阪神淡路大震災から、今日で28年。

私はこうした時間の区切り方・節目のような書き方が好きではないのですが、

なぜか今日はそう書きたい気分(時間が経てば変わるかもしれないのと、当事者はじめ、

このことへの違和感を抱く方には申し訳なく思っています)です。

なんでだろう…と考えてみると、あ、私、休みたいのかもしれない、という思いが浮かんできました。

休みたいと思う気持ちがどこからくるのかを辿りつつ、

ただ溢れてくることを垂れ流して書きたいと思います(まとまっていないので悪しからず…)。


 

冒頭から震災とは別の話を少し。

連日、日本では政治家やインフルエンサーらによる暴力・それを支持する人らによる暴力が

横行しているように見受けられます。

SNS上―特にtwitter―では、そのスピードの早さと拡散力によって、

次から次へと暴力が飛び交い、日々削られていく感覚を得ます。

あまりに問題が多すぎることもあり、追いつけない・拾い切れないことも多々あり、

それでいて、その暴力は傷だけ残していって去っていく。

これはいったいなんなのだろうと毎日困惑しています。

しっかり地に足をつけて語らねばならないことまで―そうしたことこそなのかもしれません―足早に去っていく、

人を傷つけるだけ傷つけて。

こうした社会はいったい誰を守りうるのでしょうか。


 

昨日、麻生氏が「原発で死亡事故はゼロ」という発言をしたといったニュースを目にしました。

 

 

私は当事者ではありませんが、政治家によるあまりの暴力を前に怒りで身体が震えました。

怒りで涙が出てきました。

頭が痛くなってしまってしんどかったのですが、ようやく復活してきたところで今これを書いています。


 

twitterを開かなければいい、SNSの弊害である」

そうした語り方もあるかもしれませんが、私がしたいのはそうした話ではありません。

「気にしなければいい、いつものことだ」

これもまた私のしたい話ではありません。

言うまでもなく、私はこうした暴力をなくしたい、のです。


 

震災の話をします。

私は東日本大震災の支援活動に従事させていただいてきて、「被災地」で生活をしています。

何もできない中で、ただただ時間だけが過ぎていく無力感に日々襲われながら、

地域の様々な立場の方々と共に過ごし、お話を聴くうちに

「節目」などとは思えない感覚が自然と養われていきました。

きっと阪神淡路大震災の経験をされた人たちも同じように、

「節目」などと思えない感覚を抱いていることでしょう。

でもなぜか、今日も「節目」とまでは思えませんが、

「阪神淡路大震災から28年」であることを確かに噛み締める自分がいます。

冒頭で「休みたい」と書きましたが、これはおそらく

暴力から離れたい、休みたい、目を背けたいと思い、立ち止まりたいと

私が思っているということのように感じています。

言い換えれば、阪神淡路大震災からの28年で、東日本大震災からの12年で、

何か社会がいい方向に変わったのか?という怒りに今私は耐えられなくなっているということになりそうです。


 

阪神淡路大震災では、非正規雇用で低賃金だった女性たちが

安いアパートに住んでいたことで多くの犠牲が出ました。

これは(残念ながら)有名な話ですが、その後、日本社会、何か変わりましたか?

東日本大震災では、原発事故をはじめ、中央集権の社会構造によって生まれた被害があり、

指摘もされてきたと思いますが、それも、何か変わりましたか?

その結果が死亡者が出てないですか?原発再稼働ですか?

どこ見てるんですか?

日本社会は何を目指してるのでしょうか。

辺野古の抗議活動を冷笑して社会がよくなるんですか?

高齢者が集団自決すれば幸せになるんですか?

性暴力被害から少女たちを守る人たちを攻撃して、性暴力被害がなくなるんですか?

いったい何から何を守ろうとしているのか、全く理解できず怒りで震えます。


 

平時の暴力が災害や戦争などが起きた時には噴出し増幅します。

毎年のように大きな災害が起こる災害大国で、

平時からこれほどまでに暴力が横行していては災害時のそれはとてもではないですが止められないでしょう。

ましてや、反撃能力を蓄え、暴力で抑え込むことを肯定する社会へと進めていこうとしていては

止めるどころか、加速化していくだけでしょう。

上記の発言や行動=暴力はその過程で起こっていることであると考えなければいけないと私は思います。

このままでいいのでしょうか、私はいいわけがないと思います。


 

私は「休みたい」と言いました。

私はしようと思えばそれができる立場です。

移住者であり、帰る実家が「被災地」以外に(一応)あります。

男性であり異性愛者であり健常者であり大学院に進学し…様々な特権を有しているからです。

でも、当事者は簡単には休めません、離れられません、逃げられません。

歴史を修正することも冷笑も、集団自決を勧めることも攻撃することも簡単にはできません。

しても数の論理で叩かれて終わるでしょう、あなたたちと違って逃げられないのだから

(もちろん、そんなゴミのような思考回路や言動を取らないでいられることは幸せなのは言うまでもない)。


 

阪神淡路大震災から28年。

28年で変えられなかったことにどう抗えばいいか。

平時からの暴力を是正するためにどうしたらいいか。

「それじゃマジョリティにうけないよ」

「あなたたちには力がないから社会運動しない方がいいよ」

そんな発言をしている暇があったら、どうしたらいいかの手本を示して、社会を変えてください。

私はそんな発言をしていないで、無力な自分を情けなく思いつつ、

弱いながら繊細ながらできることをしていたい。

私はあるブログに「卵で岩を打つ」という韓国のことわざについて書かれてました。

 

 

「卵を投げつけたからといって岩を穿つことができないように、

絶対不可能で無謀なことをいう言葉」なのだそうだが、

最近はあるジョークを伴って使われることもあるという。

これに対して「卵で岩は割れなくても汚すことはできる」というジョークも生まれました。

誰が言い始めたのかわからないこの言葉が、私はとても好きです。

役に立たない巨大な岩が私たちの前進を妨げているとき、

そうか、と足を止めたり、引き返したりしたくありません。『彼女の名前は』より

私は卵で岩を汚し続けていたいと思います。