2024春アニメ 5月30日視聴分 | アニメ視聴日記

アニメ視聴日記

日々視聴しているアニメについてあれこれ

2024年春アニメのうち、5月29日深夜に録画して5月30日に視聴した作品は以下の1タイトルでした。

 

 

怪異と乙女と神隠し

第8話を観ました。

今回は長めの前半パートで董子が小説家を志したきっかけとなった子供の頃の話が描かれ、その後で短めの後半パートではおそらく次回に繋がるのであろう話の導入部分が描かれました。この前半パートと後半パートの間に何らかの関係があるのか無いのか、それについては後半パートの内容があまりにも不足していて詳細が不明なので何とも言えないですね。ですから、とりあえずは前半パートと後半パートは無関係ということにしておきましょう。そうなるとやはり今回は前半パートがメインのレビューということになります。前半パートの話は短い話であり、一見するとちょっとした不思議体験のお話という感じですが、そういうミステリー要素を抜きにしてもなかなか興味深い内容でした。

まず前回の事件の後、再び書店のバイトの日常生活に戻った董子と蓮の2人の様子が描かれる冒頭の場面から始まります。ここで蓮がお客様から置いてあるかどうか問い合わされた書籍について董子に質問してくるが、その書籍のタイトルが「おなら大全」というふざけたものでした。しかし董子はそのメモ書きされた「おなら大全」という文字を見ると、すぐにその書籍の置いてあるコーナーをスラスラ教えてくれるので蓮は驚く。蓮はそんなふざけた名前の本がそもそも実在するとも思っていなかったようです。しかし「おなら大全」は董子と蓮の勤める書店にちゃんと置いてあった。

ちなみにこの「おなら大全」ですが、なんと劇中設定だけなのではなくホントに実在してます。ロミとジャン・フェクサスという2人のフランスの文筆家による著書であり、古今東西の屁について集成した初のおなら百科事典らしい。しかもフランスでは賞とか取ってるので、有名な作品みたいです。だから本好きの董子は全く考えこむこともなく即答で「おなら大全」の置いてある場所を答えることが出来たのでしょうけど、普通の人間なら、まず「おなら大全」なんて本が実在するとは思えず客の間違いじゃないかと疑うでしょうし、ましてや「おなら大全」が自分の書店に置いてあるとも思わないでしょう。

それで蓮は改めて董子の本好きは常軌を逸していると感心し、董子に「書店に置いてある本全て把握してるんじゃないですか?」とちょっと気持ち悪そうに言います。2人の勤めている書店は結構大きな書店ですから、在庫の書籍を全て把握しているとなると、かなり変態的だということです。すると、それに対して董子は「ずっと探している本たちがあって、それらを探しているうちに自然に覚えてしまった」のだと言う。つまり、董子はずっと探している本が複数あって、それが自分の勤めている書店に無いものかと思って在庫の書籍を全部確認して探していたみたいです。それを新刊が入ってくるたびにずっと繰り返して、おかげで今では全ての本を把握してしまったということみたいです。

それで蓮がどういう本なのかと聞くと、董子は覚えていないのだと奇妙なことを言う。ずっと昔にたくさんの本を読んだのだそうですが、それらのタイトルも内容も覚えていない。ただ滅法面白かったのは覚えているので、手にして読めば思い出すんじゃないかと思って、それで手当たり次第に書店に置いてある本全てを読んでみて確認しているみたいです。なるほど、確かにタイトルやジャンルが分かっていれば書店の本を全部を覚えてしまうぐらいに確認をする必要など無いですからね。董子はタイトルも内容も覚えていない本を探すという当て所の無い作業をした結果、書店の本を全て覚える羽目になってしまったわけです。

しかし、タイトルも内容も覚えておらず、ただ滅法面白かったという記憶だけでそこまでずっと董子がこだわり続けているというのも奇妙な話で、実は董子はそれらの書籍のタイトルも名前も覚えていないが、それらの書籍に出会った経緯だけはしっかり覚えていたのであり、それがどうにも奇妙な経験だったから強く印象に残っていたのです。そもそも、この世にある全ての書籍を確認したわけではないが、少なくとも自分の勤めている大型の書店で全ての在庫の書籍をチェックしても見つからなかったわけですから、それらの書籍が本当にこの世に実在しているのだろうかという疑念は董子にもあった。そういう疑念を抱かせるぐらいに、董子がそれらの書籍に出会った経緯は不思議な体験だったのであり、そう考えると董子はますます好奇心が湧いてきて、それらの書籍をどうにかして見つけ出したくなってくる。実のところ、それらの書籍にも興味はあったが、董子が最も興味を抱いているのは、それらの本に出会った場所の在処であったようです。董子がそれらの書籍を探している真の理由は、それらの本に出会った場所を探し出すためでもあったのです。それは、その場所での経験が董子が小説家を志すようになったきっかけになっているからでした。

子供の頃の董子は口下手な子であったのだそうです。現在の董子は決して口下手ではなく、ちょっと皮肉の利いた持って回った言い回しが特徴的ではあるが、よく喋ります。だが子供の頃はあまり喋る子ではなく、それは言葉が上手く出てこないからでした。それは言いたいことが無いので喋らないのではなく、心の中に様々な想いを渦巻いているのだが、それらを上手く言語化出来なかったからみたいです。それで董子は友達と一緒にいても黙り込んでしまうことが多く、特に感情に大きな動きが生じた場面ほど心の中が混乱してそうなってしまう傾向が強く、トラブルの時に黙り込んでしまうことが多いので、ますます誤解されて喧嘩になってしまうことが多くて、董子はそんな自分を持て余して困ることが多かった。

そんなある日、いつものように友達と喧嘩になってしまい、何も言葉が出てこなくなった董子は友達たちに非難されてしまい、泣いて逃げ出した。友達も追いかけてきて、董子は逃れようとして道端にあった金網のフェンスの下の方に開いていた穴をくぐってフェンスの向こう側の溝に隠れて友達の追跡をかわして、そのままその先を進んでいくと広場に出て、その広場には「玉心堂書店」という本屋があった。看板には「映画・演劇・シナリオ・戯曲」とも書いてあり、戯曲関連の書籍を多く扱っている古書店であるようだった。

といっても、まだ小学生の董子にそこまで詳しいことは分かるわけではなく、ただ単に「本屋がある」という認識しか出来なかったことでしょう。それで董子がその書店の中に入ってみたところ、中には書店員の女性が1人居て、「ごゆっくり」と董子を迎えてくれた。書店員は別に董子に積極的に接客してくるわけではなく、机に向かって椅子に座っており、一冊の本を読んでいた。その本のタイトルは「CHARYBDIS」と書いてあった。

そして董子が書店内の膨大な書籍の数に圧倒されて呆然と立っていると、その書店員は急に泣き出して、董子がビックリして書店員の方を見ると、書店員はその本を読んで感動して泣いているようでした。董子はその頃は本に特に興味など無くて、「本なんて退屈なだけ」と思っていたので、大人が本を読んで泣いているのを見てビックリした。それで書店員は董子が興味深そうに見ているので、ちょうど読み終わったのだというその「CHARYBDIS」という本を貸してくれて、奥の試し読みスペースで座って読んでくれていいと言ってくれる。それで董子はその本を読み始めることになった。

つまり、董子が現在でも探している複数の本のうちの1冊がこの「CHARYBDIS」という本なのですが、現実にはこんなタイトルの本は存在していません。いや、それはネットで検索してみてヒットしないだけであり、そういうタイトルの本がこの世に実在していないとは断言は出来ないでしょう。これは「カリュブディス」と読むのですが、「カリュブディス」はギリシア神話に登場する海の怪物の名前であり、ホメーロス作の古代ギリシアの長編叙事詩「オデュッセイア」に登場します。だからまぁ有名な怪物の名前ではあるので「カリュブディス」という怪物について著述された「カリュブディス」というタイトルの本が何処かに実在していてもおかしくはない。

ただ、ここで董子が読んだ本の内容は、別に古代ギリシア神話に関連した内容ではなく、ある男が3通の手紙のうち1通を開封するとかいう話であり、全くカリュブディスという怪物とは無関係な内容でした。それでタイトルが「カリュブディス」であるわけで、おそらく戯曲なのでしょうけど、こんな本はおそらく実在しないでしょう。ただ、董子はこの本の内容に夢中になり、初めて本を読んで楽しいと思えたようです。そうして夕方までずっと読みふけっていると書店員がやってきてもう遅いから帰るようにと言い、続きは明日読むようにと言う。それでも董子が名残惜しそうにしているので書店員はその本を貸してくれて、明日必ず返却するようにと言って持ち帰らせてくれた。

そうして董子がその本を家で読み終わって翌日も前日と同じように金網フェンスの穴をくぐって広場に行き、そこにある「玉心堂書店」に入って昨日と同じ書店員に本を返却すると、書店員は今度は自分で別の本を見つけて読むようにと言ってくれる。それで董子は書架からまた新しい別の本を取り出して奥の試し読みスペースで読みました。この場面では董子が読んでいる本のタイトルは不明ですが、内容は不倫している夫婦の破局を描いたようなものでした。これもどうやら戯曲っぽいですが、董子は「不倫」というものに興味を抱いたようで、書店員のところに行って「不倫」とはどういうものなのか質問する。それに対して書店員は「誰もがしているけどバレるとマズいこと」だと答える。それを聞いて董子はクラスの男子が辞書でエッチな単語を見つけると線を引いているのと同じことなのかと質問し、書店員はそれは悪いことではないが度し難いことだと言ったりする。なお、ここで書店員が読んでいた本のタイトルは「OPHIOTAUROS」と書いてあり、これは「オピオタウロス」と読むものであり、これもまたギリシア神話に登場する怪物の名前です。

その後の場面では董子はまた別の本を読んでいて、その本のタイトルは「EUROPA」と書いてあり「エウロパ」と読みます。「エウロパ」もまたギリシア神話に登場する女性の名前だが、エウロパはテュロスの王女でありゼウスとの間に冥界の審判者のミーノスやラダマンティスを産んだとされる女性です。しかし、その本の内容は魔法を信じている少女がその心を男に読まれて嘲笑われてその男に殺意を抱くというような内容であり、「エウロパ」というタイトルとは何の関係も無い。おそらくこんな本も実在はしていないのでしょう。

そして、続いての場面で董子が読んでいる本は「赤と青」というタイトルが書いてあるが、おそらくこんなタイトルの本も実在はしていない。そして、その内容は「呪い」に関するものであったようです。霊媒師が「人を呪うのは幽霊なんかじゃありません」と言い、「彼女は自ら命を絶つ前にあなたに一言だけ、花の名前を教えた」と霊媒師は言い「それが呪いというものなのです」と続けたというような内容です。

このあたりの一連の描写はストーリー的に大して意味のあるものではなくて、おそらく象徴的なものなのだと思います。何らかの暗喩になっていて、そこから意味を汲み取って楽しむようにという意図で配置されている。こういうのを嫌って理解しようとしない人は多い。こういう手法を使う作品を「つまらない」と切り捨てる人も多い。逆にやたらこういう楽しみ方が好きで、ごく普通の作品においても枝葉末節に勝手に暗喩的な意味をこじつけて悦に入ったりする人もいる。私の場合はどちらの人もあんまり好きじゃない。前者はただの怠け者に見えるし後者は偏執狂に見える。普通の作品はそこまで深読みせず普通に楽しめばいいと思う。ただ、こういう明らかに象徴的な意図を汲み取るように仕向けている作品はちょっと面倒臭いとは思いつつも、その仕掛けに乗って楽しむのが正しい受け取り手の姿勢というものでしょう。もちろんこういうのは正解というのは無いんですが。

この後、書店員が董子の身体の中に言葉が言語化されなくて混沌としている様子が落ち着いてきているのをそれとなく確認するような描写があり、その後、書店員が最初にこの書店に来た時に董子が泣いていたので何かがあったのではないかと気になっていたのだと董子に伝えます。どうやら書店員が董子にいくつも本を読ませてやっていたのは、董子の状態を落ち着かせるためであったようです。そして董子が「上手く喋れなくて友達を喧嘩した」ということを伝えると、書店員は「人は頭の中に一冊の辞書があるそうだ」と言う。「心的辞書」というのだそうだ。人はその頭の中の辞書から言葉を探して喋っているのだそうです。だがどうやら董子は頭の中の辞書を引くのが苦手らしい。だから言葉がすぐに出てこないのです。

そこで書店員は董子に「文章を書いてごらん」と勧める。といっても実際に手で紙に書くわけではなく、頭の中に原稿用紙を用意して、頭の中の辞書を全部バラバラにして、知っている言葉を全部、原稿用紙に書いて、その言葉を並べ直して文章を作っていき、その出来上がった原稿を読むことで言葉を発することが出来るようになる。そういう方法で言葉を発する過程で、董子は頭の中にある膨大な量の原稿用紙に膨大な量の文章を書くことになる。つまり董子の日常そのものが長大な長編小説となるようなものです。そうして董子は自然に小説を書くようになるだろうと書店員は予告し、いずれ董子が小説を書いたら私にも読ませてほしいと言って、その日は2人は別れた。

そうして董子はさっそく書店員に教えてもらった方法を実践してみたところ、言葉が喋れるようになり、友達ともスムーズに会話が出来て仲直りも出来た。それでお礼を言おうと思っていつものように玉心堂書店に行こうとしたが、いつもは開いていた金網フェンスの穴はもともとそんな穴は無かったかのように綺麗に塞がっていて、フェンスの向こうには広場に続く溝に沿った細い道も存在しておらず、広場も玉心堂書店も二度と見つからなかった。

そういう不思議な出来事が董子の小学生時代にあり、それをきっかけに董子は上手く喋れるようになり、同時に頭の中で常に文章を書くクセが身に着いた結果、自然に小説家を志すようになり、中学の時に文芸賞を獲って作家デビューしたのです。その後は鳴かず飛ばずとなってしまいましたが、董子がそんな不遇にあっても変わらず小説を書くことが大好きなのは、この子供の時の不思議な体験が始まりとなっているのです。世間でウケて売れるものを書く才能は無いのかもしれないが、日常会話も全て頭の中で文章化してから喋っているというのは、これは一種の異能的な才能といえる。このまま売れないままで終われば確かに董子は世間的に見れば不幸なのかもしれないが、それでもここまで「文章」というものに浸って生きられるというのは、ある意味では幸せなことなのではないかとも思う。これも立派な才能だと思う。蓮が「董子さんには才能がある」と言ったのは、世間的に認められるような才能のことではなく、そういう宿命的な才能を指しているような気がします。

董子がそうした才能を開花させるきっかけとなったのがこの書店員の助言であり、書店員は董子が「言葉が上手く喋れない」という欠陥を抱えていたので、その克服のために助言をして、その結果、董子は文章を書く才能を開花させたということになる。だが、私は「そもそも人間というのはそんなに上手く喋る存在なのだろうか?」と考えてしまう。書店員は人間は頭の中に辞書を持っていて、その辞書を使うことで上手く喋っているのだと言っていた。つまり人間の脳の本来の力で上手く喋っているわけではなく、後天的に獲得した辞書機能を使うことで上手く言葉を喋れているのだということになります。

董子の場合は辞書をバラバラにしてしまって使っていない。その代わりに、バラバラになってしまった言葉を自分で組み立てて文章化することで言葉を喋れている。それはつまり、普通の人はいちいち考えて文章にしなくても、何かの概念が頭に浮かんだら、それを意味する適切な言葉を頭の中の辞書が自動的に引いてくれて教えてくれるので、そのままそれを口から喋っているのでしょう。だから断片的に色んな言葉がポンポンと飛び出してきて、割とカジュアルな口語的表現が多くなる。一方で董子は頭の中で自分が書き上げた文章を読み上げているので、どうしても堅苦しい文語的表現が多くなる。董子のセリフがどうも時代劇みたいな古臭さを感じさせるのはそういう理由なのでしょう。

つまり、古い時代の人間はみんな董子みたいなやり方で喋っていたのではないかと私は考えてしまう。そもそも昔の人間というのは、今の人間ほどたくさん「会話」というものをしていなかったのではないだろうか。ほとんどの人間は田舎の村で暮らしていて、周囲にいる人間の数は限られていていつも同じ面子ばかりで、そもそもそんなにたくさん喋るべき内容も無かったであろうし、1人で過ごす時間もかなり長かったと思う。だから子供の頃の董子みたいに「あまり喋らない」というのがむしろ普通だったのではないかと思う。「心的辞書」というものは割と最近になって人間の脳内で発達してきたものであり、本来の人間はそもそも普段あんまり喋らなかったので「心的辞書」はあまり必要としていなかったのではないかとも思う。

そうなると人間の発声器官というものも、そうした「心的辞書」で引かれた断片的な言葉を発するために存在していたのではなくて、別の目的があって発達した器官なのではないかと思う。それは人間の発声器官が音の高低や抑揚を調節するのに優れていることから、「歌を唄うため」の器官であったということが分かる。つまり、人間は「喋る生き物」というよりも、むしろ「歌う生き物」なのです。確かにそう考えると、昔の人は現代人ほどペラペラ喋らなかったが、その代わりによく歌を唄っていた。「田植え唄」など何か作業をするたびに歌っていたし、賛美歌やお経なんかも一種の歌です。みんな心的辞書で断片的に言葉を発するよりも、頭の中で自分で歌詞を作り上げてメロディーに乗せて歌って1日の多くの時間を過ごしていた。「ガールズバンドクライ」ですばるが仁菜に言っていたように「人間には歌う本能がある」のです。そして、それは董子のやっていることとそう大差ないのではないでしょうか。

いや、そもそもそれは同じなのです。何故なら、本来は「歌=文章」だからです。今回の董子の回想シーンの中での玉心堂書店内で読まれている本がやたらギリシア神話に絡んだものが多いのは一種の象徴になっていると思われますが、ギリシア神話こそが「文章」というものの起源ともいえる。そしてギリシア神話は太古から口伝で伝えられてきたものであるから、それは「詩」の形式で歌い継がれてきて、時には戯曲の形で上演されたりもしてきたということを意味する。つまり「歌=文章」なのです。また、その文章とは戯曲のような物語性の強いものが本来の姿なのだといえる。玉心堂書店が戯曲専門の古書店であったこともそうした文章の持つ本質的意味の象徴なのでしょう。

人間の「言葉」というのは本来は「心的辞書」などで断片的に単語を引き出して適当に喋るものではない。書店員も董子がクラスの男子が辞書にあるエッチな単語に線を引いて面白がっているような行為を「度し難い」と言っているように、単語だけを断片的に弄ぶ行為は低俗で度し難いものです。昨今の言葉狩りなどはそういう低俗な行為であり、言葉というものは単語としてではなく、ちゃんと文脈の中で判断すべきものです。だから人間にとっての言葉とは本来は、言葉を繋いでしっかり文章や歌の形に仕上げて、それを語り継いでいくためのものなのであり、書店員はその本来あるべき人間の言葉の発し方を董子に教えてくれたのだといえます。

董子は心的辞書を引くのが苦手だったために言葉が出てこなかったのだが、心的辞書を使えなかったために、むしろ心的辞書の影響を脱して人間本来の「言葉を自力で文章化する」という能力が開花する余地が大きかったといえます。ただ、まだ未熟で、言葉を文章化する方法が全く分かっていなかったために言葉を発することが出来ていなかった。それで書店員はまずは董子に数多くの本を読ませて、良質な文章の作り方のお手本を見せたのでしょう。それによって董子の中で言葉が文章化出来る程度に整理されてきた頃合いを見て、言葉を自力で文章化することで言葉を発する方法を助言したのでしょう。

ただ、この董子の回想の玉心堂書店の場面で1つ気になるのは、どうやら人間にとっての「言葉」を発する目的にはそのように文章や歌を作って伝えていくだけではなく、もう1つ重要な目的があったようだということです。それが董子が読んでいた「赤と青」という本の内容として描かれている「呪い」に関する部分です。そこでは「呪い」というものは幽霊ではなく人間が行うものだと定義されており、その例として「自ら命を絶つ前に花の名前を教えた」というものが挙げられている。つまり「呪い」とは命を代償にして発動するものなのであり、だから命を持たない幽霊には不可能なのであり、命を持つ人間が命を擲つことによって可能となるのでしょう。ただ、それは発動条件の話であって「呪い」の本質ではない。「呪い」の本質は「花の名前を教える」というような行為のことであり、一見するとごく当たり前の行為です。「花の名前」など全く取るに足りない普通のことに過ぎない。ただ、そんなものでも「人間が言葉にして発する」ということが「呪い」になるということをここでは言いたいのでしょう。人間の言葉にはそれだけの力があるということです。もちろん命を代償に差し出さなければ発動はしないのですが、本質的には人間の「言葉」には強大な力があるのです。もちろん、そこで言う人間の「言葉」というものは「心的辞書」で安易に引いてきたような断片的な言葉ではなく、自分の言葉を自力で脳内で文章化した「言葉」のことであるのは言うまでもない。

現代においては「心的辞書」を上手く使えずに言葉が上手く出てこなくて社会で上手く立ち回れないような人間は「社会不適合者」として扱われがちです。董子はそういうタイプであり、だから文章という形でしか言葉を紡ぐことが出来ず、それで小説家になった。そういうタイプの人間を私たちは他にも知っている。例えば「ガールズバンドクライ」の井芹仁菜もまた社会不適合者であり、歌という形でしか自分の言葉を紡ぐことが出来ないのでロックをやるしかない宿命を負っていた。「バンドリMyGO」の高松燈もまた詩という形でしか自分の言葉を紡ぐことが出来ない社会不適合者であったのでバンドを一生やるとか言ってる。「響け!ユーフォニアム」の鎧塚みぞれや高坂麗奈、黒江真由などは程度の差はあっても同じタイプであり、何らかの社会不適合的な性格の欠陥という代償のもとに自分の持つ特異な才能で自分の言葉を紡ぐことが出来ている。一方で「響け!ユーフォニアム」の黄前久美子は自分を「普通」と呼び、「夜のクラゲは泳げない」の光月まひるは自分を「量産型」と呼んで、むしろ彼女らの物語は心的辞書もちゃんと使えて社会に適合している普通の人間が「特別」になりたくて頑張るお話だといえます。

それはまざ置いておいて、董子はそうした自分の原点といえる玉心堂書店の思い出が印象に残っていて、それでそこで読んだ本のタイトルなどは忘れてしまっているが未だにそれらの本を探している理由は、それらの本を見つけることが出来れば再びあの書店に辿り着けるかもしれないと思っていたからです。それで蓮にそういう本を探しているのだという話をした日の帰り道、道端の金網フェンスの下に子供の時に見たのと同じ穴が開いているのが目に入った。董子の故郷は東京ではなくて遠方だというのは以前にラーメン屋で乙に言っていましたから、この場所はもちろん董子が子供の頃に通っていた道とは違う場所です。だが董子は何故かその穴があの書店に続く穴なのだと感じて、その穴をくぐろうとした。だが身体が大きくてつかえてしまったので、例の変和水の呪文の歌を唱えて幼女化して穴を通り抜け、そのまま先に進んでいくと、子供の頃に見た広場と同じ広場に出た。だあが、そこには例の書店は無く、例の書店の廃墟のようなものだけが残っていた。

董子が子供の頃の体験も含めて昨日の出来事についてもそういう不思議な体験をしたのだということを翌日にバイト先の本屋で蓮に話したところ、蓮はその古書店の名前を聞いてくる。董子は何故か書店の名前もうろ覚えであったのだが、ようやく「玉心堂書店」だったと思い出して蓮に伝えたところ、蓮はその名前にどうやら心当たりがある様子でした。

それで蓮にその心当たりを聞いてみたところ、江戸時代の五代将軍徳川綱吉の時代に読書好きの姫様がいて、その姫様が亡くなった際に莫大な蔵書を寺に寄贈して蔵にしまい、蔵の傍らに姫の墓を建てたのだという。そしてその蔵に寄贈された本は姫の遺言に従い人々に貸し出すようになったのだが、姫の墓に耳を当てると本を読む声が聞こえたとか、借りた本を返す時は新たに1冊寄贈するルールになっていてそのルールを破ると祟ったとか、色んな噂が残っているのだとのこと。その姫の法名が「玉心院」と言ったのだそうで、その姫は「書籍姫」とも呼ばれるようになり、その寺ではそうした「書籍姫」の伝説が言い伝えられてきたのだというのです。蓮の心当たりとはこれのことでした。

この寺は確かに実在しており本も貸し出されていたようであり、本を寄贈した姫も確かに存在している。ただ細部は曖昧なところもあり、墓から声が聞こえるとか祟ったとかいうのは真偽不明な話であり、要するにこれは江戸時代における一種の都市伝説なのです。だから史実の姫とは関係なく、そうした都市伝説自体が実体化して現代にも何処かで存在し続けており、「玉心堂書店」という名前で今でもどこかで出現して、そこでは「書籍姫」である玉心院が本を読んだり、訪れた人に本を貸してあげたりしているのでしょう。そして、おそらく書籍姫は董子の子供の頃の姿を見て、自分と同じように読書好きになりそうな才能を持っているのに気付いて招き入れて、ちょっと導いてあげたのだろうというのが蓮の解釈でした。

だが董子はもしあの玉心堂の書店員がその書籍姫だというのならちょっと話が合わないと言う。何故なら書籍姫の本の貸し出しの場合は返却に際して1冊本を寄贈しなければいけないはず。しかし自分はあの書店員にそんなことは言われておらず、本の返却時に別の本を寄贈などしていない。だから変だと言った董子でしたが、そういえばあの書店員との最後の会話の時に「いずれ君が小説を書いたら私にも読ませてほしい」と言っていたのを思い出して、なるほどそういうことかと納得した。つまり、小説家になるように導いてやったのだから、自分の小説を寄贈しなさいと言っているのだと理解した董子は、今回ああやって自分を再びあの場所に導いたのは、そろそろ新作小説を書いて寄贈するようにという催促だったのだなと思った。おそらく蓮と乙に出会ってから急激に自分の創作意欲が高まっていることに書籍姫が反応したのだろうと董子は思った。そして、その期待に応えるためにも頑張ろうと思うのでした。

その後は後半パートですが、ここは次回に続く話なので今回は断片的な伏線だけとなっていて、あまり深入りしても仕方ないので適当に流します。まず「人魚姫のVtuber」を名乗る「姫魚よるむん」というバーチャルキャラが暗い部屋の中にあるPCのディスプレイに突然現れます。ただ、誰もPCを操作していないのに勝手に画面がついてよるむんが現れたように見えてちょっと不気味です。この姫魚よるむんというキャラは確か以前に乙の級友の高天原のどかが学校のベンチに座ってタブレットで見ていたこともあり、確かに実際に活動しているVtuberのバーチャルキャラではあるみたいですね。

その後、場面は夜の街で一緒にビールを飲む董子と蓮の場面となり、董子がきさらぎ駅で切符と交換する呪物は見つかったのかと質問すると、蓮はなかなか見つからないと答えます。どうやらきさらぎ駅で切符と交換できるのは「呪物」だけであり「怪異」は対象外みたいです。確かに前回も「呪物」であるハサミは切符に交換出来ましたけど、「怪異」である紅衣小女孩は切符に交換せず、電車に乗る側の立場でしたね。そして「怪異」が出現したからといって「呪物」がいつもセットになっているわけではないとのこと。蓮の目当ては「怪異」ではなくて、あの董子の事件の時の呪書みたいな「呪物」の方なんですね。真奈美の事件の時も呪物である「牛玉」が目当てだったのです。結局ダメになってしまいましたけど。

それでオカルト知識のある董子がそれならいっそ最初から物理的な怪異ならばいいんじゃないかと言って「付喪神」なんか良いのではないかと提案する。だが蓮は付喪神は難しいのだと言う。「付喪神」というのは長い年月を経た道具などに霊が憑りついたものだと言われており、道具型の怪異のようなものです。それならば呪物のようなものだろうと董子は言うのですが、蓮はそもそも付喪神というのは他人の私物なので見つけにくいのだと言う。それに現代は大量生産品の使い捨ての時代ですから、1つの道具を長く使い続けるケース自体が少なくて、道具が付喪神化する機会自体が減っている。だから付喪神を見つけるのは容易ではないのだと蓮は言います。ただ、ここで蓮は「今はデジタルデータの方が大事にされる時代だからな」と言っており、これは伏線なのでしょう。つまりデジタルデータであるVtuberのバーチャルキャラの方が付喪神化する可能性もあるということなのでしょう。ただ、そうはいってもちょっとその経緯が想像がつかない気もします。

その後、場面は変わって、乙とのどかが一緒に下校していて、のどかが可愛い下着を集めているとか、若作り先輩の本名は団地妻先輩だとか、今度のどかの家で一緒に勉強しようとかいう話をして別れて、乙はシズクの店に行ってメイドのコスプレをしてメイド喫茶の手伝いをします。まだメイドのコスプレをやってたんですね。しかし、ここでちょっと気になるのが乙がメイド喫茶で「乙姫」と名乗っていることです。単なる源氏名なのかもしれませんが、設定も「ある小国からこの国に迷い込んでしまい、いつか帰れると信じている」と実際の乙の境遇をそのまま言っており、それならば「乙姫」も本名なのかもしれない。そもそも「乙」は何故か「おつ」ではなく「おと」と読むんですが、それは「乙姫」が本名だからなのではないだろうか。「乙姫」といえば、あの竜宮城の乙姫ということになるのだが、考えすぎでしょうか。

一方、のどかの方は自宅で家庭教師が帰った後、親や学校にSNSの使用を制限されて不満げにしていたが、タブレットで姫魚よるむんの配信を見て楽しそうにする。乙の方はメイドのバイトが終わった後、シズクにお礼だと言われて紙に包まれた何かを渡され、家に帰ったら開けるようにと言われる。今回はそこまでであり次回に続きます。