2024年夏アニメのうち、8月31日深夜に録画して9月1日に視聴した作品は以下の5タイトルでした。
モブから始まる探索英雄譚
第9話を観ました。
今回は9階層で前回獲得した皆の新しいスキルを試したり、前回仲間に加わったベリアルのスキルを試したりして、剣が欲しいというベリアルのために海斗が剣を買ってきて与えたりします。そして翌日は愛理の家のお屋敷で皆で勉強会をすることになり、春香も参加します。ここで海斗を巡ってヒロインたちがヤキモチを焼いて、平常心を取り戻すために皆でお屋敷の敷地内にある滝で滝行をします。そんなこんなで楽しくやって翌日は10階層に挑戦しようとしたところで光梨がいきなり血を吐いて倒れてしまい海斗たちはビックリする。そういうところで今回は終わり、次回に続きます。
天穂のサクナヒメ
第9話を観ました。
今回はヒノエ島にココロワ姫がやって来て初めて農作業を見る場面から始まります。前回ココロワ姫が島に来たのは冬でしたから、それから春がやって来て田植えの準備をして、いよいよ田植えということになった場面から今回は始まる。そうして田植えで苗を真っすぐ並べて植えるのが難しいという話を聞いて、ココロワが思いついて道具を作ってくれます。それは木を組んで作った長い六角柱の骨組みで、これを田植えの前に田の上で転がしていくと、田に枡目のような十字線の跡がついて、サクナ達はその枡目の交点に苗を植えていけば整然と並んだ田植えが出来たのでした。さすがは発明の神です。それで皆も大喜びで、これからも宜しくお願いしますと言われてココロワも嬉しがる。
そんなことをしていると、ここで厄介な事態が発生します。一匹のウサギ型の鬼が瀕死の重傷でサクナ達の住む峠の結界の中で倒れているのをサクナ達が発見したのです。すると、サクナとタマ爺は鬼は危険なものだからといってトドメを刺すと言うのですが、田右衛門やミルテやゆいは鬼に同情して治療をしたいと言い出して意見が対立する。見ると鬼は刀傷を負っており、事故で怪我を負ったのではなく鬼の仲間に傷つけられたようです。つまり鬼の仲間割れということであり、それならばこの鬼は他の悪い鬼とは違って良い鬼かもしれないとゆいは言います。
しかしきんたはやはり殺すべきだとサクナの意見に賛成する。もし回復して誰かが襲われたらいけないから今のうちに殺しておくべきだと言うのです。だが、それに対して田右衛門は「殺らねば殺られるという理由で殺す」というのであればあの山賊の石丸が自分たちを殺そうとしたのと同じではないかと言って反論します。そうしたやり取りを聞いて、サクナは田右衛門の意見ももっともだと思い鬼を治療することを許可して「少しでも歩けるようになればすぐに追い出す」という決定を下す。
そんなサクナを見てココロワは意外な印象を受けます。ココロワも鬼は殺した方が安全だと思い、サクナの意見の方が正しいと思っていたので、サクナが自分の意見を引っ込めて田右衛門たちの願いを聞き入れたことが意外に感じられたのです。以前の王都に居た頃のサクナならば人の子の願いを聞き入れるようなことは無かったはずだと思ったココロワがそのことをサクナに指摘すると、サクナはああでもせねば収拾がつかなくなるからだと言い、田右衛門たちは本当に手間のかかる仕様の無い連中だと言いながら、同時に、田右衛門たちがワケも分からぬまま頂の世に来ることになって大変な状況であっても皆が投げ出すことなく頑張ってきたのだと褒め、「根の悪い者はおらぬ」と言う。それを聞いて、ココロワはサクナが皆を大切に想っているから願いを聞き入れてあげたのだと察します。
一方でタマ爺はどうして結界内に鬼が入り込むことが出来たのかを怪しみ、おそらく結界の力が弱まっているのではなく島の邪気が強くなっているからなのではないかとサクナに言う。そうなると、いずれ他の鬼たちも結界内に侵入してくるかもしれないとサクナは危機感を抱くが、ココロワは邪気が強くなっているということが邪気の発生源を辿りやすくなっているということであり、今がむしろ鬼どもの発生する原因を探って勅命を果たす好機ではないかと提案する。
それでサクナとココロワとタマ爺とで犬を使って邪気の源を探ることになり、サクナは自分たちの留守中に治療中のウサギ鬼におかしな動きがあればすぐに殺すようにと言い含めて出かけていく。するとどうやら邪気の発生源は火山の方にあるようでした。最近、島の火山の活動が活発化していることにも関係があるのかもしれません。そうしてサクナ達が進んでいくとアシグモ族の集落跡に着き、アシグモとも合流することとなった。すると、集落の外の更にその先に一か所だけ霧が動いていない奇妙な場所があることに気付き、その近くに行ってみるとサクナの身に着けていた母の形見の羽衣が光を放ち、それによってその場所の霧が晴れて城が姿を現したのでした。どうやら人為的な結界を張って城を隠していたようで、この城が鬼の根拠地と思われた。しかしサクナが普段戦っている野蛮な鬼たちにこんな高度な結界が張れるものだろうかと不思議に思われたが、タマ爺はおそらくこの結界を張った者こそがこの島の鬼たちを束ねる者なのだろうと言う。つまり、この島の鬼が発生してその数が増えた原因というわけで、その元凶を倒せば勅命を果たすことになる。
だが、そうしているとサクナ達はいつの間にか鬼たちの軍勢に囲まれていた。それにしても手際が良すぎるので待ち伏せされていたようでした。つまりサクナ達が此処に来ることをあらかじめ鬼たちは知っていたということになる。それでサクナはあの傷ついたウサギ鬼は自分を此処におびき寄せるための罠であったのかと気付く。それでココロワのカラクリ兵で鬼の軍勢を一掃すると、アシグモは城に突入していき、サクナも続こうとするがタマ爺はあのウサギ鬼がサクナ達を此処におびき寄せる罠だったとするなら峠に残してきた田右衛門たちが心配だと言い、引き返すべきだと言う。それでサクナが逡巡していると、ココロワが自分が峠に戻って皆を守ると申し出て、サクナはココロワに峠に戻ってもらうことにして自分は城に突入していきます。
そうしてサクナとタマ爺とアシグモが鬼の軍勢を駆逐して城の中に突入すると、城の1階には巨大なガマの鬼が待ち伏せており、サクナ達は不意打ちを喰らうが、ココロワが自分の脚であり盾であるカラクリ兵をサクナ達のために残してくれていて、カラクリ兵がガマの鬼の攻撃を食い止めてくれた。そうしてカラクリ兵がガマの攻撃を受けてくれている間にサクナ達は城の2階に上がる。するとそこには復活したヨモツホムスビが待ち構えていた。そこでアシグモがヨモツホムスビの怨念はもともとアシグモ族のものだから自分が引導を渡さねばならないと言ってこの場を引き受け、サクナを最上階である3階に行かせる。
すると、そこに待っていたのはなんとあの山賊の石丸であった。どうやら石丸はサクナが天の浮橋から突き落とした際に浮橋の周囲にある時空を超越した霧の中に落ちたことによってタイムスリップしてかなり以前のヒノエ島に漂着し、それから長い年月この島で生きるうちに邪気を溜め込み化け物と化していたようです。そして強大な邪気を持つこの城の主となっていたようでした。そうなると、この城を居城として鬼たちを統べる者とは人間の石丸であったということになり、それならば以前にアシグモ族の亡骸が言っていた「鬼と人に殺された」というのは石丸が鬼を支配下に置いてアシグモ族を襲っていたということだったと考えると辻褄は合う。
だが、それならば石丸は自分たちが島に来たことを最初から知っていたはずであり、それならばどうしてすぐに襲ってこなかったのかと不審に思い石丸に尋ねる。すると石丸は自分の目的はサクナ達への恨みを晴らすことだけではなく別に最優先事項があり、そっちの準備で忙しかったのだと言う。それは「アイツ」と一緒に頂の世も麓の世もまとめて滅ぼすことだと石丸は言うと、すぐに化け物に変身してサクナ達に襲い掛かってきて戦闘開始となる。
石丸の邪気は強大でありその攻撃は凄まじかったが、サクナは自分は1人ではなく田右衛門たち人の子たちが自分に力を与えてくれているのだと自信満々で立ち向かい、見事に石丸を撃破する。それでタマ爺は石丸を生かしておけば鬼どこが再び徒党を組んで襲ってくるであろうからトドメを刺すようにとサクナに進言するが、サクナは「殺らねば殺られるという理由で殺す」というのであれば田右衛門の言うようにこの石丸と同じになってしまうと言い、石丸を殺さず、この島から立ち去るようにと石丸に要求します。そして田右衛門ともいずれ腹を割って話をするようにと諭す。
ところがその時、島の火山が噴火し、石丸は高笑いして「大龍」が復活したと言う。実はさっき石丸が言っていた「アイツ」というのはサクナの父親のタケリビがアシグモ族と共に倒したはずの大龍のことであったのだ。石丸はこの島に漂着した際に恨みを抱えて生き延びていた大龍と出会い、大龍の傷を癒す代わりにその邪気を分けてもらい化け物となったのだという。そうして大龍は次第に復活し、石丸は邪気を溜め込み化け物となり、2人で組んで頂の世も麓の世も滅ぼそうと企てていたのであり、遂に今こうして大龍が復活したのだと言い、石丸は逃げていく。
つまりこの島の鬼の発生の真の元凶は石丸ではなく大龍の方であり、石丸はその協力者であり大龍復活までの間、鬼たちを統率していたようです。もし本当に大龍が復活したとなると一大事であったが、それ以前にまず火山の噴火によって島のあちこちに火の手が上がっており、サクナたちの住居のある峠あたりにも火の手が上がっているのが確認できたのでサクナとタマ爺は慌てて峠に戻る。だが途中の道は大量の鬼の足跡で溢れており、あちこちに火をかけた跡もあった。あのウサギ鬼が手引きして鬼の軍勢を引き入れたのかもしれないとサクナは焦り峠の住居に急ぐが、到着してみると全て灰燼と帰しており、サクナが愕然としたところで今回は終わり次回に続きます。
逃げ上手の若君
第9話を観ました。
今回は中村庄での瘴奸軍との戦いの結末が描かれましたが、素晴らしいアクション神作画もさることながら、それに相応しい素晴らしく綺麗にまとまった神脚本でしたね。神作画というのは単にグリグリ動かしたりキラキラさせるだけで成り立つものではなくて、ちゃんとそれに相応しい神脚本とセットになっていてこそ評価されるものでしょう。だから「推しの子」とか「マケイン」とかのやつは私は「良い作画」だとは思うけど「神作画」とは思わない。
今期の作品の中で脚本がハイレベルといえるのはやっぱりSランクに評価している作品ですけど、特にその中でも際立って素晴らしくて「神脚本」といえるレベルのものは「異世界失格」「2.5次元の誘惑」「逃げ上手の若君」の3作品ということになるでしょうね。「戦国妖狐」もハイレベルだけどまだ謎が隠されてるところが多くて評価が難しくて、「かつて魔法少女と悪は敵対していた」は神ギャグ作品だから置いておいて、それより下位の「菜なれ花なれ」「天穂のサクナヒメ」「SHY」「ATRI」「先輩はおとこのこ」あたりは出来は申し分無いですが山場がまだ来ていない印象。それ以下の作品はやっぱりサプライズとかマーケティングとかクリフハンガーとか良い意味でのマンネリ感とか良い意味での意外性とかで作ってる印象で、ちゃんと物語とキャラ設定と世界観を緻密に積み上げた脚本力で勝負してない感があります。それでも売れるんだから文句をつける気は無いですけど、やっぱりこういう素晴らしいエピソードを見ると、こっちの方を褒めたくなるのは仕方がない。
今回、まず冒頭で吹雪が時行に授けた「鬼心仏刀」という秘剣の正体が明かされます。それは右手で持った日本刀を真っすぐ立てて構えて左手をその刀に添えるように少し離して前に出してまるで拝むように掌を刀に向けてかざすという構えから繰り出される秘剣です。この構えは剣道で言うところの「八相の構え」に似ている。現代の競技剣道ではいわゆる上段の構え、中断の構え、下段の構えというのが主流だが、これらの構えはあくまで軽量の竹刀を使って仕切り線の中で時間制限のある1対1の戦いをする競技剣道を念頭に置いた構えであり、甲冑を身に着けて重い真剣を使っていつ終わるか分からない集団戦を戦うという想定の実戦向きの構えではない。
「八相の構え」はそうした戦場での戦いを念頭に置いた実戦向きの構えであり、身体の右側に刀を立てて構える。これなら甲冑を着用していても構えやすいし、咄嗟の動きにも対応しやすく、刀の重みで疲れることも少ない。但し相手に強烈な斬撃を見舞うことは出来ないが、使っているのは真剣なのだから甲冑以外の部分に当てることが出来れば相手にダメージは与えられるので相手も迂闊には近づけないし、構えている本人も甲冑で防御しているわけだし、しかもこの八相の構えは左半身を少し前に突き出す型なので肩当を盾のように使うことが出来て防御力の高い型でもある。つまりは防御重視の持久戦対応の構えといえます。この戦乱の時代である南北朝時代の武士の構えというのは基本的にはこの「八相の構え」だったのだと思われます。
だが、この「鬼心仏刀」という剣術は八相の構えとはちょっと違います。まず時行は甲冑を着ていない。甲冑を着た時に構えやすいから八相に構えるのであり、甲冑を着ていないのなら八相に構える意味はあまり無い。時行が甲冑を着ていない理由は、もちろんその方が身軽になるので時行の「逃げ上手」という長所を最大限に活かせるからです。吹雪はこの「鬼心仏刀」は逃げ上手の時行だからこそ使いこなせると言ったので、この秘剣の戦い方は「逃げ上手」という長所を活かした戦い方になるのは間違いないでしょう。そういう意味では八相のように刀を立てて構えるというのは理には叶っている。それが最も疲労が少ない構え方だから体力消耗を防いで「逃げ」に使う体力を温存出来る。
ただ、この時行と瘴奸の戦いは、わざわざ瘴奸を狭い密室に誘い込んでの戦いになっていますから、そんな長時間の戦いは想定されていないはずです。短期決戦であるのなら時行も別にわざわざ刀を立てて構えて体力の温存を図る必要は無い。そもそも八相の構えは様々な状況に対応した長期戦向けの構えですから、狭い室内での短期決戦向けの構えではない。確かに八相の構えならば最も素早く臨機応変に動けるから時行の逃げ上手という長所を最も引き出せる構えだとは思うが、この狭い室内での短期戦ならばそこまで徹底しなくても時行の回避能力にそんなに大きな違いは生じないでしょう。
というか、現実的にはいかに時行の回避能力が優れていようとも、こんな狭い室内では逃げ続けているだけではいつかは捕まってしまい敗北する。時行が攻撃してこそ勝利があるのです。だが八相の構えは最も攻撃力が低い構えであり、しかも相手の瘴奸は甲冑を着ているのだから八相の構えから繰り出される攻撃ではなかなかダメージを与えられない。まぁそもそも時行は攻撃力が雑魚すぎるので、普通の武士がやるような戦い方をしていては瘴奸にダメージなど与えられるはずはなく、狭い室内で遂には逃げきれなくなり敗北するのは必至と見えます。そんな時行が勝利するための秘剣が「鬼心仏刀」なのです。だから、これが普通の八相の構えであるはずがない。
この「鬼心仏刀」と「八相の構え」の最大の違いは、やはり左手の使い方です。通常の八相の構えは両手で刀を握ります。攻撃力の弱い八相の構えでも両手で刀を持つことで一応はそれなりの斬撃を繰り出せるし、相手の刀を受け止めることは出来る。しかしこの「鬼心仏刀」のように左手を無意味にかざして刀の柄から離してしまい右手一本だけで柄を握っているのではまともに刀を振れないし、相手の刀を受け止めることも出来ない。要するに攻撃力も防御力もほぼゼロになってしまう構え方といえます。そんなアホなことをしてまでも前に拝むように突き出している左手には一体何の意味があるのか。そこにこそ、この「鬼心仏刀」という秘剣の神髄があると言えるでしょう。吹雪はその左手を「かざした左手は照準です」と説いた。
それに先立って吹雪は日本刀の本質について時行に説いた。それは「真剣の本質は押して叩き斬ることではなく、引いて斬ること」でした。引きながら斬る時にこそ日本刀は最も切れ味を発揮する。伝統的に日本刀の刃はそのように作られている。どうしてなのかというと、それはおそらく日本刀を使用する日本の武士の戦法というものが狩猟民の戦法を起源としているからでしょう。伝統的な日本武士がそもそも主力武器が弓矢であり刀ではないという点からも、そして以前の回で描かれた犬追物のような伝統を有していることからも、その戦法の起源は狩猟民の戦法にあるのは明らかです。
ちなみにこの南北朝時代の最強武器は長刀でありますが、これは弓矢や刀よりも後で発明されたものであり、この時代では最新武器でした。これが戦国時代には槍が戦場の主役に変わり、そして鉄砲の時代となりますが、もともと鎌倉時代までの武士の主力武器は弓矢であり、刀は弓矢の付属品のような扱いです。狩猟民は素早い獣を相手に戦いますから自分も素早く動けなくてはならないので基本的に軽武装となり接近戦が苦手ですから弓矢で遠距離攻撃をするのが主となる。そもそも獣が接近戦に応じてくれるわけもなく、どうしても遠距離射撃をする弓矢が重宝となる。それでも獣相手に接近戦をする羽目になる場合もあるので、その備えのために刀が必要となるのです。そのための刀が日本刀の起源です。
獣は素早く動きますから重い刀ではその動きに対応出来ない。だから日本刀は薄っぺらくて軽量なのです。それでいて強度が高くて切れ味も鋭いというところが日本刀の凄いところなのですが、とにかくまずは薄くて軽量であることが基本です。そして日本刀の最大の特徴があの「反り」ですが、あれも斬撃速度を増すための工夫です。だから日本刀は物凄い速度で振り回すことが出来る。それゆえ、その振り回した勢いで斬るかのように誤解されがちだが、実際はそうではない。斬撃の速さは斬る勢いをつけるためのものではなく、物凄い速度で動き回る獣の動きに追いついて刃を獣に突きつけるためのものなのです。そうして獣に刃を突きつけた瞬間、斬撃を止めてそこから引いて斬るのです。これがつまり剣術で言うところの「寸止め」です。
あの「寸止め」というのは別にカッコつけてるわけでもなく相手を殺さないためにやっているわけでもなく、日本刀を保護するための技術だといえます。あの薄くて軽量の日本刀を日本刀特有の凄まじい斬撃速度のまま対象物にぶつければ、日本刀は傷んでしまうでしょう。これは日本刀の大いなる矛盾のように見えますが、実際は日本刀は斬撃してそのままぶつけるものではなく、斬撃によって相手を刃で捕捉した瞬間、向きを変えて引いて斬るのです。こうすれば最小限の動きで斬ることになるので刃は傷むことはない。そもそも素早い獣は振り回して斬れるものではなく、斬撃で追い詰めた上で最小限の動きで引いて斬って仕留めるものなのです。それを想定して日本刀の刃は「引いて斬る」時に最も斬れるように作ってある。
そうして引いて斬ると、自然に身体は相手から離れることになる。つまり「逃げる」ような動きと日本刀で斬る時の動きは似ているのです。西洋剣のように踏み込んで斬るのではなく、一歩引いて斬るのが日本刀なのです。それが時行の得意の「逃げ」の動きと重なるので、日本刀の本質である「引いて斬る」ことを突き詰めた「鬼心仏刀」と時行の「逃げ上手」は相性が良いというのが吹雪の見立てでした。
ただ、時行はこの「引いて斬る」という剣術では相手を倒すことは出来ないと反論する。確かに引いて斬るだけでは人間よりも小さい獣を仕留めることは出来ても人間ならば皮膚や肉ぐらいまでしか斬れず致命傷は与えられない。大人ならば上手くやれば致命傷は与えられるかもしれないが時行のような非力な子供では致命傷は与えることは出来ないでしょう。いや、そもそも相手が甲冑を着ていれば「引いて斬る」だけでは傷一つ与えられない可能性の方が高い。
「引いて斬る」が日本刀の本質であるのに、わざわざ吹雪がそれが本質であると時行に説かねばならないということは、その本質が多くの武士に忘れられてしまっているからです。何故忘れられてしまっているかというと、獣相手ではなく甲冑を着こんだ武士を相手にしなければならなくなって以降「引いて斬る」という戦い方では相手に勝てなくなってしまったからなのです。甲冑を着た相手には「引いて斬る」という攻撃では通用しないので、結局力任せに斬ることになる。そうなれば力の強い者が有利になっていく。前回、甲冑を着た瘴奸に子供である弧次郎と亜也子の攻撃が全く通用しなかったのは、結局はこの時代の刀の戦いがパワー勝負になってしまっていたからです。西洋剣のような力任せに相手の甲冑ごと粉砕するような分厚くて重い武器が生まれればよかったんでしょうけど、日本刀の作り方自体は全く変わらなかったので、そもそも日本刀はこの時代は時代遅れの武器となりつつあった。それで遠心力で相手の甲冑の防御力を無効化する長刀や槍のような武器が生まれてきたのです。
だが、そんな時代において吹雪は「鬼心仏刀」という「引いて斬る剣術」で甲冑を着た敵を倒せるのだと言う。その秘策が一見無意味に見える刀の脇にかざした左手の「照準」なのです。「照準」ということは「狙いをつけるための目印」のようなものであり、その左手と自分の構えた刀の間を相手の振り下ろした刀が通過した瞬間、反撃に転じるためのタイミングを割り出すための目安として左手を突き出しているわけです。これは相手が時行を真正面から斬ろうとしてくれないと使えない戦法ですから、狭い室内で1対1で、しかも時行の素早さによって動きの主導権を握れているからこそ、このシチュエーションが作れるのだといえます。
そうして瘴奸が真正面から時行めがけて振り落ろしてきた刃が照準である左手と時行の刀の間を通過するタイミングで時行は特に回避能力でその刃を躱す。しかし真後ろに逃げるのではなく、身体を90度回転させて左を向き後ろに跳び、その遠心力で八相気味に右手一本で構えた刃を振り下ろし、後ろに跳びながら引いて斬る。その時に斬るのは瘴奸の振り下ろした刀の柄を握った右手首の内側です。左を向いて後ろに跳んだ時行は瘴奸の身体の左側に跳んだことになるが、その時行から見て刀を振り下ろした姿勢の瘴奸の右手内側はガラ空きの状態となり容易に跳びながら「引いて斬る」ことが出来る。狭い室内に誘い込んだことにより瘴奸に刀身の短い打刀を使わせるよう誘導したことによって、時行は瘴奸の間合いに入りやすくなり、そのぶん時行の斬撃が瘴奸の手首に届きやすくなっているのもミソです。そこまで下準備をしてどうしても狙いたかった場所が手首内側なのです。
その部分は甲冑で覆われておらず肌が剥き出しになっている。手首の内側を甲冑で覆ってしまうと手首を曲げられなくなって刀を振れなくなってしまうからです。そうして剥き出しとなった手首には皮膚の下の浅い部分を動脈が通っている。だから「引いて斬る」だけで瘴奸の右手首の動脈を切って大量出血させることが出来るのです。ただ、それで瘴奸を倒せるわけではない。手首の動脈を切って大量出血しても人間は簡単には死なない。死に至るほど出血するにはそれなりに時間がかかる。頸動脈を斬れば脳にいく血がすぐに足りなくなるので脳死して生命活動は急速に止まりますが、手や足の動脈を斬っても体内の血液量が生命活動が維持出来なくなるぐらい減るか、あるいは塞栓症でも起こすまで待たねばいけないので、それなりに時間がかかってしまう。手足でも切断出来れば相手の動きを封じて相手が死ぬまで時間稼ぎがしやすくなるが、手首を切ったぐらいでは瘴奸の戦闘力は落ちないし、出血が意識を失わせる量に達するまでの時間内に瘴奸が時行を無力化してしまえば、瘴奸は止血をして生き永らえて、そして時行は瘴奸に捕らわれてゲームオーバーとなります。
つまり、瘴奸が出血多量で意識を失う前に時行を捕まえてしまえば瘴奸の勝ちであり、瘴奸が出血多量で意識を失うまで時行が逃げ切ることが出来れば時行の勝ちということになる。当然ながら瘴奸はこの狭い密室内で時行が自分から逃げきれるわけがないと思っており自分の勝利を確信しますが、吹雪が時行の「逃げ上手」があれば「鬼心仏刀」を使いこなして勝利出来ると言ったのは、まさにその勝負こそが時行の「勝ち筋」でしかないからだったのです。時行はむしろこの狭い室内で必死で自分を捕らえようとしてくる瘴奸との鬼ごっこのスリルを想像すると、ワクワクして笑みがこぼれて仕方ない状態となってしまう。つまり、時行が瘴奸の手首の動脈を切った瞬間にもう時行の勝ちは決まっていたと言っていいのです。
この後、場面は征蟻党の幹部である死蝋と戦う弧次郎と亜也子の場面に変わります。死蝋は怪力の長刀の名手であり、非力な子供である弧次郎と亜也子は長刀を振り回す死蝋に全く手も足も出ない。そもそも長刀は刀よりも上位の武器であり、しかも死蝋は服の中に甲冑も着こんでいて非力な弧次郎と亜也子の斬撃では有効な攻撃を当てることも出来ない。そんな弧次郎と亜也子に対して勝ち誇った死蝋は、2人が手練れだが惜しいことに今日ここで死ぬのだと言い、2人がもう10年も生き永らえて大人になれば「弱者を蹂躙する快楽」を知ることが出来たのに惜しかったと嘯く。そして2人の主君が2人にそんな快楽を教えなかったのは無能の証だなどと言って侮辱する。死蝋にそのような快楽を教えたのは瘴奸なのだそうだ。
だが樹の上に現れた雫が死蝋に吹き矢を刺しながら「弱者を守るように私たちに命じた兄さまの方が武士として器が大きい」と言い返し、そこに亜也子が反撃してきて死蝋は長刀で攻撃を受け止めるが何故か亜也子が押し勝ち死蝋の長刀を強引に奪おうとする。どうやら雫の吹き矢には痺れ薬が塗ってあったようです。そこに弧次郎が斬りこんできて身体を回転させての斬撃で死蝋の肩をバッサリ斬り裂く。そして自分たちは10年待ってなどいられないのだと言う。頼重が予告した時行の天下取りの大戦はもう1年半後に迫っている。その時に郎党として役に立たねばいけない弧次郎も亜也子も、子供であってもこんな死蝋ごときに負けるわけにはいかないのだ。そして弧次郎は自分たちの主君は「北条時行」だと宣言し、地獄の鬼どもに触れ回るようにと言い捨て、亜也子が死蝋の首を刎ねて勝利する。
一方、もう1人の征蟻党の幹部である腐乱と戦っていた吹雪は、腐乱の変化する太刀筋に苦戦します。その技が見事だと思った吹雪は剣の師匠の名を腐乱に問うが腐乱は教えようとはしない。この乱世では自分の手の内は全て隠すのが賢い生き方なのだと腐乱は言い、吹雪に襲い掛かるが、吹雪は腐乱の技が未熟であることを見破っていて、弱点を見破って腐乱の首を刎ねて勝利する。ここで吹雪が「隠されたものを明らかとする」ことに喜びを感じる人間であることが判明しますが、腐乱のように秘密を上手く隠しきれていない者には吹雪は大して興味を向けない。それよりも吹雪は「長寿丸」が何か大きな秘密を隠しているように感じて惹かれてしまっていたのでした。また、ここで腐乱が隠した剣の師匠のことも少し気になる。その師匠はおそらくこの技を腐乱のように不完全ではなく完璧に弱点も無しに使いこなすのだろう。更にまた、吹雪自身がまだまだ秘密を隠していそうである点も気になるところです。
ここで場面は再び時行と瘴奸の戦いの場面へと戻りますが、時行の逃げ上手の作画が凄いことになっていて、瘴奸はどうしても時行を捕まえることが出来ないまま絶望的に時間が経過していきます。ここで時行はフラフラになっていく瘴奸を斬ることも出来たはずであるのに、ひたすら逃げに夢中になっていて逃げに徹しているのが凄い。瘴奸は必死で刀を振りまわして狭い部屋の中を走り回り、その結果、部屋の中は壁も床も瘴奸の手首から噴き出す血液で真っ赤となっていき、地獄絵図となる。そんな地獄のような情景の中で時行は鬼ごっこが楽しくて楽しくて無邪気な満面の笑顔で頬を上気させて駆けまわる。最初は菩薩のような構えから始まり、最後は血の池地獄のような惨状で終わる、それゆえ「鬼心仏刀」というのでしょう。
そうして瘴奸は出血多量で意識を失い倒れるのであるが、その際に瘴奸の過去が回想される。それによると、瘴奸はもともと御家人の家の出身のようだったが、兄に父の領地の全てを相続させることとなり、弟であった瘴奸は兄の家来になるようにと父に言われ絶望したという過去が描かれる。鎌倉時代、御家人の家では兄弟が均等に父親の領地を分けるのが主流であったが、それではどんどん領地が細分化されて一族の力が弱まるので鎌倉時代の後期には長子相続に移行する過渡期となった。瘴奸の家では伝統的な分割相続を守っていたようであるが遂に限界に達して瘴奸の兄弟の代から長子相続に切り替えたみたいです。それで瘴奸が領地を得られず絶望して、「領地無くして何が武士か」と領地に異常に執着して、こうなれば他者から領地を奪うしかないと思って「悪党」となり荘園の領地を奪ったりするようになり、結局は盗賊の類に堕ちていったようです。鎌倉時代の末期に「悪党」が増えたのにはこういう時代背景があったのであり、瘴奸以外にも似たような理由で「悪党」となっていった御家人の次男坊や三男坊などは多数存在していた。
もともとは瘴奸はれきっきとした武士であった。そして武士であるためには領地が必要であると思い、領地を得て武士となるために「悪党」となり、気が付けば武士ではなく盗賊となっていた。完全に自業自得なのだが、とにかく瘴奸はもともと盗賊になりたかったわけではないのに、いつの間にか盗賊となっていて、いつの間にか心まで盗賊となってしまい、そのやるせなさをぶつけるように、弱者から全てを奪い、かつて親のせいで全てを失い惨めであった頃の自分と同じ境遇に子供たちを堕として腹いせとしていた。そんなことをして新たな悪党を生み出すことに喜びを見出していたのかもしれない。そして瘴奸はそんな自分の心の闇に絶望し、自分の人生には闇しか無いと絶望していた。
ここで興味深いことに、この瘴奸の回想の中に楠木正成が登場してくる。どうやら瘴奸は盗賊として追われる生活から抜け出すために一旦武士に戻って鎌倉幕府軍と戦う楠木正成の軍に参加したようです。おそらく赤坂城の戦いだったのでしょう。しかし負け戦となり落ちていくこととなったが、その別れの際に楠木正成に瘴奸は「どこか遠くに逃げ延びれば光差すところもあるかもしれない」と言われたようです。その後、各地を転々として名前も何度も変えて小笠原領まで辿り着き今に至る瘴奸であったが、結局は「光」など見つけることは出来ず「闇」のような生活が続くだけだった。
その果てが今こうして血まみれの地獄のような情景と化した部屋の中で出血多量で死んでいくという最期であった。しかし、その絶望の中で瘴奸は遂に「光」を見つけた。それが血しぶきの中で満面の笑顔を浮かべる時行の姿だった。こんな地獄の中で、闇の人生を終えようとしているこんな自分にニッコリ笑いかけてくれる時行の姿を見て、瘴奸は「まるで仏のようだ」と思った。「地獄で仏」とはまさにこのことであり、地獄に行くような悪党でも赦してくれるという「仏様」に出会えたのだと瘴奸は思った。そして「闇」に終始した自分の人生の最期の瞬間についに「光」を見出したのだと思えた。
ここで瘴奸は「仏」というものの本質を初めて知ったのだといえます。この戦いが始まる前、瘴奸は部下たちに向かって「どんな悪事も仏様に念仏を唱えれば全部チャラにしてくれる、有難いものだ」とうそぶいて悪事を重ねていました。だが仏の本質は「悪事を何でも許す」というものではない。確かに念仏を唱える宗派である浄土真宗などでは「悪人も救済する」といわれており、瘴奸はそれを都合よく解釈して自分の悪事を正当化していたが、仏教の教えにおける「悪人を救済する」というのは「悪事を許す」という意味ではない。悪事はちゃんと裁かれて罰を与えられるのです。その上で悪人の魂も救済するというのが仏様の有難さなのです。瘴奸は時行の「鬼心仏刀」によって出血多量で死ぬという罰を与えられながら、それでも時行の笑顔を見て、そんな悪人である自分も笑って許してくれる仏様の慈悲というものを生まれて初めて実感したのです。それによって瘴奸は自分の「盗賊」としての罪が罰によって浄化されて消えていき、ようやく闇の晴れた心で光を感じて「武士」として死んでいけると安堵し、意識を失い倒れたのでした。
なお現実には「鬼心仏刀」などという剣術は存在しないし、そんな熟語も存在しない。だが「鬼手仏心」というよく似た形で逆の意味と見なすことが出来る熟語は存在する。その意味は「無慈悲な行いに見えても相手を思いやる優しい心によるものである」というものだが、そうなれば「鬼心仏刀」はその逆であるから「無慈悲な心で繰り出す剣ではあるが結果的に相手を救うことになる」という意味なのでしょう。
この後、時行は吹雪と弧次郎と亜也子と雫と合流して、あとは敵の残党に瘴奸の死を伝えれば逃げていくだろうという勝利間近な状況となりますが、ここで小笠原貞宗の軍勢が征蟻党の援軍としてやってくる。どうやら勝手に征蟻党が住民の虐殺をやっているのを聞いて、その間に諏訪軍の反撃を受けてしまうだろうという危惧と、せっかく領地を奪っても住民が居ないのでは実益が無くなるとか、とにかく瘴奸が命令を全く無視していて困って軍を率いてきたようです。これで時行たちは窮地となってしまうが、そこに玄蕃が呼びに行っていた諏訪の援軍が頼重が率いてやってきて、それで貞宗は仕方なく征蟻党の残党を回収して退却していく。その際に瘴奸の存在にも気が付いて回収し、止血が間に合って瘴奸は死を免れました。そうして貞宗は今後は「盗賊」を辞めて「武士」に専念して自分に仕えるようにと言い「領地」を与えると言い渡す。それを聞き、瘴奸はようやく「武士」として生き直すことが出来るように思えて、その命令に従い、ようやく自分の人生に仏の慈悲の光が届いたように思えた。そして貞宗は瘴奸の目の「盗賊」の色が消えていて「武士」になったように感じた。まぁ実際のところ瘴奸の行ったこれまでの悪事が帳消しになるとは思いたくないし、瘴奸に幸せな人生など赦してはならないとは思うのだが、そういう悪人の魂さえ救うというのが「仏」というものの本質なのです。ちょっと理解し難いところもあるが、だからこそ仏教というものは奥深いのです。
そして一方、駆けつけた諏訪頼重から実は「長寿丸」の正体が鎌倉幕府の正統後継者である北条時行であり、時行が天下取りを目指していると聞いた吹雪は、それほどの大それた秘密を隠していた時行に惚れこみ、逃若党の新たな一員となった。そうして今回は終わり次回に続きますが、来週はお休みで総集編をやるみたいですね。これで残りは3話ですが、どう考えても話の途中で終わりますけど、一体どういう感じで終わるんでしょうね。
ATRI My Dear Moments
第8話を観ました。
今回は前回のアトリとのデートの際にアトリとキスしてしまったことで困惑している夏生の場面から始まります。夏生としても前回のあのキスは思わずやってしまったようです。前回のあの場面では夏生がアトリに心があると分かって嬉しそうにしているのをアトリに指摘されて、その後アトリと身体が接近して、アトリがキスを求めるような仕草を見せて夏生がキスをしたのですが、夏生としてはどうして自分がそんなことをしたのか分からないみたいです。
相手のアトリが人間ではなくヒューマノイドであることは夏生も分かっている。確かに夏生はアトリに人間のような心があるのではないかと疑い、もしアトリに心があったら嬉しいし、もしそうであるのならアトリを人間として扱うべきではないかとも思っている。だが、それと「アトリを恋愛対象とする」というのとは話は別です。
確かにアトリが夏生の初恋の相手だったかもしれないという疑惑はある。ただ、もしそうだったとしても、子供の頃の夏生は相手がヒューマノイドではなく人間だと思っていたから恋をしたのであり、現在の夏生はアトリがヒューマノイドだと分かっているわけですから、たとえアトリが初恋の相手そのものであったとしても、現在の夏生が現在のアトリと恋愛するということにはならないはずです。人間とヒューマノイドは恋愛などしないというのが常識であり、夏生もそういう常識は持ち合わせている。
確かに夏生はアトリに心があるかどうかを確かめるためにアトリの恋愛感情を試すようなことをしました。その結果、アトリは恋愛というものに興味を持ち、キャサリンもアトリの心の有無を確かめるためにアトリに恋愛の知識を与えてみようと思い、アトリは恋愛に関する知識を得ました。それでアトリから夏生をデートに誘ったわけですが、夏生もアトリが恋愛について学んだので恋愛の真似事をしているのだろうと思っていました。しかし、自分の心にアトリに対する何らかの衝動があることを気付かされて、夏生は思わずアトリに誘われるままキスしてしまった。その際、夏生はアトリを「愛おしいもの」「絶対に離したくないもの」と思ってしまったようです。どうしてそんなふうに思ったのかは夏生にはよく分からず、それで夏生は困惑しています。なお、この冒頭の場面では、アトリが寝ている時に「夢」を見ていることも判明します。ヒューマノイドが夢を見るというのがそもそも不可解ですが、どうやらいつも夏生の夢を見ているみたいですね。
夏生は学校の授業の際も上の空で、水菜萌や竜司たちも夏生とアトリとの間で何かあったのではないかと思い、水泳の授業の際に見学している夏生をつかまえて問い詰めたところ、夏生は水菜萌たちにアトリとキスしたことを打ち明ける。キスをしたということは夏生がアトリに対して恋愛感情があるということなのかと思い、竜司は夏生がアトリを初恋の相手だと認めたのだと解釈して祝福したりする。一方、洋子は夏生をロリコンだと見なしてドン引きし、水菜萌は夏生がアトリに心があると認めて人間として扱った結果恋愛感情を抱いたのだと解釈します。ただ夏生は自分がアトリに恋愛感情を抱いているのかどうか正直よく分からないのだと言う。アトリは夏生にとってはヒューマノイドでもあり、同時に初恋の相手でもあり、正直混乱しているのだと夏生は水菜萌たちに言います。
しかし、水菜萌は自分もアトリには心があると思うと言い、夏生に「だから自分の心に正直になって、アトリちゃんの心に向き合ってあげてほしい」と伝えます。水菜萌は夏生のことを好きなはずなのですが、こんなことを言えば夏生の心がアトリの方を向いてしまって水菜萌には損なはずだと思い、竜司たちは後でどうしてあんなことを言ったのかと水菜萌を問い詰める。すると水菜萌は、夏生が子供の頃に母親も自分の脚も無くしても前を向いて頑張っているのを見て自分も頑張ろうと思えたという思い出話をして、自分は夏生と一緒にいたいのではなく、この世界を少しでも良くするために一緒に頑張りたいのだと言う。それが水菜萌の夏生に対する愛の形なのです。そして、アトリが傍にいるようになってからの夏生が昔みたいに前向きになっているように思えるから、自分は夏生と一緒に頑張っていくために夏生とアトリが仲良く出来るよう応援したいのだと水菜萌は言います。
夏生の方は水菜萌にそんなことを言われたものだから、アトリに心かあるのか再度確かめようとして、船に戻ってアトリの作った料理を見て、どうして料理を作るのかとか、どうして自分が喜ぶと嬉しいのかとか、色々と質問攻めにする。するとアトリは答えに窮して困ってしまい、考え抜いた末に「好き」だからだと答える。しかも「恋人の好き」だと付け加える。それが何だか無理に言わせたみたいになってしまい本心で言っているように聞こえず夏生は質問の仕方が良くなかったのかと思い首を傾げてしまいますが、それを見てアトリは夏生の耳元で色っぽい声で「本心ですよ」と囁き、そのまま色っぽい表情で夏生を見つめてキスをせがむ態度となるので、夏生も思わずキスしそうになり直前で自制して食事を始めてその場は誤魔化します。
その後、アトリがキャサリンから貰ったというペアの枕をベッドに置いて「これを使えば夏生さんが優しくしてくれると聞きました」と言っているのを聞き、夏生はアトリが初めて知る恋愛に関する知識をよく理解出来ないまま振り回されているのだと感じた。そして、それに流されて自分がキスしたりすることで結果的にアトリが傷つくのではないかと思えた。それはつまり夏生がアトリの心を気遣っているということであり、アトリに心があると認めているということの証でした。それで夏生は水菜萌の「自分の心に正直になって」という言葉を思い出し、これからはアトリが人間の女の子と同じ傷つきやすい心を持っていると見なして接することにしようと決意した。
それで夏生はベッドの上にカーテンで仕切りを作り、これからはアトリと別々に寝ることにすると伝えた。そして、それはアトリを心があると認めたからであり、アトリを大切に想っているからだとも伝えた。アトリはそれでも別々に寝ることに釈然としない様子で、人間はみんなこうするものなのかと質問してくる。それで夏生は皆がそうとは限らないと言い「人の心は色々で、良い悪い、正しい正しくないで割り切れない」「時には間違ったこともする」と答える。それはつまりキャサリンも指摘していた人間の感情の持つ恐ろしい側面でもある。
だが、ここでアトリの脳裏に突然に謎の女性が倒れている姿の記憶がフラッシュバックする。どうやらそれがアトリにとっての「間違い」であるようですが、アトリ自身がそれが何なのか認識出来ているのかいないのかは不明です。ただアトリはその記憶がフラッシュバックした後「私にも心があるのでしょうか?」とカーテンの向こうの夏生に不安げに問いかける。夏生にはそれは心があるのかどうか不安がっているように聞こえたのであろうけど、おそらく実際はアトリが「心は間違いを犯す」と知って、過去の「間違い」の存在を思い出して、自分の心が間違いを犯したのだろうかと不安を覚えたのでしょう。
そうとは気づかない夏生はそれは分からないと言いながら「俺はアトリに心があると信じている」と答え、アトリは夏生が自分を信じてくれているのだと思うと安心できて、本当に夏生が自分を大切に想ってくれているのだと実感できた。それで「大切に想ってくれて嬉しいです」と言うと、夏生も子供の頃に助けてもらったことに対する感謝を伝えて、「あの時、どうしてあんなに優しい言葉をかけてくれたんだ?」とカーテン越しに問いかける。
それは夏生が9歳の時に崖から飛び降り自殺しようとしていた時、アトリがそれを歌で引き止めてから「よしよし、大丈夫だよ」と言って夏生の頭を撫でてくれたことを指す。だが、それに対してアトリは「それは、教わったから」と意外な答えを返すのだが、その時はもう夏生は眠りに落ちていたので、そのアトリの言葉は夏生には聞こえませんでした。このアトリの言葉の意味は現時点ではちょっとよく分かりませんが、もしかしたらアトリが8年前に夏生に優しい言葉をかけたのはアトリ自身の意思ではなかったのかもしれない。そうなると、そもそもアトリが夏生を助けたのもアトリ自身の意思ではないのかもしれない。
その後、夏生は謎の夢を見ます。それは夏生が片脚と母親を失った事故の時の夢みたいなんですが、そこにアトリが居て「大丈夫だよ、君は1人じゃない」と励ますという夢です。夢ですから現実に起きたことそのものではないのかもしれませんが、とにかく夏生はその夢にうなされて飛び起きます。するとアトリがテーブルのところで寝ていて、例のログ帳が開いて置いてあり、どうやらログを書いていて途中で寝てしまったようです。それで夏生が近づいて見てみると、ログ帳に書いてある内容が目に入った。そこには夏生とキスをしたと書かれていたが、アトリはキスが意味不明だと書いていた。
それで驚いて夏生がログ帳を手に取ってページをめくってその内容を読んでいくと、これまでアトリは恋愛について学んだ知識に基づいてその都度適切だと思える行動を選んでいただけであり、そこに心は存在していなかったことが分かった。更に、アトリが夏生に「自分には心があると思います」と答えた時も、そういう答えを夏生が望んでいると判断して答えただけであり、アトリは自分に心があるとは思っていなかったことも分かった。「恋人の好き」だと言ったのも「心から好き」と言ったのも、全て計算して言っていただけであり、アトリがいちいち夏生の反応を見て上手く騙せていることも確認しながらそういう言動をしていたことも分かってしまった。
それで夏生は自分がアトリに心があると信じていた気持ちが裏切られていたと感じて、アトリに対して不気味さと嫌悪感を覚えてしまい、目を覚ましたアトリに対して「近づくな!」と拒絶反応を示してしまったというところで今回は終わり次回に続きます。さて、どうなることか。確かにアトリには夏生が期待していたような恋愛感情は無かったようですが、それはもともと分かっていたことであり、だから恋愛に関する知識を教えて、感情の有無を確かめようとしていたわけで、その結果としてログ帳を見る限りでは感情が存在しないようにも見えるが、インプットしている知識に問題があって適切なアウトプットが出来ていないだけなのかもしれない。とにかくまだ結論を出すのは早いような気もする。それにアトリの謎の記憶のことも気になります。ここからはアトリに関する謎が徐々に明かされていくことを期待したいと思います。
負けヒロインが多すぎる!
第8話を観ました。
今回は文化祭の準備のお話。文芸部も先輩たちが引退して次の部長は小鞠ということで温水が副部長として小鞠を支えてやってほしいと先輩に頼まれる。それで文化祭の文芸部の出し物は小鞠に仕切らせて自信をつけさせようということになり、温水は八奈見と共に文化祭の企画を考えるため小鞠を連れて取材に出かけたりする。それで「食と文学」というテーマの展示をすることになりますが、八奈見は食べ物を作りたいと言い出し、焼き菓子を作ることになる。そうして準備は着々と進むが小鞠が何だか元気が無い。そして最後に温水が生徒会に申請書を出しに行ったところ、変なキャラ2人が登場したというところで次回に続きます。