海老名源八秀貞は続けて、「昔のことを思うに、自身が若く盛りのある時には、鷹狩り、河狩りの帰りには、力技相撲をするのが実に面白かった。若き人々は、相撲を取りたまえ。見て楽しもう。相撲に勝る見物は有るまい」と言うと、伊豆国の住人、三島入道将監が、上半身を伸ばして相手に威圧姿を示して、「大きな石を転ばす瀧口殿と合沢(藍沢)弥五郎殿、出て来て相撲を取り給え。是こそ同じほどの力と聞く。そうであるならば、私が出て行事に立とう」と言う。瀧口太郎はそれを聞いて、「坂東八カ国に、強き者はいないのか。このような小男を相手にされるのは、馬の上へ徒歩で立っても、脇下に挟みこみ、少しも動ぜず」と言うと、弥五郎はその言葉を聞いて、「伊豆、駿河、武蔵、相模に、強き者はいないのか。瀧口の背の高さと力を羨むのは、身分の低い者の好む所である。器量により荷を持てと言うように、侍は背が低くとも、力が弱わくとも、冑一両肩に引っ掛け、弓押し張、矢かき負い、よき馬に打ち乗りって戦場に駆け出る。思う敵に組合えば、両馬の間に落ち重なり、気力のみが優れて、腰の刀を抜いて、下に伏しながら大の男を引きかける。鎧の胴の下に垂れる草摺(くさずり)りを畳み上げ、急所を暇なく刺して跳ね返す。押さえて首を取る時は、大の男も物ではない」とあざ笑いながら申した。
瀧口太郎は我慢が出来ない男で、「首を取るか、取られるかは、力意外にあるものか。老いの御肴に力比べの腕(力)相撲、一番取ろう」と言うままに座敷を立ち、直垂をぬいだ。そして、
「何ほどのことがあるか、相手のあばら骨を二三枚、掴み破って見せよう」と言い、さっと出た。弥五郎も、
「心得た、いかにもいかめしく、力拳の堪えぬほどに、命こそ限りよ」と言って座敷を立った。
一座の人々はこれを見て、危うく何事か起こる様に見えて、近くにいる合沢入道が申すに、
「あまりにも早計である瀧口殿。相撲は、まず子供や若者に取らせて、次第に上の者がとるようにするのが面白いのである。大人気ない、瀧口殿留まりたまえ」とその場に座らせた。駿河国の吉川はこれを見て、
「弥五郎殿もまずは抑えよ。合沢が弟の弥七郎が出でよ」と言う。少し辞退をほのめかしたが、船越が、引き立てて、手綱(ふんどし)を取り替えださせた。年においては十五歳であった。姿を物に例えば、まだ声若き鶯の、谷より出来たようである。
「だれか相手を指すように」と、座敷をきっと見渡すと、
「瀧口が弟の三郎、出でよ」と言い終えると、すぐに出て来た。年においては十八になっていた。いずれも相撲は上手で、両者が差し寄って、着物の両褄を手に取る様子は、春待ちかねて咲く梅が、雪を含めるような様相があった。
自分も相手も互いに力量は知らぬが、雲吹き立つ山風の、松と桜に音立てて、鳥も驚く梢かと、人々はその二人の体勢の姿が良く見えた。弥七は、力は劣るけれども、技は増しているように見える。三郎は力が勝るので、組もうとするが、近寄り組み合うとすり抜けて、投げれば駆けては回り、桃の節句の鶏会わせで羽根を一対にして勝負を争う取り合わせも、これには及ばないと見える。老若、座敷に堪えかね、「あっぱれ、憂き世の見るべきものと」と上下暫く声高に騒いで、東西さらに鎮まらず、しかしながら弥七は、地面の低い所へ押し駆けられ、勢い余って前にのめると、その首を突かれて、ついに弥七は負けてしまった。合沢弥六が、さっと前に出て瀧口三郎を強く蹴って、あっという間に打倒す。瀧口太郎は無念に思いつつ、弟の三郎が未だに起き上がる前に躍り出て、大力らなれば弥六は手にもたまらず敗けてしまった。兄の合沢弥五郎は弟二人が負けて、面白くなく、袴の腰の辺りで結ぶ紐を解かずに引きちぎり、手綱を二筋より合わせ、しっかりと強く体に巻き付けて、走り出してすぐに差し合った。力を引いて見れば、大人の男二人が踏み張って、少しも動かされず。弥五郎はきっと自分も負けてしまうだろう。本当に相撲は力に寄らず、技が勝れば際立って優れて相手を打ち負かす事を思い出す。合沢は右のこぶしを握り固め、瀧口の側頭部の横を切り失せよと打つと、瀧口が打たれて左右のこぶしを打ち返す。その後、負けず劣らず手を放ち、張り合った。今は、相撲は取らないで、ひとえにその場の口争いと見えた。互いにさえぎろうとするところに弥五郎はすぐに、さっと中に入り、瀧口の小股を担いで、気後れしないように押し据えた。勢い良く瀧口は、あえなく負けると暫く相撲は行われなかった。
合沢弥五郎は自信たっぷりに瀧口に勝って、百千番の負けがあっても、これに勝った事こそ嬉しい。何物なりとも思う所に、葛山(かつらやま:現静岡県据裾野市内)の又八が出て来たが、思うような相撲を取らせてもらえず敗けてしまった後、弥五郎は極めて優れた相撲を取り、五番まで勝つ。その有様は、勢い余ったように見えた。ここに相模の住人、柳下(現神奈川県小田原市鴨宮)の小六郎が出て、合沢弥五郎を始めとして、よき相撲六番とり、勝利した。駿河の国の住人、竹下孫八が出て、小六等を始めとして、良い相撲九番を打って続いて入ろうとするところに、大庭が舎弟、俣野五郎が出て来て、孫八を始めとして良い相撲十番勝ち続けると、出て来て相撲を取ろうと言う者がいなくなった。駿河国高橋忠六は、「取る者はいないか」と言うと、傍にいた海老名秀貞が「これこそ俣野五郎よ。勝つのも当然の道理だ」と言うと。景久がこれを聞いて、「相撲が終わってしまうではないか」と言うと、土屋平太がこれを聞き、「俣野も手一つ、我も手一つ。気後れして敗ける者か。俣野のような相撲取りには、十人がかりでも一掴みで負けると思い、着物を脱ぎ捨て、手網を着けて、まくれば、乗り越えて、移れば入れ替わり、相手に息をも継がせず、隙も現わさずに攻め立てた」。「この相撲面白い」と言って十人ばかりが並び見た。まくればさっと出て、体を移せば跳ね越えて攻めるが、屈強の上手な大力の相撲で、続けて二十一番勝ってしまった。
その時、土肥次郎実平が座敷を立ち、ヘリを紅色に染めて中央に日の丸を描いた扇を開き、俣野を暫く煽いで、「よき相撲であった。あっぱれである。実平の齢十が五も若ければ、出て行き相撲を取ったであろう」と言うと、俣野はそれを聞き、「何の問題があろうか、出て来られよ、一番取りましょう。相撲は齢ではござりません」と言うと、土肥は、いい加減な言葉をかけて、勢いに押されて言われると、取るより他はなかった。伊東は、三浦に親しく、河津は土肥の婿であった。土肥の今日の恥辱は、この一門によるものと思えば、伊東二郎祐親の嫡子、河津三郎祐重(祐泰)を、父伊東祐親より、河津祐泰を重んじており、ただひたすらに遊びであるが、出で立って相撲を取れという者もなかった。 ―続く―