2026年冬アニメのうち、3月17日深夜に録画して3月18日に視聴した作品は以下の2タイトルでした。
真夜中ハートチューン
第11話を観ました。
今回を含めて残り2話となりました。今回は六花の路上ライブの話でしたが、まずはその前に六花がオリジナル曲を作れるようになり、またオリジナル曲を一般生徒の前でも唄えるようになるお話が描かれます。この話の前の六花回である第7話は「オリジナル曲を唄えるようになる話」でしたが、あれは放送部の仲間の前で唄えるようになっただけであり、まだ完全に唄えるようになったわけではない。六花の当面の目標は「路上ライブでCDを50枚売る」ということであり、路上ライブではオリジナル曲を唄うことが大前提です。だから7話では六花はオリジナル曲を作ろうとしていたが、曲は作れず、そもそもオリジナル曲を唄うことも出来ないことが判明し、そこで山吹が手伝って、ようやく放送部の仲間の前でだけ昔作ったオリジナル曲を唄えるようになっただけでした。そういう状態で今回のお話は始まりました。
まずは夏が近づく中、寧々が放送室に観葉植物を置きたいというので皆で買いに行き、そこで六花が興味を持った植物は「パキラ」という名の植物でした。山吹の説明によると「5枚で1組の葉が特徴で、成長がかなり早い」「特に春から夏は少し目を離すとすぐに成長する」とのこと。結局このパキラを買うことになりましたが、「5枚で1組の葉」が放送部の5人を象徴しているから選んだのだと、しのぶは言います。しのぶが言っていますけど、最終的には皆で合意して選んだのでしょうから、みんな同じ想いなのだろうと思われる。みんな、特に4人の女子たちは山吹と出会った春から今の夏を直前に控えた時期にかけて自分なりに夢に向かって成長したと思っており、同時にこの夏はもっと早く成長したいと思っている。そういう想いがこのパキラを選んだという行為には込められていると言っていいでしょう。
その中でも六花は「路上ライブをやる」という形で自分の成長を示したいと思っている。屋上でやっている仲間内のライブはオリジナル曲を楽しんで唄えている。路上ライブでもあんなふうに唄えればいいのだが、学校の一般生徒の前でもまだオリジナル曲を唄えないのに、見知らぬ人たちを前にして楽しんで唄えるとは思えない。またオリジナル曲も結局まだ全然作れていない。こんな調子では路上ライブはまだ無理だ。夏休みも直前だというのにこれじゃ全然ダメだ。パキラみたいに「春から夏にかけて少し目を離すと成長していた」なんてわけには上手くいかなそうだと六花は思った。
六花が「人前でオリジナル曲を唄えない理由」については7話で六花自身が説明した。中学時代は六花はオリジナル曲を作って唄っていたのだが、何者かにそれを否定されたらしい。六花の回想を見た感じでは音楽プロダクションか何かのプロデューサー風の男であったが「評価されたりガッカリされたりする目を向けられるのが怖くなった」と言っているところを見ると、そのプロデューサー1人の意見で否定されたのではなく、多くの人たちによって六花のオリジナル曲は否定されたようです。
それで六花は「人前でオリジナル曲を唄うのが無理になった」のだという。一方で六花は「他人の曲は自分を隠せるから気が楽」という理由でカバーソングを唄うようになった。そういうことから考えると、六花が「否定された」と感じたのは「オリジナル曲」そのものではなく、「オリジナル曲を通して表現した自分そのもの」を否定されたように感じたのでしょう。そのように自分自身を否定されたように思えて、オリジナル曲を通して自分を表現することが出来なくなったのだと思われる。ただ、更にもう一歩踏み込んで考察するならば、六花が「否定された」と感じたことは「オリジナル曲を通して自己を表現する行為そのもの」だったのではないかと思う。そんな考えを抱く人間は非常に多いと思う。何故なら、そのような「表現」に対して否定的感情を持つ人の心情には私もかなり共感はできるからです。
音楽に限らず、たとえばアニメなんかでも「クリエイターの独りよがりな表現」という代物に対して不快感を抱くことは私も多い。なんか変なこだわりのある事をやってるのを見ると「もっと普通にやれよ」「王道でいいんだよ」「売れ筋のものを作ってれば無難なのに」とか言いたくなる。「自分の世界」を見知らぬ他人から押し付けられて、それをすんなり受け入れられる確率はどうしても低くなる。しかし「オリジナル」の表現というのはそういうものなのです。仕方ないのです。そうやってボロクソ言われながらでもクリエイターが自己表現を押し通していかなければ、世の中の創作物はみんな「王道」という名の画一的なものになってしまう。私は個人的にはそうしたクリエイターの「表現」については10個あれば9個は否定的意見を持ちますけど、それでもその9個の存在意義は否定しません。その9個の犠牲の上に上手くいった1個から新たな「王道」が生まれてきて創作の幅は広がっていくのです。
だから真のクリエイターというのは10回やれば9回は非難に晒されるものなのでしょう。いや100回やって99回は非難に晒されるものなのかもしれない。六花もそうした非難に晒されてしまい、それで心が折れて「自己を表現するのはいけないことだ」「自分には無理だ」と思ってしまったのでしょう。ただ実際は六花のやった自己表現は不正解だったわけではない。例えば私が「つまらん」と思ったクリエイターの独りよがりのクソアニメだって、他の人にとっては物凄く刺さって、そこから何か新しいアニメの可能性が広がっていくのかもしれない。逆に私が「これは10個のうち1つの大当たり」と思ったものが他の人から見れば「10個のうち9個のハズレの1つ」でしかないかもしれない。
まぁ簡単に言えばクリエイターの「自己表現」というのは決して万人ウケするものではないということ。100人のうち1人にしか理解されないようなものなのです。それが経験を重ねていくうちに「100人のうち2人」「100人のうち10人」「100人のうち50人」なんていうふうに理解者の数が増えていくのは、サクセスストーリーとしては美しいけど、クリエイターの成長物語として正解なのかというと、それは違うのだろうと思う。それは「創作物で商売をしている人間たち」にとって美しい物語であるに過ぎない。理解者の数が増えることでクリエイターの自己表現が正解に辿り着くわけではないし、そもそも「正解」なんて無い世界だといえます。ずっと「100人のうち1人にしか理解されない表現」を貫くのがクリエイターの在り方なのでしょう。
だから六花がオリジナル曲を否定されたのなんて、そんなのは当たり前の話なのです。オリジナル曲なんて「クリエイターの独りよがり」の塊みたいなものです。オリジナル曲を作るような子は自己表現がしたくて仕方がないような子達ですから、他人がやってるような一般ウケする王道なものはやりたくない。だからどうしても独りよがりで他人には理解されないようなものになる。六花は確かに声も良いし、唄も上手い。だが、それでもクセのあるオリジナル曲を聴いた時に人々の心中に湧き上がる否定的感情を覆すのは難しい。そうなると非難され、無視され、否定される。そんなのは当たり前なのです。それで六花が「否定された」と感じるのは仕方ない。ただ、だからといって、そんなのは当たり前のことなのだから怖がる必要など無いし、「オリジナル曲による自己表現行為そのものの否定」などと深刻に考える必要も無いのです。
そうしてパキラを買って帰ろうとした途中、路上ライブの演奏音を聴いて六花は1人でその場所に向かい、そこで友人のアイコが路上ライブをしているのを見つける。アイコは中学の時に六花と一緒に唄っていた仲間であり、その頃は六花はオリジナル曲を唄っていた。だが六花は挫折があってオリジナル曲を唄わなくなり、そんな六花をアイコは嫌うようになった。一方でアイコの方は今でも1人で路上ライブでオリジナル曲を唄っているみたいですが、立ち止まって聴いてくれる人はほとんどいない。
ここで客とアイコが口喧嘩をするのですが、客は「誰も聴いてないのにやる意味が無い」とケチをつけ、アイコは「私がやりたいからやってるだけ」と言い返す。客は「センス無いから止めろ」と言い、アイコは「センス無いのはお前だ」「私の曲をバカにする奴は許さん」と怒鳴り返す。すると客は「お前なんか売れねぇよ」と捨て台詞を残して去っていく。ここでのアイコはまさに「独りよがりなクリエイター」そのものだといえる。客は要するに「一般ウケしないことはダメだ」と言っているのであり、アイコは「誰にも理解されなくても自分は自分の表現を信じるだけ」という姿勢でぶつかっている。まぁ私もその場に居たらアイコに共感も賛同もしませんけど、でも「オリジナル曲の路上ライブってそういうもの」と思います。確かに曲は独りよがりだし、立ち止まって聴く人も少ない。でも、それでも意味はある。それにケチをつける客の方が野暮なだけです。
ただ六花はそうした「一般ウケしないことはダメだ」という野暮極まる言葉に屈してしまっている。そんな六花が物陰から見つめる中、遂に客がゼロになってしまったアイコはその路上ライブの最後の曲の紹介を始める。それはアイコが中学の時に友達と2人で作った曲なのだという。その友達とはもちろん六花のことなのだが、アイコは存在しない客に向かってその友達にまつわる話をする。
それによると、六花とアイコの作った曲を聴いたレコード会社のプロデューサーは六花だけをデビューさせることにしたそうです。理由は「声が良かったから」でした。つまり2人の作ったオリジナル曲が評価されたわけではなく、ただ六花の声が良かったので、自分たちの作った「一般ウケする曲」を六花に唄わせたいと思ったのです。つまり六花のオリジナル曲は否定されたのです。ただ、この時点で六花の心が折れたわけではないようです。アイコは「それでも私たちの音楽が評価されたことには違いない」と喜んだ。いや本心は悔しかったのかもしれないが「六花が売れればオリジナル曲をやるチャンスが巡ってくる」「そうなれば六花が自分たちの音楽を人々に届けてくれる」と一種のリベンジを誓い合い六花をレコード会社に送り出した。その後、六花は何かをしようとしたのでしょう。おそらく「オリジナル曲を試させてほしい」とでも言ったのかと思われるが、そこで大きな挫折を味わい、そこで六花は心に大きな傷を負い、オリジナル曲を唄えなくなったようです。
だが、そんな1回の失敗で心が折れてレコード会社を辞めてしまい、学校で生徒たち相手にアイドルのカバーソングばかり唄うようになった六花に対してアイコは腹が立ったようで、それで絶交状態にあるわけですが、そんなアイコがそうした六花にまつわる過去の話をした後、今から唄う曲を「だからこの曲は私が唄い続けなければいけない」と言う。六花がオリジナル曲を唄わなくなった今、この曲を唄うのは一緒にこの曲を作ったアイコしかいない。だからアイコはこの曲がこの世界から無くならないように唄い続けなければいけない。それだけの価値がこの曲にはあるのだとアイコは信じている。その理由をアイコは「あいつの才能は本物だから」と言う。
レコード会社に否定されてしまった曲だけど、六花自身が見捨ててしまったような曲だけど、それでもアイコから見れば価値のある曲なのです。レコード会社は「売れる曲」じゃないとダメだと言う。それは確かに彼らも商売でやっているのだから、そう考えるのも無理はない。でも、それと曲の持つ価値はまた別の話です。六花の才能の持つ価値もまた別の話なのです。六花の才能はレコード会社に大金をもたらすようなものではないのかもしれない。でも刺さる人だっているはずなのです。「日本一になれなかったとしても、誰かの一番にはなれるアーティストだから」「だから分かる人だけ分かってればいいです」と言ってアイコは最後の曲を唄い始める。
六花は物陰でアイコの言葉を聞きながら、アイコが自分の才能を信じてくれているのを嬉しく思った。だが同時に自分自身が自分の才能をもう信じられなくなっているのだとも思った。レコード会社でのトラウマのせいで、どうしても「自分のオリジナル曲」が他人に求められているとは思えなくなってしまっているのだ。だが、アイコが唄い出した曲「夜凪」を聞いて六花の顔色が変わった。六花がアイコと一緒に作った曲は複数あったので、この「夜凪」だとは六花は予想していなかったみたいで、六花は驚いた。ただ六花の顔色が変わったのは驚きのせいではなく、この「夜凪」という曲を作った時の自分の心情を思い出したからだったのでした。
その次の校内ライブの時、六花は1曲目で「夜凪」を唄った。一般生徒の前でオリジナル曲を唄ったのは高校入学後初めてのことで、普段は六花のアイドルカバーソングを聞き慣れている生徒たちの多くは微妙な反応を示したが、一部の生徒は「こっちの方がいいかも」と、ちょっと刺さったみたいです。ただ全体的には、どちらかというと否定的反応だったように思えるが、六花は心が折れることはなかった。
それは六花が先日の路上ライブでアイコが「夜凪」を唄うのを聴きながら、自分が中学の時にある「大事な人」に届くようにという想いを込めて「夜凪」を作ったことを思い出したからだった。それによって六花は自分の原点を思い出せた。「自分はもともと万人に届く曲を唄おうとしていたのではない」「自分は大事な誰かに届ける曲を唄う歌手だったのだ」と気付いた六花は、生徒たちの否定的な反応に心が折れることはなくなっていた。そうして六花は生徒たちの前でオリジナル曲を唄えるようになり、オリジナル曲を作ることも出来るようになったのだった。
その校内ライブを見ていた山吹たちは六花がオリジナル曲を一般生徒の前で唄っているのを見て驚き、また山吹は「夜凪」を聴いたことがなかったので「六花が新たに作ったオリジナル曲」だと勘違いして、曲が終わった後「いつの間にオリ曲を作ってたんだ?」「凄く良かったぞ!お前を見くびっていたようだ」と褒め、「少し目を離した隙にここまで成長していたとは」と驚いてみせる。それを聞いて六花は自分もパキラぐらいは山吹に評価されたかもしれないと嬉しく思う。
その上で六花はお客の生徒たちに向かって「この曲は大衆ウケとか気にせず、大事な人に届くように書きました」と曲の紹介をする。そして、その「大事な人」について「私の親友」と言い、更に続けて「そして、オマケで」と言いつつ山吹の方を振り返って見つめる。これを聞いて山吹は「親友」というのはアイコのことだと理解する。そしてオリ曲作りを応援していた自分も「オマケ」として感謝されているのだろうと解釈した。
ただ、これはそもそも山吹が「この曲は今の六花が書いたもの」と誤認しているのでそういう解釈になっている。実際はこの「夜凪」は中学の時にアイコと一緒に作った曲であり、だから当時の六花がアイコのことも大事に思って、アイコに対する想いも届くようにと思って作った可能性は高いとは思うが、問題は山吹もその「大事な人」に入っていることです。何故ならこの「夜凪」を作った中学時代に六花は山吹とはまだ出会っていないはずだからです。但し、もし六花が「アポロ」であるのなら話は別です。もし六花が「アポロ」だったなら、中学時代に「アリス」である山吹の届けたい想いを込めてこの曲を作ったという話は十分に成り立つ。
とにかく、そうして六花がオリジナル曲を作れるようになり、人前でオリジナル曲を唄える目途もついたことで山吹は路上ライブへ向けて大きく動き出し、六花の路上ライブの日程は決定した。ただ六花は当日は寧々とイコとしのぶの3人は来ないでほしいと言う。これまで3人の前でリハビリ的に屋上で唄っていたので3人が居てくれると安心する。でもその安心に甘えていたら次の一歩を踏み出せないかもしれない。だから今回はあえて3人抜きでやりたいと言うのだ。それで3人も納得し、当日は六花と山吹の2人で会場に乗り込むことになった。
また六花は急にオリジナル曲を書けるようになった理由を問われて、今までの自分は「恥をかかないように」「多くの人に聴いてもらえるように」「ちゃんと売れるように」と思って作っていて上手くいかなかったのだが、「私が唄を届けたい人の顔を思い浮かべながら作ってみたら自然と歌詞とメロディーが思い浮かんだ」のだと言う。そして六花は「私はもともと世間に伝えたいことなんて無かった」「その人に聴かせたくて音楽を始めたんだって気付いた」とも言う。
これは「夜凪」を作っていた頃のことを言っているのでしょう。六花は特定の「大事な人」に音楽を聴かせたくて音楽を始めたのです。その人の顔を思い浮かべたら今の六花はオリジナル曲を作れるようになり、もともとその人に聴かせたくて音楽を始めたのだと「気付いた」のだという。「思い出した」ではなく「気付いた」ということから、その「大事な人」が今の六花の傍に居るようにも思えるが、そうではないとも言える。この「大事な人」は山吹のようにも思えるが、それはミスリードであって、他の誰かである可能性もある。
ただ、とにかく六花が「一般ウケを狙うのではなく特定の相手に向けた想いを唄う」という自分のスタイルを確立したことは良いことです。ただ六花は路上ライブで唄う最後の1曲だけは行き詰っているという。その理由は「本当に伝えたいことは音楽じゃなくて言葉で伝えた方がいいのかな」という迷いが生じてしまったからだそうだ。そこで山吹はプロデューサーとして何とか六花の迷いを解決して曲作りをサポートしたいと考え、何でも手伝うと言う。すると六花は山吹に夜の海辺で話し相手になってほしいと言う。いつもそうやって曲を考えているのだそうで、その手伝いということらしい。
こうして夜の海辺で2人で喋ることになったが、山吹は六花に「誰に向けて曲を作っているんだ?」と質問する。六花はずいぶん恥ずかしがって「ちょっと気まずくて一度距離をとってしまった、本音で話すには勇気が要る人」と答える。これを聞いて山吹はアイコのことを言っているのだと考えるが、もし六花が「アポロ」であるとするなら、これは山吹のことを指しているという解釈も出来る。六花の照れた様子を見ると、そう考える方が妥当にも見えるが、それはそう思わせるためのミスリードかもしれない。「ちょっと気まずくて距離をとる」とか「本音で話すには勇気が要る」なんて幾らでも他人で当てはまる人はいそうなので、これだけで「アポロに対する山吹」と特定する証拠にはならない。
更に山吹は「その相手にお前は歌を通じて何を伝えたいんだ?」と問いかけるが、それに対しても六花はずいぶん答えるのを躊躇するが、覚悟を決めたように山吹の方を向いて「あなたが好き」と言う。これは「六花がアポロである」という前提で考えるならば「山吹への愛の告白」ということになる。いや六花がアポロでなかったとしても、単に六花が大事に思っている相手が山吹であるということで、思い切って山吹に愛の告白をしたという解釈も成り立つ。ただ山吹は「六花がアイコに友達としての愛情を伝えたいということか」と受け取った。これも相手が誰であれ「山吹に向けて言ったのではなく、単に相手に伝えたい言葉を口にしただけ」という解釈は別に全然アリで、そんな見当違いということはない。ただ山吹がそうして考え込んでいるのを見て六花が何だか酷くガッカリした様子なので、やはり思い切って山吹に愛の告白をしたようにも見える。しかし、それもミスリードであり、単に六花がちょっと疲れただけなのかもしれない。
続いて山吹は途中まで出来ているという歌詞を見せてほしいと言い、六花はずいぶん照れて嫌がるが、見せてくれた。するとずいぶん抽象的な内容でどうも伝わりにくいと思った山吹は「具体的にどういうところが好きなんだ?」と質問する。六花はずいぶん照れて躊躇しますが、まぁこれはアポロとか山吹とか関係なく、普通に照れて当然のシチュエーションです。それでも六花は「夜遅くまで私の話を聞いてくれたり、私の夢を応援してくれるところ」「話してると楽しくて、救いになってくれた」「優しくて声も心地良い」などと「大事な人」についての情報を明かす。そして「1度逃げ出した私をずっと待っててくれた」とも言う。どうもこれはやはり「六花がアポロであり、山吹のことを言っている」と思えてくる。だが他の人間でも十分当てはまる内容なので、特定はできない。ミスリードの可能性も十分ある。
それで山吹は最も肝心の質問をする。それは「それだけ具体的に言葉が出てくるのに、なぜ歌詞で表現しない?」という問いかけであった。それに対して六花は「直接言いにくいことを歌にして伝えることって卑怯かもしれない」と言う。ちゃんと言葉で伝えずに歌で伝えたりしたら一種の「逃げ」のように感じて相手がガッカリするんじゃないかと六花は心配しているのだ。つまり歌詞が作れないわけではなく、歌詞で伝えたことによって相手に嫌われるんじゃないかと心配して、曲を作るのを躊躇しているのです。それだけ六花にとって大事な想いなのでしょう。
だが山吹は「表現に優劣は無い」「伝え方より、想いの強さで人の心は動くはずだ」と説教する。すると六花は「仮に山吹くんが唄で想いを伝えられたら嬉しい?」と尋ねてくる。それに対して山吹は「嬉しい」と答えます。ここで六花が「想いを伝えたい相手」は山吹であるというのは確定で良いと思います。もともとこれまでの劇中の描写で六花が山吹を好きなのは明白であるので、六花がここまで大事に想っている相手が山吹でないわけがない。ただ、だからといって六花がアポロだと確定するわけではない。六花の言う「大事な人=山吹」に関する情報がどれも抽象的なので、どうとでも解釈可能だからです。
ただ、こうして山吹が「唄で想いを伝える」ということを嬉しいと言った以上、これで六花の迷いは消えて、最後の曲も完成するのかと思いきや、意外なことに六花は「じゃあ、この曲はCDに入れるのやめる」と言い出す。つまり路上ライブでも唄わないというのだ。山吹は意外な展開に驚くが、六花は「この曲は本当に大事な想いが詰まった曲だから、私が自分をアーティストだと思えた時、表現者として音楽を使う資格があると思えた時に、初めてこの世に出す」と言う。それは具体的には「今回の路上ライブが成功してCD50枚を手売りで完売できた時」だという。その時に六花は「大切な人の前で唄う」と宣言する。
しかし、この六花の言葉は、まだ「路上ライブが成功する自信」も「自分が音楽の表現者になれる自信」も無いということを意味している。それで山吹は「やはり六花はまだ過去のトラウマを完全には乗り越えられていない」と確信した。それゆえ山吹は六花が放送部の他の3人に「路上ライブに来ないでほしい」と言った理由も嘘だと思った。六花は「3人に甘えたくないから」と言ったが、本当は「失敗して3人に失望されたくないから」なのだ。もちろん放送部の3人が路上ライブが失敗したからといって六花に失望なんてするわけがないのだが、六花は過去に失敗して周囲からガッカリした目を向けられたことがトラウマになっている。だからそんな心配をしてしまうのだと考えて、山吹はこっそり寧々とイコとしのぶの3人にも路上ライブ当日に会場に来て、遠くから見守ってやってほしいと頼んだ。
そうして路上ライブ当日、六花は見知らぬ人ばかりの中でトラウマが再発して緊張してしまい上手く唄うことが出来ず、ライブの出足は躓いてしまい、誰も立ち止まって聴いてくれなかった。だが寧々とイコとしのぶが失敗してしまった自分を見守ってくれている姿が見えて、六花は立ち直り「聴いてほしい人のためだけに唄おう」と気持ちを切り替え「ask for the moon」という曲を唄い出す。
この「ask for the moon」というオリジナル曲は六花が寧々とイコとしのぶのことを想って作った曲であった。「だから3人のためだけに唄えばいい」と割り切って集中することが出来て、六花は普段の調子を取り戻し、その曲の良さと声の良さに惹きつけられて歩いていた人々も立ち止まり始めてくれた。
なお「ask for the moon」という言葉は直訳すると「月を求める」だが、英語の慣用句で「不可能なことを求める」という意味で使われます。それぐらい「月」というのは古来から人々には「到達不可能な場所」と認識されていたということなのでしょう。この曲を「放送部の3人のことを想って作った」という六花の想いというのは「共に困難な夢に向かって進む仲間」として3人のことを大事に想っているということなのでしょう。ただ同時に「月を求める」という言葉からどうしても「アポロ計画」を連想してしまう。ここであえて「困難な夢に挑戦する仲間たちの唄」に「月を求める」という意味のタイトルをつけるところから、やはり六花が「アポロ」なのか、あるいは仲間の3人のうちの誰かが「アポロ」ということなのか、詳細は不明ですが、何か意味深な気はします。
そういうところで今回のお話は終わり、次回の最終話に続きますが、次回は路上ライブの続きが描かれるのか、それとも全く別の話になるのか、よく分からない。ただ路上ライブの成功を承けて、六花の宣言通りに山吹に向けて「最後の曲」を唄うという展開になるのかどうかも気になるところです。また原作漫画は現在も連載中であり、もちろん次回で物語が完結するわけではない。2期の告知があることを願いたいが、次回の最終話はおそらく原作単行本4巻までの内容であり、原作単行本は既刊12巻まで出ているので原作ストックは十分あるといえる。
ダーウィン事変
第11話を観ました。
今回を含めて残り3話となりました。今回はスタイン夫妻の葬儀の場面から始まります。地元警察が捕まえた犯人は近隣住民2人でしたが、彼らは放火は認めたがスタイン夫妻を殺してはいないと言う。実際、夫妻は火事の前に鋭利な刃物で首を切り裂かれて死んでおり、抵抗もするヒマも無かったようだ。戦闘のプロの仕業であり近隣住民とは別に犯人がいるのは明白だった。おそらくALAの犯行だが同時刻に山中でチャーリーと戦っていたALAメンバーにはアリバイがあり、ALAには別動隊が存在するということみたいです。
結局、ALAのメンバーはリップマン達は逮捕されたもののリヴェラは逃走し、またチャーリーも逃走したまま行方不明だった。そんな中、いつも2人で会っていた森の中の場所にチャーリーが姿を現わしてルーシーには無事を伝えるが、ルーシーはチャーリーの居場所は秘密にする。そんな中、ファウラー博士に呼び出されたルーシーは下院議員と面会するが、その話によると、もし公的機関がチャーリーを捕獲したらチャーリーは国か州の所有物となってしまうとのこと。そこで下院議員は公的機関よりも先にチャーリーを確保して所有権を主張し、新しい里親を探すと言い、既に候補者もリストアップしているとのこと。だが両親を亡くしたばかりのチャーリーへの心無い処置にルーシーは激怒して帰っていく。
そのままルーシーはチャーリーと会える森の中の場所に行くが、グラハム保安官補が尾行してきており、そこに現れたチャーリーに対してグラハムは「俺の家の里子になれ」と言う。そうすればこの町も出ていかなくて済む。チャーリーはストラルド研究所に行き、そこで自分の生物学上の父親であるグロスマン博士を探す手掛かりを掴もうと考えていたが、ひとまずグラハムの提案に乗ることにしてグラハムの家に行き、グラハムの妻のグレイスとも顔を合わし、とりあえず上手くやっていけそうです。そしてグラハムがチャーリーを家に保護していると発表したのでグラハムの家の前にはマスコミが詰めかけ、グラハムは保安官事務所で保安官やFBI捜査官に対して説明をするというところで今回のお話は終わり、次回に続きます。














