鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』十二、河津討たれし事(二) | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

河津討たれし事(二)

 父祐親の言葉を聞いた祐泰は囁くように、「工藤一郎こそ、遺恨ある者です。それに、ただ今大見と八幡を見て怪しく思いました。したがって祐経が在京して朝廷の御意が盛んであります。そうすれば、父上の御行方はいかがと、あの世へ行く妨げとなるでしょう。面々頼み申す。幼い者までも」と言い終わらないまま、おく野の露と消えていった。いたましい有様は、申す言葉もなく、伊東はあまりの悲しさに、しばしは膝から祐泰の頭を下ろさずに顔に顔をさしあてて、訴える姿は哀れであった。

「おい、祐泰、聞け、河津。頼りにする者がいなくなった祐親を捨てて、何処へ行くのだ。祐親をも連れて行け。母や子供を誰に預けて行くのだ。情けなき有様だ」。と嘆く中、土肥次郎実平も河津の手を取り、

「実平も、子としては遠平ばかりだ。御身を持ってこそ、月日のように頼もしかったのに、この様になってしまっては」と、泣き悲しむこと限りなかった。

 国々の人々も、同じく一所に集まって、お互いに涙で袖を濡らした。そのままにしておくわけにもいかず、空しい形となった遺体を舁(か)かせて、家に帰ると、女房を始めとして身分の低い男女に至るまで、嘆きの声が、どうしようもなく発せられた。

 

 ところで、この河津三郎祐泰には、男子が二人おり、兄は一万(後の十郎祐成)五歳であった。弟の筥王(後の五郎時致)は三歳になっていた。母は、思いの余りに、二人の子供を左右の膝に据え置き、髪を搔き撫でて申すには、

「胎の内の子供にも、母の言うことを聞き知る。まして汝らは、五つや三つになります。十五、十三ならば、親の仇を討ち私に見せよ」と嘆いたが、弟の筥王は聞き知らず、手遊びをして遊んでばかりしていた。兄の一万は、死んだ父の顔をじっと見守って、わっと泣きだすが、涙を抑えて、

「いつか大人になれば父の仇の首を切って、人々に見せて参りましょう」と言って泣けば、彼らを知るも知らぬ人も区別なく、袖を絞らぬ人はいなかった。 

 なおも名残惜しさが尽きることが無く、三日の間まで床に置かれた。黄泉幽冥(くはうせんゆうめい:冥土)の道はどの様な所で有れ、一度旅立てば二度と帰らぬ倣いなれば、力及ばず、泣く泣く送り出し、火葬して夕べの煙となった。

 

 女房は、一つの煙となる事に悲しんだが、父伊東二郎が申すには、

「愛する者との別れは、夫妻の嘆きで、いつかは歎きも劣る物ではないけれど、これも憂き世の(現世)の倣いである。力が及ぶ物ではない。親を残して夫妻が別れるたびに、命を失う物ならば、生老病死(しょうろうびょうし:人として避けることが出来ない四つの苦痛)があるのだ。別れは人事の倣いであるが、思いが過ぎれば、自ら忘れる事もあるだろう。辛い事につけても生きながらえて、天寿を全うして後世菩提(死後の成仏)を弔い給え」と、さまざまに言葉を尽くして慰めると女房は、

「まことに、理(ことわり)でございますが、さしあたる当面の間は悲しくございます」と言って、悶えながら非常に思い、恋しさを募らせた。夫との別れは、昔も今も同じであり、別れの涙は、袂に留まり、乾く間もない。分別の無い、幼い子供たちを抱え、体は身ごもって普通ではなかった。剃髪して尼になろうと思うが、尼になって直ぐに産所に行くのも見苦しい。また、川淵に身を沈めようと思っても、産婦の身での死は罪深いと聞き、とにかく女の身ほど辛く苦しい物は無いと訴え立てた。起きたり寝たりして、泣くより他は無かった。一日の間、耐え忍ぶ身となったが月日が経つうちに、五十七日の供養の日が訪れた。  

 

※『曽我物語』の主題である仇討は、この河津祐泰の死が、子息の一万、後の十郎祐成と弟の筥王、後の五郎時致による工藤祐経の仇討として描かれる。しかし、伊東祐親の因果応報と言うべきものであるが、当時の武士の理(ことわり)において、伊東祐親と工藤祐経の問題でありながら、祐親の子息・河津祐泰が討たれたことにより、その子息の一万と筥王へと仇討の連鎖が始まって行くのである。   ―続く―