鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』十一、河津討たれし事(一) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

河津討たれし事(一)

 八幡三郎と大見小藤太の二人は、

「それゆえ、この帰り道を狙ってみよう」、「当然だ」と言って、道を変えて先に足った。奥野の入り口、赤沢山の麓(ふもと)、八幡山の境にある難所を過ぎて、椎の木三本小楯(臨時に身を隠す仮の盾)に隠れて、最初の待ち伏せを近江の小藤太が備え、次の待ち伏せを八幡三郎が備えた。腕前が優れた者なれば、見苦しい者と思った。二人の待ち構える所に一番目に通るのは、波多野の右馬允(うまぜう:義常)、二番目に通るのは、大庭三郎景親、三番目に通るのは海老名源八季貞、四番目に通るのは土肥次郎実平、後陣の遥か後ろに流人兵衛佐殿(源頼朝)が通られていた。仇でない者を全てやり通して、この次に伊東祐親の嫡子の河津三郎祐泰がやって来た。

 

 風情のある出で立ちで、装束は、秋の野の気色を摺出し、その間に柿渋を引いた直垂に、大きな斑模様の鹿革の行縢(むかばき)で、裾をゆったりと履いていた。鶴の羽根の本白に矢を矧(は)いだ白ごしらえの鹿矢を入れる矢筥を肩越しに高く背負い、重藤の弓の本筈(もとはず)、未筈(裏はず)に斜め十字に籐をまいた弓を真ん中に持つ。萌黄色(もえぎいろ:黄と青の中間色)の竹笠を木枯らしに吹きそらせて、宿鴾毛(さびつきげ:褐色を帯びた月毛)で、背丈が四尺五寸余りの大きな馬に乗っている。尾髪はあくまで縮み、蒔絵に一種の梨子地(なしぢ)をまいて、銀で前後の輪を縁取った鞍に、連着鞦(れんちゃくしりがい)の山吹色を重ねかけ、銜轡(ふくみぐつわ)に紺の手綱を入れて乗っていた。馬も聞き及ぶ名馬で、祐泰も屈強な馬乗りであったので、伏木・悪書を嫌わず手を前に伸ばして馬の手綱を緩めて歩ませた。折しも乗換えの馬は用いず、最初の待ち伏せの前を通りすごした。次の待ち伏せの八幡三郎は、本来冷静な男であり、

「天の与えられた福は取らないと、返って咎を受ける」と言う古い言葉を思い出すが、声を発すれば仕損じるとおもい、待ち伏せの前を三段(約九メートル)ばかり、左手にやり過ごして、大きく尖った矢をつがい、力いっぱい引き、しばらく固めて、ひゆーと放った。思いもよらず通る河津が乗った鞍の後ろの山形を射削り、行縢の端辺りから前の太ももの方に射通された。河津もさすがに、弓を取り直し、矢を取ってつがい、馬の鼻を引き返して四方を見渡す。

「知者は惑わず、腎者は憂えず、勇者は恐れず」と申したが、ひどい重傷を負い、しかしながら心は猛く思えたが、正気をしだいに失くして馬より真っ逆さまに落ちた。後陣にいた父伊東祐親はこれを夢にも知らず下っていた。

 

 時期は神無月十日余りの事で、山巡りのむら時雨で、降ったり止んだりと定まりなく、立つより雲の絶え絶えに、濡れないように馬を速めて、手綱を操って来たところに、最初の待ち伏せの所で大見小藤太が待ち受けていた。伊東祐親を待ち受けて矢を射ったが当たらず。左の指二本がちぎれ、前の四緒手(しほで:鞍の前輪・後輪の左右につける紐)の根に射立てた。伊東は去る古兵(古強者)であり、敵に二の矢を射させまいと重傷を負った手に持ち直し、右手の鐙(あぶみ)におり下がり、馬を小楯として、

「山賊だ。先陣は返せ、後人は進め」と大声で叫ぶと、先陣・後陣は、我劣ることが無いと進むが、その場所が狭い悪所で、馬が通った後に地面にできる窪みをたどっていると、二人の敵は逃げ延びた。残らず探したが、その地に詳しい案内者が、思わぬ茂みの道を変え、大見庄に入っていった。危うい命であった。

 

 伊藤は、河津三郎がよこたわる所に立ち寄って、

「傷は大丈夫か」と問うが、祐泰は声も出なかった。矢を押し動かして激しく抜きとると、いよいよ正体を失った。河津三郎の頭を父祐親が膝にかけ乗せ、涙を抑えて申すには、

「これは何と成り行く事だ。同じ当たる矢ならば、何故祐親に当たらないのだ。齢(よわい)傾き、今日明日をも知らざる憂き身であるが、我が殿(嫡子)を持ってこそ、公私ともに心安く、後の世を賭けても頼もしく思っていたものを、あえなく先だつ事の悲しさよ。今より後は、誰を頼みとして生きるのか。汝を留め置き、祐親が先立つものならば、思い置く事も無い。老少不定(ろうしょうふじょう:人の寿命は分からず)の別れこそ悲しい」と言って河津の手を取り、懐に入れ口説く言葉は、

「いかに前世から定まった善悪の業報であっても、矢一つで物も言わずに死ぬ者もいる」と言い、押し動かせば、その時に祐泰が、苦しそうな声で、

「このように度々仰せられるのは、何方でございましょう」と言う。土肥次郎が、話しかけるには、

「貴殿が枕にしているのは、父伊東の膝よ。このように申されるのも伊東殿である。今またこのように申すのは土肥次郎実平である。敵を覚えておるか。」と問いかけると、少し経って目を開き、

「祐親を、見ようとすれども、今はそれもかなわず。誰もがおいでになりますか。御名残こそ惜しく思います」と言って、父祐親は手を握り締めた。伊東祐親は、涙を抑えて申すには、

「未練なり。汝、敵は覚えておらぬか」と叫んだ。   ―続く―

 

(ウィキペディア引用:静岡県伊東市大原物見公園伊東祐親像、鎌倉源氏山公園 源頼朝像)