鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』十、費長房(ひちょうぼう)が事 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 大見小藤太が申すには、「さても一郎殿(工藤祐継)の思いを受け、今や今やと待っていたが。むだに帰る事が口惜しい。いざ、思い切ってと事を成そうと思うが、どうにもならない」と言うと、八幡三郎が言うには、「しばらくの間は、努力を重ねて見よう。しかしながらいかにも空しい。昔も努力して望みを叶えた事があるといわれる。

 

(鎌倉 建長寺三解脱門)

 大國の中国に費長房と言う者がおり、仙術を習い終えて、解らない事は無かったが、いまだに天に上がる術を習わずして、空しく凡夫(普通の人)の中にいた。ある時に商用の事があり、長安の市に出て商人を伴っていると、ある老人が腰に壺を着けてこの市に入られた。仙術を使う者同士には、仙術を成す者か見分ける事が出来た(『後漢書』方術列伝、『神仙伝』五より)。

この老人は、ただの人ではないと目を離さずに見ていると。道の傍らに行き、腰の壺を下ろして、その壺に入ってしまった。仙人こその仕業と思い、その人の行くところに従い、即座に仙人の家に行き、三年の間仕えた。ある時に老人が言うのは、『汝いかなる志があって、三年の間すべて私の言う事を違えずに私に仕えるのか』と。費長房はそれを聞き、

『私も占術を習いましたが、いまだに天に上がることを知らず、老人が壺に出入りされる術を教えていただきたい』と言った。老人は、

『簡単な事だ。私の袖に取り付け』と言う。

すなわち、取り付けば、二人ともこの壺の内へと飛び込める。この壺の中には、素晴らしい世界がある。

 

 月の光は空に輝き、四方は四季の色を現わし、百二十仗の宮殿楼閣がある。天には聖衆(仏達)が舞い遊び、鳬雁鴛鴦(こうがんえんおう:雁と鴛)の声は柔らかに聞こえた。池には生死の苦海を渡り、仏の涅槃の彼岸に至らせる菩薩の救いを弘誓(ぐぜい)と言う船で渡らせるように浮かんでいる。よくよく見て廻り、

『今は出でん』と言うと、老人は竹の杖を与えて、

『これを突き出でよ』と言う。すなわち突くと思えば、時の間に、「をしみつ(不詳)」と言う所に到着する。この杖を捨ててしまえば、すなわち龍となって天に上がることが出来る。費長房は、鶴に乗って天に上った。これも努力を積むことの由縁である。三年まででなくとも、待ってみよう」と申した。

 

※『曽我物語』による、神代から源家の成り立ちを語り、曽我兄弟の仇討となる諸因をこれまでに語られている。河津祐親と工藤祐継の異母兄弟からの所領争いから始まり、初因が河津祐親の所領押領である。祐親は、祐継の死に際で、祐継の子である金石(祐経)を後見して養育することを誓った。祐親は遺言を違えずに金石を十五歳で元服させ、楠美の工藤祐経と号させた。やがてその秋に娘の万号を嫁がせ、祐親が祐経を連れて上洛し、小松殿(平重盛)の見参に入れ、祐経を京都に留めおいて、祐親自身は国に帰る。祐親はその後伊東祐親を合祀、嫡子祐泰に河津を名乗らせた。そして二十五歳になった祐経は、伯父伊東祐親に父が残した所領が押し領されたことを知り、全てを失う事となった。ここに当時の武士と言う者の在り方と尊厳が、祐経の意思により、郎党らによる伊藤祐親の嫡子祐泰の殺害に至る。話の中に中国の『後漢書』、『史記』、『春秋』等の歴史書の儒教的な引用により、物語の構成の内容を肯定した内容に書き置いている。武士としての在り方を儒教的に語られた事から、江戸期において武士の教学としても、この話は伝えられ、また庶民においても多くの人々の喝采を得て、日本三大仇討として位置づけられた。

 

 また『曽我物語』は、流人としての源頼朝がここに登場し、『吾妻鏡』では、語られなかった、事項が多く記されている。頼朝は流人としながらも、結構束縛されずに、過ごしていた事が語られており、そして、ここで見られる他の登場人物が、後の鎌倉幕府設立に重要な役割を示す事になった。特に大庭景義と景親兄弟が、頼朝の挙兵において敵対し、頼朝挙兵時に弟の景親は頼朝の討伐を試みた。石橋山の合戦で頼朝が敗れ安房に逃れた後に、体勢を立て直し源氏従来の臣下を集い、鎌倉に拠点を置いた。その際には、兄の大庭景義が鶴岡八幡宮の創建等を担った事、また弟の景親和富士川合戦前に捕らえられ即座に斬首されている。この二人の立場の違いも当時の武士の在り方と尊厳が左右した。これらの話は、また後に語ることになる。   ―続く―