どうも、木全です。
しかし、とんでもないニュースが入ってきたもんだ。
この時代に暗殺だとか、敵対するものを根絶やしにするとか。
時代錯誤も甚だしい。
しかし、そういう国があるのも事実だ。
そういう国を必要とする現実があることも否定できない。
難しいね。
我々では計り知れない世界の事情はおいといて。
哀しいね。
ここまで人を信じられないとは。
すべてを疑心暗鬼に、猜疑心の塊になって向き合わなければならない。
あまりにもかわいそうだ。
信じるということを、人はいつどこで学ぶんだろう。
もちろん、学校の授業では教えてくれない。
その答えはやっぱり、生まれ育つ環境のなかにあるんだろう。
家族や周囲の背中をみて育つなかで、愛ややさしさ、温もりや信頼、
人との関わり方、マナーやルールといった大切なことを学び取っていく。
その機会を損失した場合、いったいどこで感じ取ればいいのか。
われわれ凡人なら、友達がいたりするだろう。
なんらかのサークルだったり、趣味のあう仲間だったり。
そこでカバーされることも大きい。
しかし、彼には心を許せる友達も、本気で向き合ってくれる友人も
いなかったんだろう。
まわりは大人ばかり。
それも権力という未知なるもの、自分ではどうにもならないものに取り巻かれ、
彼自身おぼれそうになりながら、必死でたどり着こうとしているんじゃないのかな。
人は平等なんかじゃない。
生まれ落ちたその時に、すでになんらかの違いはある。
それを普通の人なら努力で乗り越え、変えていくことができる。
しかし、どう努力しても、どうにもできない人たちがいる。
それが宿命というものであれば、あまりにも重すぎる。
だけど、「信じる人がいない」と嘆くことは間違いだ。
自分から信じる勇気をもたなきゃ、誰もキミに手を差し伸べてはくれない。
信じてほしいなら、信じることだ。
実はそれがとても難しいのだけれどね。
それでも、信じなければはじまらない。
信じてくれなきゃ、助けたくても助けられないんだよ。
ひとりでも心許せる人がいたら、
少しでも心安らぐ場所があるのなら、
その人はしあわせだ。
そんな場所を探しつつ、
みずから誰かのそんな場所となれるよう、
生きていくことも大切なんじゃないかな。
だれだって、ひとりでは生きていけない。
誰かの手を必要としている。
差し伸べられた手を握り返せなくても、
指先のぬくもりだけでも伝えられる、
そんな人でありたいと思う。