「馬上での使用のために刀身に反りがついて日本刀となった」

 

歴史学者にはこの説が既に支持されていないという事を過去に何度か書いてきました↓

 

 

 

しかし「なぜ刀身に反りがついたのか」までを説明するものはありません。個人的には実用面からのものではなくて儀仗面からの理由だと思っています。

 

そんな私の考えによく似た専門家の著述をみつけたのでそれを紹介します。

 

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まず、本文を載せる前に内容の要約↓

 

 

↑平安時代の前期にはこの聖徳太子のように左腰のかなり低い位置に大刀を吊り下げて佩いていた。コジリを下げて斜めに佩く。

 

 

↑12世紀に書かれた絵では、このように太刀を腰の帯の位置に近い位置に佩いている。太刀は地面と水平に佩く。大きな柄反りがある太刀。

 

なぜこのような変化が生じたのか?

 

朝廷での執務環境が変化したからだという。

 

↑奈良時代から平安前半までは、こんな感じ。天皇は中央のイスに座り、臣下もイスに座るか立位。

 

↑平安時代半ばからはこんな感じで天皇も臣下も床に座る。写真は時代が違いすぎるのであくまでもイメージです。

 

 

朝廷での執務スタイルが大陸風から国風に変わり、それに合わせて服装も大陸風から国風(束帯)に変わった。

 

この床に直接座るスタイルだと大陸風・聖徳太子のように長く紐を垂らして低い位置に大刀を佩くと座礼の礼法とし所作の邪妨げになるという。だから儀仗刀の佩き方が変わったのではないか? それで現在の太刀履きのように佩く位置が高く・体と垂直(床面に水平)に佩くようになったのではないか?

 

聖徳太子の佩き方であれば反りのない長刀でも柄を上に持ち上げれば抜けるが、反りの無い長刀を現在の太刀履きで抜くのはかなり難しい。

 

それを解決するために儀仗刀が湾刀化したのではないか?・・・これが本書本記事の著者の説です。

 

↑太刀を水平に佩くようになったのは床座位時や、床への立ち座りの動作にも関係しているのだろうか。礼法的な意味で。

 

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この説が正しいのかどうかは不明ですが、興味深い説だと思います。別書には反りが生じた理由が「引き切る」のに良いからではないか?との説が書いてありましたが、それよりは説得力があるようにも思います。理由はともかく初期の太刀は儀仗面からのデザインなのではないか?というのは同感です。

 

衣服(制服)も政治も刀剣もすべてが大陸のマネをしていた平安時代初期。衣服も政治も刀剣も全てが同じ時期に変化していきます。10~12世紀に。日本刀が生まれた時代です。これは偶然ではないように思います。9世紀末に「もはや学ぶものなし」として遣唐使が廃止されています。

 

 

初期の日本刀には地域ごとの特徴のようなものがありません。どれもよく似ています。これも「朝廷で採用された形状だから」という方が説得力があります。実用面から改良された結果なのであればもっと地域制が出るものなのです。本書には大鎧もそれと同じであった事が書かれています。つまり大鎧にも地域制がない。これは武士の起こりが中央の軍事貴族だったからだと著者は述べています。だから鎧も刀も中央でデザインされたものに全国一律に置き換わった。地域ごとの特徴もなく前時代のものとも併用されていない。

 

かつては「武士の起源は開拓農民が武装化したもの」との説も有力だったと思うのですが、これも現在ではあまり支持されていないのだと思います。

 

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春日大社学芸員の荒井清志氏の論説


 

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大陸風だとこんな低い位置に刀を佩く理由なのですが、乗馬時にコジリが馬の腹に当らないようにするためでしょうか。サーベル用の刀帯に似ています。

 

隋も唐も皇帝家は鮮卑というモンゴル系騎馬民族ですから。

 

 

ちなみに、この絵の時期のフランス軍の騎兵刀には反りがない。この佩用方法であれば反りのない長刀でも抜くのに支障がないのでしょう。

 

 

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後日追記

 

 

 

 

 

 

 

 

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