少し前に書いた事と同じ内容なのですが、少し調べてみたので改めて書き直してみたいと思います。

 

 

↑この書籍に書かれていた湾刀=日本刀誕生の説の内容から以下のように考察しました。

 

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↑この聖徳太子のような刀の佩き方は大陸風のものです。服装も含めて大陸のマネをしています。隋に5度も遣隋使を派遣して全ての制度を隋と同じようにしようとしました。

 

続く奈良時代~平安時代前期も同様に遣唐使を派遣して唐のマネをして制度を作りました。いわゆる律令制度。この律令の中の衣服令に朝廷で着用する衣服の規定があるため全てが大陸風になったわけです。この「衣服」には佩刀も含まれていた。

 

この聖徳太子の絵を見るとわかるように、大刀を腰の高さから2本の紐でつるしています。

 

・腰の高さよりもかなり低い位置につるす

・柄尻側の紐は短く、鞘尻側の紐は長い

・鞘尻が下がるように斜めに佩く

 

これが古墳時代末期~10世紀頃:平安時代前期の佩刀方法

 

 

 

↑12世紀以降の佩刀方法

 

・ほぼ腰の高さに佩く

・太刀は床面に対してほぼ水平に佩く

 

このような佩刀方法の変化は10~11世紀頃に生じたと推測されます。ちょうど湾刀(日本刀)の誕生時期に重なります。このような佩刀方法の変化は朝儀のスタイルが大陸風の立礼から、日本式の床面に座っての座礼に変わったからではないかという説を読みました。個人的にはこの説には説得力があるように思います。

 

そして湾刀への変化はこの太刀佩きの形で刀を抜きやすくするためであろう、、、という説です。

 

聖徳太子と同じ大陸風の佩刀方法であれば直刀でも抜きやすいので問題ないけれど、平安後期からの太刀履きのスタイルでは直刀は抜きにくい。これを解決するために極端な柄反りの太刀に変化させたのではないかというものです。

 

斬撃云々の事でいえば柄を反らせても意味がないし、かえって使い難そうです。実用面でいえば柄は刀身と逆方向に反らせる方が理にかなっています。外国の湾刀にはよく見られる形状です。

 

9世紀末に遣唐使が廃止されて以降、日本の文化は大陸風から平安王朝風(日本風)に変化します。

 

・朝議の形式を大陸風の立礼から床に着座しての座礼に変えた

・座礼の礼式に合わせて服装や佩刀方法を変えた

・佩刀方法の変化に合わせて刀の形状を変えた

 

こういう事だと考えます。

 

そもそも、なぜ朝儀の礼式を変えたのか?という政治的な理由は不明です。しかしこのように変化した事自体は間違いのない事実です。

 

書籍に書かれていたように湾刀への変化は単純に「太刀佩きでは直刀は抜きにくいから」というよりは、この時期=11世紀頃に起こった「大陸風→平安王朝風」への文化・制度の変遷の一環なのかなと思うのです。そこには「大陸風」を変えなければならない政治的な理由があったのかもしれません。いずれにせよ、蝦夷との戦闘を通じて実用面から現場に近いところで湾刀が生まれたのではなくて、朝廷内での政治的な理由から改めて新しい刀の様式が中央でデザインされて生まれたのではないかと考えます。そういう意味で、この説がとても興味深く思えるのです。

 

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そもそも聖徳太子のような刀の佩刀方法はどんな理由があってのものなのか?

 

こんなに低い位置に吊っては歩きにくいし走れません。

 

これは乗馬移動を前提にした佩刀方法なのだと思うのです。

 

隋・唐の支配層はモンゴル系遊牧民族の鮮卑であるという説があります。少し調べてみましたがかなり有力な説のようです。

 

それぞれの皇帝家、隋の煬氏も唐の李氏も元々は北周という鮮卑王朝の重臣の一族です。北周は同じく鮮卑系の魏(北魏)を簒奪した王朝で、元々は李氏も煬氏も北魏の重臣の一族だったようです。

 

 

 

 

北魏は五胡十六国時代を制して華北を統一した王朝で、律令制などその後にも続く多くの制度がこの王朝のもとで発展した。

 

Wikipediaにはこう書かれています↓

北魏の国家体制は、日本古代の朝廷の模範とされた。このため、北魏の年号・皇帝諡号・制度と日本の年号・皇帝諡号・制度には多く共通したものが見られる。平城京・聖武天皇・嵯峨天皇・天平・神亀など、枚挙に暇がない

 

飛鳥時代に蘇というチーズが伝来して日本でも貴人に食されたそうですが、こういうものも北方民族に由来するものに思えます。

 

 

 

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↑つまり、この大陸風の佩刀方法はモンゴル系騎馬民族(鮮卑)の風習の名残なのではないかと考えます。近代騎兵の佩刀スタイルにも似ているからです。

 

近代のフランス騎兵のイラストですが、このように2本の革紐で鞘を吊るします。柄側の紐が短く鞘尻側が長い。聖徳太子の佩刀方法と同様です。この佩刀方法は乗馬での移動・使用に適しているからなのでしょう。

 

 

フランス騎兵の鞘の紐は聖徳太子のものよりも長いです。このままでは歩けないので下馬時には鞘の柄側の佩環を腰のフックにひっかけます。ただ、昔のイラストを見る限りでは下馬時にもフックにひっかけない事が多かったようにも見えます。

 

 

 

 

ちなみにこれは日本軍の軍刀の吊り方と同じなのですが、軍刀を腰のフックにひっかけて歩いたり走ったりするとブラブラして股に挟まったりしてすごく走りにくいそうです。

 

 

 

 

モンゴル軍の佩刀方法

 

あまり良い資料をみつけられなかったのですが、佩刀の高さが腰よりもかなり低く、聖徳太子の吊り方と同じように見えます。

 

 

 

 

 

これらの絵はモンゴル帝国時代のモンゴル兵なので隋・唐時代よりも数百年後です。だから単純に比較できるものではないのですが、隋・唐期の大陸の佩刀方法=聖徳太子の佩刀方法と同じような高さに吊り下げています。

 


トルコの騎兵

聖徳太子の佩刀方法とほぼ同じ



このように、騎馬移動を日常的にする人達にとっては腰よりもかなり低く吊り下げて刀を佩く方が都合が良いようなのです。

 

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従来の「馬上使用のために湾刀化した」という説は現在の歴史学ではすでに否定的です。もう一歩進めて「騎馬民族の風習が日本から完全に消失して湾刀が生まれた」のではないかなと考えた次第です。従来の旧説とは完全に正反対の意味になります。

 

また、世界的に見ると時代が下ると歩兵・騎兵・砲兵・海兵等の兵科を問わず直刀や直剣が減少して湾刀が増加します。広く日本で使用された「打ち刀」も歩兵用の湾刀とも言えるでしょう。逆に近代以降に直刀タイプの騎兵刀を採用している国も珍しくない。

 

19世紀フランス海軍 カットラス↓

 

19世紀フランス軍 竜騎兵刀

 

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日本刀が誕生した理由や経緯など。結局のところ決定的な事はわかりようがありませんので今後も不明としか言いようがないと思います。ゆえに色々と考えられて面白いし、興味の尽きぬ所です。

 

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