先日書いたブログに頂いたコメントに対して、以下のようにコメントを返しました↓
 
「さすがに私も隕鉄刀に強度や実用性は求めません(笑) 」

 

こう返した瞬間、ふと思った事があります。

 

・・・・・

 

 

 

↑もろい現代刀問題

 

なぜ戦後数十年の間、美しくするためにガラスのように脆い現代刀が作られ続けたのか。

 

それは間違いなく注文主の希望に沿うためだったはずなのです。

 

皆が丈夫で斬れる刀を作ってくれと頼んでいれば、脆い現代刀なんて作られなかったはずです。

 

手間は変わらないどころか、変に焼き直ししたりしなくて良いぶんそちらの方が手間が少ないかもしれません。

 

繰り返しますが、ガラスのように脆いけど美術的な現代刀は注文主のニーズによって作られたものであるはずなのです。需要のないものは作られないからです。

 

そこで上記の

 

「「さすがに私も隕鉄刀に強度や実用性は求めません(笑) 」

 

なのですが、戦後に日本刀を注文打ちする人の気持ちはこれと同じだったのかもしれませんね。

 

「さすがに私も現代刀の注文打ちに実用性能なんて求めませんよ(笑) 日本刀は武器ではなくて美術品なので美しい刀を作ってくださいね」

 

こういう感覚だったのではないでしょうか。

 

時代の空気というものがあります。

 

武器とか軍隊とか、そういうものが汚いものであるように見られた時代がありました。

 

そういう時代のニーズに合わせて作られた刀が「もろい現代刀」であるように思われてなりません。

 

私の肌感覚でいうと2000年前後くらいから時代の空気が変わり始めた気がするのですが、刀剣業界はバブル期の刀剣ブームの時の主要客層であった団塊世代、つまり現在の70代の人達の価値観から抜けられなかったのではないでしょうか。

 

価値観の違う年齢層が中古で現代刀を買ってみたら、脆くてすぐに刃が欠ける。

 

「現代刀はもろいからダメだ」

 

こういう話なのではないでしょうか。

 
現代刀といっても、もちろんそれらは全て戦後刀です。
 
戦前に作られた本鍛錬の軍刀刀身は脆さとは無縁です。
 
ただし刃は冴えず肌目は詰んで変化に乏しく面白みのないものが多いでしょう。
 
靖国たたらと日刀保たたらはさほど大きな違いはないと思われますので、材料の問題ではありません。
 
ただ、美術性だけを極限まで追求して作られたのが戦後美術刀剣で、実用性だけを極限まで追求して作られたのが本鍛錬の軍刀刀身なのでしょう。どちらも時代のニーズに合わせて、注文主の依頼によって作られた刀です。
 
注文主のニーズであれば仕方のない事なのですが、せめて刀剣コンクールに強度試験があればと思われてなりません。一定の基準に満たないものは失格になれば良いのに。