うんちくコラムニストシリウスのブログ -25ページ目

うんちくコラムニストシリウスのブログ

ブログの説明を入力します。

天才哲学者ウィトゲンシュタインの名言ですうれしい顔ぴかぴか(新しい)

親友はウィトゲンシュタイン微妙みたいですがうちは好きですほっとした顔ぴかぴか(新しい)

よくよく言葉を噛みしめれば名言さが分かるのではという名言ぴかぴか(新しい)


そういうこと言うとウィトゲンシュタイン先生は怒りそうだけどるんるん


①何を懐疑するにせよ、懐疑するという言語ゲームを行っていることは決して疑えない。


②私がゲームをすることができる限り、私はゲームをすることができ、そしてすべては整然としているのである。


③矛盾は、それが現にそこにあるとき、そのときにのみ矛盾である、ということである。


④根拠を求める営みには終点がないかのようである。だが、根拠のない前提が終点になるのではない。 根拠なき行動様式、それが終点なのだ。


⑤知識の究極の根拠は承認にある。


⑥自分が知っていると主張する事を、実は知っているのではない。ただそれは自分にとって、ゆるがぬ真理なのである。



⑦言葉を語る営みを注視せよ、そこに論理が看取される。


うちは⑤が好きうれしい顔ぴかぴか(新しい)

就活生に一番タメになりそうなのは④と⑦かなぁわーい(嬉しい顔)

日本を代表する小説家村上春樹氏と、日本を代表する心理学者である河合隼雄氏の対談ですぴかぴか(新しい)

お二方とも「対談の名手」と言えますぴかぴか(新しい)

この本の書評に入る前に、個人的な経歴を一つ。

●経歴1
まず、私は、村上春樹氏の小説をあまり読んでおりません。

読んだものを挙げると、「1Q84」、「風の歌を聴け」、「スプートニクの恋人」です。

だから、村上氏の名作と名高い『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(第21回谷崎潤一郎賞受賞)や、『ノルウェイの森』は読んでいません。。。

なぜ、私が読んでいないのかと言うと、理由はただ一つ。

「どちらも上下巻本だから」w

実は、私は「上下巻小説は読まない」主義なのです。

その理由はただ一つ。

「長くて面倒くさく、金が余分にかかるから」w


したがって、私の経歴のなかで、「村上春樹」さんの小説と出逢う機会というのは、あまりない訳であります。
(ちなみに、この私の主義の関係で、私は、日本を代表する社会派小説を世に送り出してきた山崎豊子氏の小説も、ドラマは見ますけどほとんど読んだことがありませんw)

そして、私自身、村上作品があまり好きではない人のようです。

たとえば、最新の「1Q84」については、彼が「book4」を出せるかどうかにもよりますが(出せれば絶対読みます)、もし「book3」で物語を終わるとしたら、失礼な言い方かもしれませんが、

『隠喩的表現や文章表現はとかくすばらしい。が、表現したい主題である「若者の社会へのもがき」はありきたりの感あり。なぜ、そのような主題を伝える物語をあそこまで分厚くして、しかも三巻までにして出す必要があるのか。ただただ冗長である。これぞ商業主義の現れか。』

というような感想を、この本を読むまで持っていました。

●経歴2
次に、河合隼雄氏については、端的に言えば、お名前と心理学者という経歴しか知りませんでした(笑)。

なにせ、この方、現代文入試、常連の方ですからねw

そして、私は、世の中で唯一「心理学」という学問についてはまったく人と議論できる素養がありませんw

基本的に、現実主義かつ新自由主義大好き人間なので、「言葉をオブラートに包む」「相手の考えや行動を常に否定しない」ことばかりを重視してそうなこの学問が、得てして私の肌に合わない訳であります。

●書評
さて、そんな場違いな私が読んだわけです、この本をw

ところが、この本、実に良かった!

以下では、あえてざっくりこの本を説明します。

(i)実に同意したところ
村上:小説を書くということ=自己治療的な行為

村上:「その人にとってものすごく大事なことを生きねばならない、表現するか、生き抜く過程のなかに個性が顕在化する」

村上:「現実」をそのまま語るのが「物語」ではなく、「物語」を展開させる「装置」が「現実」なのである。

河合:因果的に説明可能な小説というのは空想科学小説にすぎない。

(ii)興味深かったところ
村上:長くしないと、物語というのはぼくにとって成立しない。
→私:なるほどね(^^)

「自」と「他」の区別が曖昧である「私小説」という日本文学の特徴について
→村上:作品は、その「人」をどこかで超えていないといけない
*村上さんは、旧来の「私小説的日本文学」ではない形で、小説を書こうと思ったという自らの文学的姿勢を話されている。
→私:まだ漠然な理解でしかないが、言いたいことは分かる。

「殺すことによって癒される人」における河合氏の見解
→私:この言葉自体が今までに自分の語彙力になかったので、新たな想像と思案の入口が開いた。

(iii)雑感
以前、私は「風の歌を聴け」自体はあまり評価しなかったのですが(ただ、あれはあくまで「単体」批評で、後に「1973年のピンボール」書いてるから、あの批評自体にまったく意味はありませんw)、村上さんによると、彼の真骨頂が発揮されたのは「ねじまき鳥クロニクル」なのだそうです。

でも、あれやっぱり三部じゃん(笑)w

村上文学を少し近付けたのかなぁと思う一方で、長い作品は嫌だなぁと思う相変わらずの私(:.:)


これからも格闘は続く。
人の心を温かく包み込む、そんな文章を表現することを、私はここしばらくの間忘れていたのかもしれない。

そんな愚かで冷たい私には、伊集院先生の『受け月』が、まるで寒空の下帰宅した者を温かく出迎えてくれるスープのように感じられる。



さて、そんな前置きはさておき、この『受け月』は第107回直木賞受賞作品として知られています。

そして、伊集院静氏は、現在は女優の篠ひろ子さんの旦那さんであり、かつては夏目雅子さんの旦那さんでもあった方で、「モテ男」「最後の無頼派」の愛称で知られていますほっとした顔


感想ではないのですが、直木賞作品の「受け月」のラストを記して、レビューとします。

銀地に紫のちいさな袋(お守り)が、欄干の灯りに反射していた。こんなものにもどこか力があったのかと思うと、奇妙な愛らしさを感じた。


“吉田神社”と刺繍がしてある。白く結んだ糸がさやか(孫娘)のけなげな涙と重なった。

鉄次郎(主人公)はお守りをポケットにしまうと、吸いかけの煙草を川に捨てた。そろそろ帰ろうかとコートの襟を立てた。誰かに見られていた気がして空を見上げると、糸のような月がくっきりと浮かんだ。

耳の奥でまた沙や(妻)の声がした


「ええ。ですからね。その朝帰りの時に旅館へ送ってもらったんです。可愛い芸妓さんでしたね。四条の橋を渡る時に月が東に浮かんでいたんです。そ うしたらその芸妓さんが急に、いやあ受け月どすわ、と言われて、立ち止まって手を合わせたんです。私とさやかがどうしてお祈りをしているのと聞きました。 受け月に願い事をすると、願い事がこぼれないで叶うって言ってくれたんです。その時私、あなたもこんなふうに月をごらんになりながら、家まで歩いて帰られ たんだと思ったんです。朝の冷たい空気の感じって、ほんとによろしいもんですね」


いい加減に聞いていたと思っていた妻の話が、間近にいるように思い出された。

鉄次郎は空を見上げて、あれが沙やの言っていた受け月なのだろうか、と思った。なるほど月は何かを受けるように盃の形をこしらえている。

鉄次郎はしばらくその月を見つめていた。そして急に手にしていた紙袋を橋の上に置くと、月に向かって両手を合わせた。何を祈ればいいのか、わからなかった。取りあえずさやかの婿が回復するように祈った。


「ええっ……とですね」

鉄次郎は月にむかってぶつぶつ言いながら、他の孫たちの健康を祈った。こんなもんでいいのか、と思いながら、東亜の野球部のことを思い出して、これも祈った。こんなもんだろう……、と鉄次郎はつぶやいて、もう一度目を閉じた。それから月を見上げて、

「ちょっと注文が多すぎましたかな」と言った。

鉄次郎は紙袋を手にすると、ゆったりと歩きだした。すると家で待っている妻の沙やの顔が浮んだ。


――婆さんを忘れてたな。

鉄次郎は立ち止まって、引き返そうと思ったが、何か面倒臭く思えた。彼は橋の袂に映った自分を見ながら

「婆さんは近いうちに、どこか旅行にでも連れてってやろう」

とつぶやいて歩き出した。