい。考える必要があるかどうかを見極めるのが、国語の教員の仕事だ。

 

いちいち、「すいかとめて」を考えさせるのは、徒労だと思う。

 

文法のための文法ではなく、読むための文法をやっていきたい。

 

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