笠岡市でのお試し暮らし体験記㉕では、㉓㉔に引き続き、

福山市にあるホロコースト記念館について書きたいと思います。

ここでもホロコースト記念館の展示内容や資料から得た学び

―主にホロコーストの実態(一部)ーについて書きます。


 

19398月に、ナチス・ドイツはソ連と不可侵条約を結び、

ポーランドへの侵攻準備を整え、9月に突然の侵攻を開始して、第二次世界大戦がはじまります。

ユダヤ人への差別はユダヤ人追放へと進み、

ユダヤ人はゲットーというユダヤ人専用の一時的な居住区へと追いやられました。

ゲットーは高い壁に覆われ、自由のない閉鎖空間で、ホロコースト記念館にはその壁の展示もあります。

その壁で囲われる地区を想像すると、その異様さを感じさせられます。


 

ヒトラーはユダヤ人に対して「“最終的解決”をはかる」としており、

ユダヤ人をゲットーから収容所への移送へ、つまり、ガスによる殺戮、ホロコーストへと進めていきます。

ドイツが占領したヨーロッパの国では、おびただしい数の収容所が作られました。

多くのユダヤ人が連日のように列車に乗せられ、収容所へ運ばれました。

列車に乗れば最期、収容所へ向かうまでの徒歩移動のことは「死の行進」と呼ばれていたほどでした。

列車に乗せられたのはユダヤ人だけではありません。

ナチスにとって好ましくない政治犯や、気に入らない人たちも収容所へ送られたとされています。

独裁政治の恐ろしさはここにあり、言論の自由をはじめ、多くの自由が奪われる…

異論を唱え、政権に都合の悪いことをすれば力を行使されることがこの歴史からよくわかります。


 

おびただしい数の収容所のうち6つは絶滅収容所としてガスなどで殺戮が行われる場所でした。

その6つの絶滅収容所へ移送されることは「労働のための東への再定住」と説明されていたと言います。

そうした説明がされていたのはユダヤ人が騒がないようにするためであるようで、

ナチスの巧みな支配の方法には辟易とします。

今のこの国でも一見いいこと・害のないことのように見える政府の広報がありますが、

それも支配がはじまっていることの表れと私は考えています。


 

収容所へ移送されたユダヤ人たちは労働力として「利用できるかどうか」で「命の選別」がされます。

利用価値がないとされた人たちは、その場でシャワー室という名のガス室に送られ、殺害されました。

その数は一日に一万五千人に上ると言います。

記念館には収容所で着ていた子どもの服が寄贈されてありますが、

子どもたちのほとんどは労働ができないことから即殺されていました。

人体実験に用いられる子どももいたということをこの記念館で私は知りましたが、

仮に即殺されていなくても、人間らしい扱いは一切されていなかったことがわかります。

収容所では名前ではなく番号で呼ばれることは広く知られていることと思います。

それは「おまえたちは人間ではない」と教え込むために名前を奪う行為であり、

収容所では人間としての尊厳を得たければ労働をしろといった強制労働が待っていました。

「働けば自由になれる」といったアウシュビッツの標識は象徴的ですが、

これもまた記念館には展示がされています。


 

㉔で、ホロコーストは差別からはじまったものと書きました。

ユダヤ人かどうかという差別、

労働できるかどうかという差別=優生思想によって殺戮がされていったこの出来事は、

いかに差別の問題が深刻であるかを示していると思います。

先日、ある「天才」とされる学者?が

「高齢者は老害化する前に集団自決」などと言う信じがたい暴論を口にしました。

憤りと呆れとでものも言えませんが…そうした思想があたかも正論かのように語られる社会。

そしてそれにストップをかけられない社会に大きな危機感を抱くばかりです。。

ナチスでは同性愛者は子どもを産まないという理由で殺害されたと言います。

20万の障がい者も殺され、黒人も殺害をされたと言います。

黒人に関しては不妊手術をさせたとも言われています。

差別発言はこうした具体的な行動へとエスカレートする可能性があることを

私たちはいい加減学ばないといけません。

大げさな話ではなく、「歴史は繰り返す」恐れがある。

危機感と意思をきちんと示していなければと思います。

ホロコースト記念館はそのことを思い出させてくれる場所として改めて大切な場所であると感じます。