おく野のかり事、
さて両三国の人々は、各々奥野に分け入り、方々(ほうぼう)より勢子(狩りなどで獲物を追い込込む等、雑用をする者)を入れて野山を駆け回る事、七日の内に猪六百。鹿、千頭。熊三十七。ムササビ三百。その他雉・山鳥・猿・兎・むじな・狐・狸豺(さい:山犬)・狼の類に至るまで、以上その数は、二千七百余りを狩猟された。今はこれ以上野干(やかん)を滅ぼしても仕方なく、各々柏ヶ峠に登った。
(鎌倉 衣張山ハイキングコース)
さかもりの事
これほどの雑餉(ざっしょう:饗応のための飲食物)は伊東一人で準備したため、暇はなく、
「持ってきた酒を人々に見せなければ残念で甲斐がない。実際に山中に陣を構えて、佐殿(頼朝)に一献お勧めしよう」として、宗人(むねと)の人々五百余人を峠に降ろさせて、その用意をさせた。土肥の次郎が申すには、
「今日の御酒盛りは、かねて座敷の御定目とする。若い方々の秩序を乱さぬように」。それを聞いた大庭場の平太(大庭景義)が言うのには、「これは芝生の上に席を設けた座である。誰を上下と定めるか。年功者の盃は海老名殿(海老名源八季貞)より始められよ。若い侍たちは瀧口殿(山内瀧口太郎経俊)より始めよ。瀧口殿は何処におられるのか」と申すと、弟の山内三郎家俊がそれを聞き、「兄とその従者は、伊東から大見へ通じる道筋の峠、熊倉の北の脇に、鹿がいるのを見つけて深入りし、未だ参っていません」。土屋三郎が、
「三郎こそ瀧口殿である。兄弟の中に、分け隔てしなくともよかろう。その盃は、三郎殿より始めよ」というと、大庭がそれを聞き、
「瀧口殿は、年こそ若いけれども、立派な人である。もうすぐ来られるのであれば、少しの間、待とうではないか。みだりに肴に手をつけぬように」と言って、おく野の山口の方まで迎いをやり、瀧口殿が遅いと待っている所に、瀧口は、熊倉の北の脇を過ぎた時に囲った柵の外に大きな熊を見つけ、もとの山の茂みに入らないよう平野に追い下すところ、瀧口は、大きい倒木に馬が乗りかけ、真っ逆さまに走らせ転ばした。ころんだ馬を顧みず、弓のもとを起こし、左右の鐙を乗りかかり、草に隠れて、矢を射るには都合の良い距離となる。三人がかりで弦を張るほどの強い十三束(矢の長さで、一足は親指を除く四本の指の幅を言う)の大きな鏑矢をつがい、拳を上へ引きかけて矢を放ち、射る時の音を放った。遠鳴りして、熊の右肋骨を二つ三折り、滞る事なく打ち抜くと、鏑矢は割れてサッと散り、鏃(やじり)は岩に音を立て当たった。熊は手傷を負い瀧口に荒々しく襲い掛かった。勢子の者どもはこれを見て、四方に逃す。瀧口は、二の矢をつがい、弦を絞り帰して、熊の月の輪をはずすまいと胆嚢を狙い射る。熊は少しも動かず、矢二つにて仕留めた。その後に勢子の者どもを呼び寄せて熊を担ぎ運ばせて、人々の居る峠に場所に登り、急ぎ馬より降りて、
「獲物を探していましたとところ、深入りして、遅れ参りました。申し訳ござらん」と言って、笠をも脱がず、靫(うつぼ:矢を入れて背中に背負う道具)解かず、行縢(むかばき:狩りや騎馬の時に着用すし、腰から足を覆う毛皮)を履きながら、弓を杖の様に突いて立っていた。
(鎌倉 お猿畠の大切岸)
吉川三郎と俣野五郎景久がひざを突き合わせ座っていたところ、これを見て、
「瀧口殿は、聞いていた評判よりも実際はもっと優れた人である。立派な男である」と褒めると、座敷に居づらく思った。実に得意顔になり、何でもよいから力を示せることを行って、再び褒められようと思ったが、芝居の様な事であり、かなわないので、弟の瀧口三郎、船越十郎が居る間に、青みがかった高さ三尺(約一メートル)ばかりある石を寄せて持とうと思う。するすると歩いて行くのを見て、弟の家俊が立とうとして、膝を押さえて、はたと睨んだ。
「弓矢の座敷方去る(座敷かたさる:座敷の片側によせる)とは、我が家に居たる家を出て、他所に居渡り、その家に人を置く事こそ『座敷方去る』という。ここにある石が、二人の間にあり、塞がる様に邪魔である」と言って、右の手を差し伸べて、後ろざまへ押すと、大石が倒されて、谷へどっと落ちて行った。海老名源八がこれを見て、
「東国八カ国の中に、男子を持つ人は、瀧口殿の様に育てよ。器量と言い、弓矢取りは、漢の高祖の功臣である樊噌(はんくわい)・張良の様である。あっぱれな侍である」と褒められた。いよいよ得意気になり、年寄り側の末席に進み出て申すのには、
「ただ今の酒盃も、さる事にて思われますが、あまりにもはがゆく思います。大きな盃をもって、一つづつ御廻しては」と申せば、
「瀧口殿の仰る事こそ面白い」と言って、伊東の次郎貝という貝を取り出して、この貝は日本十二番の貝であって、院へ献上されますが、公家には貝を用いなされないので武家に下さる。太郎貝は秩父庄司に下さり、酒など注ぐ長子の堤子(ひさげ)が五つ入る。次郎貝は三郎に下さる。三浦義明の子、義澄が賜って、土肥次郎に取らす。昇殿を許された器物として、秘蔵して持っているのを、折節、河津三郎、土肥が婿になって来た時に、引出物とされた。内は自然のままで、外は金銀の粉を用いたで蒔絵で、磯のような模様を着けてあった。堤子が三つ入る。これを取り出し、滝口がもとより初めて、二度づつ廻した。五百余人の者が持ち入れた酒なれば、酒に不足はなかった。後には、乱舞して、踊り跳ねて遊んだ。
(鎌倉 まんだら堂やぐら郡)
海老名源八秀貞は、盃控えて申すには、
「これはめでたき世の中を、夢現(ゆめうつつ:夢と現実との区別がつかない状態)とも定めがたく、昔語りになることこそ悲しい。老少不定(らうせうふぢゃく:老人が早く死に、若者が長く生きるとは限らず人の命は定まっていない)と言いながら若きは頼みにある者を。若殿原のように、舞歌わんと思えども、膝が震え、声も出ず。劉原石(『博物誌』十、「劉玄石」:)は、千日の酒によって数年後の墓の中で醒め、塚より出でたと。また、妻に諫められてもなお酒に酔ったという、伯倫(『普書』劉怜伝の「白淋」)が茫然とするように酒をのめや、殿原。哀れ、若き時には、これくらいの盃は、二三十飲み干していた。座敷に伏すほどの事は無かったが、老いの果てであり、腰膝の立たない事が哀しい。ひとえに唐の詩人白居易(白楽天)が昔も、この様に老いた。今更思い出されて、哀れにこそ思う」。 ―続く―
(鎌倉 名越切通)