鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』六、杵臼(しょきう)・程嬰(ていゑい)が事 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 杵臼(しょきう)・程嬰(ていゑい)が事

大見・八幡が主君の為に身を捨て、心をつくして仕え、昔を思えば、大国である中国に孝明王と言う国王がいた(『史記』四十三による)。隣国の王と争い、戦を起こす事が度々であった。それにもかかわらず、孝明王が戦いに負けて自害に及ぼうとする時に、杵臼(しょうきゅう)・程嬰(ていえい)という二人の臣下がおり、彼らを近づけて話された。

「汝らは定めとして我と共に自害しようと思うだろう。これは本当にまっとうな考えである。一人の太子に屠岸賈(とがんか)と言う十一歳になる子を故郷に留置いている。我が自害の後には、雑兵の手にかかり命を落とす事は口惜しい事であるが、汝らはどうにかして逃れて、この子を大切に育て、敵(かたき)を滅ぼし、無念を晴らしてほしい」と言い放つと、二人の臣下は異議を申し立てず、城内から忍び出た。国王は安心して自害した。そうして二人の臣下は都に帰り、太子を連れ出して養い育てた。そうしたところ敵の大王がこの事を聞き、

「末の世には我が仇となる。この太子並びに二人の臣下どもの首を取って来た者には、勲功として所望によるべし」と、国々に宣旨を下された。

 

 この宣旨に従って、この人々に注意し、いかにもと怪しいと思う者をさがす。そうすれば一所に住むことは叶わず、ある日は遠い里から始まり、深き山に籠って身を隠すと言っても、隠れる所は無く、二人は話し合うが、如何し様かと嘆いた。程嬰が申すには、

「我等の君を養いて奉には、敵は強固のため、国中に隠れるのは難しい。されば我等の二人の内、一人が敵の王に出で仕えて。そうして、仕えれば心を許す事もあるだろう。我は、きくはくと言う十一になる子が一人いる。幸いにも若君と同年である。これを太子と称して二人の内の一人が山に籠って、一人は討手となって、主従二人を討ち、首を取り、敵の王に捧げれば、大変心を許されるだろう。その時、敵を容易に討ち取れるだろう」と言うと、杵臼が申すには、「命を長らえて、後に事をなすべき忍耐(こらえ)の性は非常に難しい。今、太子と同じく死ぬ事はた易い。そうすれば、杵臼は忍耐の性が少ない者なので、易きに付いて我がまず死ぬ。程嬰は敵方に出ることを急ぎ用意しろ」と申した。

 

 その後、程嬰は、我が子・きくはくに近づけて、

「どうか汝、しっかりと聞け。われらは主君の太子を隠している。すでに我々は汝らまでも敵にとらわれて犬死することは疑う余地もない。したがって、汝を太子と偽り首を取る。恨むことなく恩命に代わり、君の安全を計れ。親であってもそろって死ぬ事も無い。来世も生まれ変わって逢おうぞ」と申せば、杵臼は、聞き終わらない内に、涙を流してしばらく返事も出来なかった。父程嬰は、この様子を見て、

「未練なり、汝は十一歳である。弓箭の子は、胎(はら)の内から物の心を知っているものだ」と諫めた。きくはくは、この言葉に恥じて言うには、

「言葉こそ無慙(むざん)」です。辞退を申すのではありません。誠に我が命一つにて君と父との忠孝に捧げる事は、惜しい物とは思いません。嘆きの中の喜びです」と、言いながらも涙で咽(むせ)んだ。誠に我が子である。成人した後のことを思えば、惜しいと言う気持ちは余りあった。弱き心を示せば、未練と思って流れる涙を押し留め、

「弓箭の家に生まれて君のために命をおとす事は、汝一人にも限らない。最後に未練を抱けば、君の御ため、父が為、非常に見苦しいものである。一命を惜しむ物ではない」と言うと、きくはくは涙を抑えて、

「この様に深く決心したならば、どうして愚かでしょうか。しかしながら、さしあたって父母とのお別れは、どうしても惜しいからです。安心くださいませ。最後においては決心しております」と申すと、父程嬰も安心したと思われた。さてもまた二人が話し合い内談する様は、

「まず、君の御為に討たれるべき命は簡単で、残り留まって敵を討ち太子を世に立てることは、重大な事である。如何したら良かろう。命長らえて功をなす事が肝心である。我が先ず死のう」と言って、杵臼は十一歳のきくはくを連れて山に籠り、討手を待つ心中は無慙と言うに余りあった。その後、程嬰は敵の王の辺りに行き、「召し使えさせてください」と申す。敵の王はそれを聞き、この者、身を捨てて面目を失い、我に遣う臣下ではない、しかしながら世は変わり時が移ればそうであるかもしれないと思い、傍に置くこと許されたが、猶(なを)害心を恐れて許す心は無かった。

 

 程嬰が国王に約束した事は、

「我今、君王に仕えて裏切ろうとする心はございません、疑われる事は道理でありますが、生きる世の範囲を狭めて恥辱に変えて命を助けられました。猶、用いたて頂ければ主君であった太子、臣下の杵臼諸共に隠れ潜んでいるところを詳しく知っております。討手を賜り、向かい、彼らを討ち、首を取って見せましょう」と言う。その時、国王は和睦の心は無く、数千の兵を差し添えて、彼らが隠れる山へ押し寄せた。四方を囲み、鬨の声を挙げた。杵臼は予期していた事なので、静まりかえって音も出さず、程嬰が進み出て申した。

「ここに孝明王の太子屠岸賈がおいでにある。程嬰が討手に参った。雑兵の手にかかる前に急ぎ自害し給え、逃れようと思われるな」と申すと、杵臼が出て来て、

「我が君のおられる事は隠し申さず。しばらく待ちたまえ、御自害いいたす。さりながら、今日の大将軍の程嬰は昨日までは、まぎれもなく相伝の臣下であった。一時は敵を頼りにして過ごしても、終には天罰が下り、遠からずに、命失せるその最後を見たいものだ」と申した。程嬰がこれを聞き、

「時世に従う倣(なら)い、昔はそうであったかもしれないが、今また変わる折節である。さればこそ君も、御運尽き果て、命も短くなったのだ。いたずらごとに関わって命を失うよりも、甲を脱ぎ弓の弦をはずし、降参し給え。古(いにしえ)の情けを持って助けよう」と言った。十一歳のきくはくは、討手は父と知りながら、かねてから決めた事で、先祖から伝わる重代の剣を帯刀して、高い所に走り上がった。

 

 「いかに人々聴き給へ、孝明王の太子として臣下の手にかかるべき事にあらず、また臣下の心変わりも恨むべきにあらず、ただ前業(前世で行った善悪の業因)こそが起因する。しかしながら、その家久しき郎党である、程嬰、出給え。普段より親しかった縁で、今一度見参してやろう」と言う。程嬰は、我が子の振る舞いを見て安心したが、密かに涙が流れた。しかし、兵たちに怪しく見られることを思い、落ちる涙を押し止めて、

「人々よ、これを聞き給え。国王の太子とて、優に遣いたる言葉かな。このようにあらねばならない」と言うが、さすが恩愛の親子の別れ、隠しきれない涙を袖で拭う事がこらえきれず、他人に迄も哀れと思わせつつ、従う兵は、さしあたる道理なれば、共に感じないはずはなかった。その後、太子は声を張り上げて、

「我は、孝明王の太子、生年十一歳。父の所に向かい給う」と言い終わらない内に、剣を抜いて、自身に貫いて臥した。杵臼も同じく立ち寄り、

「健気にも御自害なされた。それがしも、やがて追いつき奉らん」と言って、腹を十文字にかき破り、太子の死骸に転びかかって臥した。この有様を見るに言葉も及ばず、無惨な先例となった。そうして二人の首を取って、国王に捧げると、国王が御覧になって喜びの気配を示された。今は疑い所なく、程嬰に心を許し、一の大臣に付かせた事は、国王の御運の極めと思えた。そうして程嬰は、機会を窺い、仇の国王を討って、速やかに主君の屠岸賈を世に立て、再び国王に就かせた。程嬰は、元のように左大臣に立てられたため、杵臼、きくはくの為に、追善供養を数知れず行った。

 

 三年の月日が経ち、ことごとく世の中は静まり、程嬰は、君に暇を乞い申した。

「我、杵臼に約束して、命を君に捧げる事、どちらが早いかを争い合いました。御位はこれまでに定まり、今は思い置くこと無くあの世にいる杵臼のことを思えば心も恥ずかしく、自害いたします」と申した。帝王は大いに嘆いて、これを許す事は無かったが、程嬰は、隙を計って秘密裏に杵臼の塚の前に行き、

「君の御位は思うままになった。本当に嬉しく思う。我はこのように思う。そして昔の約束は忘れていない」と言って、腹を描き切り亡くなった。哀れな事であった。このように、大見・八幡は主君工藤祐経の為に命をおろそかにして伊東を狙う志は、杵臼・程嬰の事と劣るとは思えない。    ―続く―