17歳のジャズ、而して、スーパーカブ 第86話
僕らは、少なくとも僕はカルキ臭に全身を包まれた。そして、湯気が視界を覆った。僕は、隆志を見た。あいつは、カルキのことなんか少しも気にしていないようだった。少なくとも、僕にはそう見えた。
カルキの湯気が薄くなって、あるいはそんな視界に慣れて、しばしば人間が何にでも慣れてしまうように慣れて、僕は先客がいないかどうかを確認した。そうしながら、浴場を確認した。ただのちっぽけな銭湯にすぎなかった。銭湯のカルカチュアみたいなものだった。逆にいえば、ふつうの家の風呂場を広くしただけのものにすぎなかった。
「うわあ! いい温泉だあ!」
隆志は、うっとりとした声を張り上げるという人間離れした行為に及んだ。
そうだな、隆志はそもそも人間じゃないのかもしれない。
僕は、隆志のことを一瞬、殴ろうと思ったけど、あいつがあまりに無邪気なものだから、拳を収めた。
「啓太、はやく入ろうぜ!」
そう言うと、隆志は、まるで12歳の少年のように、いや、これはマッカーサーの言葉だ、やめよう。マッカーサーが、米国に帰国した後、日本のことをそう表現したんだ。あの野郎は、人間理解が深いぜ。隆志は、幼稚園児みたいに、幼稚園なんかに通ったことのない幼稚園児みたいになって、浴場に走り込んでいった。
僕は、疲れていた。もはやあの隆志の祖母ちゃんにカネを支払ったかどうかも定かではなかった。入浴料、石鹸などのカネを支払ったかどうか。でも、それもどうでもよくなった。風呂から上がったら、カネを拳銃のように突き付けてやればいいだろう。もし、お互いにカネのことを憶えていたらの話だけどさ。
僕らは、まず、シャワーを使って律儀に汚れを落としてから、風呂に入った。隆志は、もう幼稚園児だったから飛び込んだのだけどさ。あいつの首が、風呂の底にぶち当たって、砕けて、天国か地獄にでもいけばよかったけど、そういうふうにはならなかった。
「気持ちいいなあ! 最高だなあ! 温泉っていいなあ! なあ、啓太、俺の祖母ちゃんの温泉、最高だろ?」
僕は、隆志の言うところの温泉をあいつの目の前で、手で掬って呑んでみた。まるで日本酒を呑むみたいにさ。
「ただの水道水だ」
僕は、事実という爆弾を隆志に投げ付けた。
「そんなことねえよ」
隆志は、僕が何か冗談でも言ったみたいに、にこにこしながら言った。
「完璧に水道水だ。呑んでみろ」
隆志は、ケツを浮かせて、顔を完璧な水道水に沈ませて、呑んだ。
「完璧な温泉だよ、啓太」
「そうか。じゃあ、温泉なんだろ」
「当たり目えじゃねえかよ、何を言ってるのかさっぱりわからねえよ」
「ちなみに、ここは混浴だ」
「は?」
「おい、女、入ってきたらどうする?」
「ええっ?」
「チンボコ、見せ付けてやれよ」
僕らは、互いのチンボコを見つめた。それから、目を背けた。
しばらく、僕らは無言になった。
めぐみが素っ裸で入ってくるまでは。
めぐみの裸体を見た僕は、当然、疲れが吹き飛んだ。でも、それは束の間のことだったんだ。なぜって、めぐみの裸体はあまりに重かったのだからさ。
少なくとも、僕の疲れよりはさ。
さあ、今日は御伽噺はもうお仕舞いだ。また明日、つづきをでっち上げることにするよ。
17歳のジャズ、而して、スーパーカブ 第85話
「やめなさいよ」
お祖母ちゃんが、石鹸だとかそういうものを手にもって立っていた。
隆志は、僕の首を絞めるのを断念した。
おい、隆志、てめえはなぜあのとき僕を絞め殺さなかったんだ? いっそのこと、僕なんか殺してしまえばよかったのにな。
「あああ、ごめん、祖母ちゃん、暴力、ごめん」
「親友だよね、喧嘩もいい、でもね、ちょっとしたことで人間は死んじゃうこともあるの」
祖母ちゃんは、隆志の手を握って言った。
隆志は、恥ずかしさで顔を真っ赤にして洟を啜った。
生半可な犯罪者だぜ、隆志、てめえはさ。
さて、僕は、またこの温泉の、まあ、厳密にいえば温泉じゃなかったんだけどさ、描写をしなかった。何度も書いてるはずだけど、僕には描写に惹かれない。それに、というか、だからか、できない。でもちょっとは描写しないと、これを読んでるうんこもらしどものそこのあんたらに伝えられないこともあると思う。
祖母ちゃんの温泉は、いや、隆志が温泉だと言い張ったから僕も温泉だとしてる訳だけど、それはただの小さくて、狭くて、薄汚れた大衆浴場みたいなものだった。後から知ることになるんだけど、脱衣所もひとつ、浴場もひとつだけで、つまり、混浴だった。そこが銭湯とはいちばん異なるところだったと思う。混浴というのは、誰でも知ってると思うけど、男女が素っ裸で一緒に風呂に入るということだ。日本は、大昔は混浴がふつうだった。文明とやらがそのふつうさをぶち壊したんだ。
文明も疑わしいぜ。
「ほら、お風呂、入りなね」
祖母ちゃんは、隆志の祖母ちゃんは、そう言うと、隆志と僕に石鹸やら何やらを渡して、またどこかへ消えた。
「啓太、ごめん、俺、何であんなに怒っちゃったんだろう?」
「当たり前の感情だ、その感情を忘れるなよ」
「俺、日本人のこと嫌いじゃないよ、ほんとだよ」
「お前の心の奥底にはお前自身も知らないものがあるんだよ」
「俺、よくわからないや」
「とにかく、風呂に入ろう」
僕らは、コインロッカーには入りきらないザックをその辺に置いて、丸裸になった。僕らは、お互いのチンボコの大きさを比べた。それは、虚しい大きさ比べだった。まるで日本と朝鮮の国力みたいなものを比べるような虚しさを僕は感じた。
僕は、浴場の戸を開けた。
カルキのにおいが充満していた。
さあ、今日は御伽噺はもうお仕舞いだ。また明日、つづきをでっち上げることにするよ。
17歳のジャズ、而して、スーパーカブ 第84話
「手拭い、石鹸、シャンプー」
婆ちゃん、いや、もう隆志のお祖母ちゃんみたいになったから、まあ、祖母ちゃんは、ふいに笑うのをやめて、そう呟いてどこかへ消えた。
「啓太、リュックに入ってるんじゃないかな」
「ザックって言えよ、バカチョン」
「ニポン人はカッコつけるよな」
「チョンと違ってお洒落なんだ、ニポン人はさ、それでお前らチョンどもを征服しようとしたんだ。いまもそうだ」
「何の話だ?」
「バカチョンにはわからないだろ、どうせ」
「教えてくれ、啓太。お洒落でチョンを征服できるのか?」
「できるさ」
「もっとちゃんと教えてくれよ、どうしてお洒落で征服できるんだよ」
「よく自分のない頭で考えてみやがれよ」
隆志は、腕組みをして、ぶつぶつ呟き出した。僕は、煙草を吸おうとしたけど、何となくやめた。何となくだ。そう、何となく。まるでこれじゃあ隆志みたいだ。何となくってさ。
「てめえは、いつまで足りない頭で答え探しをしてるんだよ」
「ああ、わかってきたぞ」
「嘘付けよ」
「嘘なんかじゃない、啓太」
「だいたい僕の話がほんとだと思うのか?」
「どういう意味だ?」
「ほんと莫迦だな、てめえは。僕の話は、そもそも嘘なんだよ。大前提が間違ってる話を考えるなよ」
「てめえ……」
「まあ、落ち着けよ、煙草でも吸おう」
「クソっ! 啓太、お前は偉い人になるんだぞ。嘘はよくないぞ。で、大前提ってどういう意味だ?」
「いいんだよ、もう。いいから煙草を吸おう」
「いや、俺はまだもうちょっと考えてみる」
「だから、何を考えるんだよ、隆志。ぜんぶ嘘なんだよ。それに、お前は考える頭をもってない」
「日本と朝鮮って仲良くできないのかな?」
「できる訳がないだろ」
「どうして?」
「歴史が証明してるからな」
「そうなのか?」
「ああ」
「これからもか? 歴史っていうのはこれからのことも証明してるのか?」
「知るかよ」
「……そうだな」
「何がだよ」
「いや、別に」
「だから、何がだよ」
「いやあ、その、何というか……」
「おい、いい加減にしねえと殴るぞ、隆志ちゃん」
「祖母ちゃんのいるところでやめろよ」
「じゃあ、言えよ」
「歴史って、何で勉強するのかなって思ってさ、俺……。みんな、学校で勉強するよな? お前は、学校に行かなくても本を読んで勉強してるだろ? 何でかなって……。それは、うーん、やっぱり、現在とか未来とかのためでもあるんじゃないかって……。未来のためだ」
「殴るぞ」
「じゃあ、何で、啓太、お前は歴史を勉強してるんだよ。何でだよ。昔の話を知りたいだけなのかよ。殴りたいのは俺のほうだよ」
「じゃあ、殴れよ」
「だから、祖母ちゃんがいる。暴力なんか使いたくない」
「てめえ、いつから偽善者になったんだよ」
「偽善なんかじゃない」
「あのなあ、だいたいな、てめえの祖母ちゃんじゃないだろ」
「……どういう意味だ?」
「てめえのほんとの祖母ちゃんは、とっくの昔にニポン人とやらにこき使われて死んだんだよ」
「……」
「死んだんだよ!」
「死んでないぞ!」
「死んでんだよ! バカチョン!」
「死んでない!」
「殺されてんだよ!」
「ふざけんじゃねえ!」
隆志は、僕の胸ぐらを掴んだ。そして、僕の首を絞めにかかった。
「ぶっ殺してやる! てめえらニポン人が殺したんだ! 祖母ちゃんを殺したんだ! ぶっ殺してやる!」
さあ、今日は御伽噺はもうお仕舞いだ。また明日、つづきをでっち上げることにするよ。