こうして工藤祐経は、都で二十五歳まで給仕を怠りなく勤めた。ここに、思わずに、田舎の母が亡くなり、形見に父が預け置いた所領の譲り状を取り揃えて、祐経の元へ配下を上らせた。祐経これを開き見て、
「これはどうした事か、伊豆の伊東と言う所は、祖父入道寂心より父である伊東武者祐継まで三代承伝する所領を、どうして伯父の河津の次郎(祐親)が相続して、この八年の間、知行しているのであるか。私ならば、若い家来衆どもに季節に応じた衣を変えさせる暮らしをさせる事は出来たはずだ」。主君に国に戻るために暇を申し入れたれども、寵愛が盛んな時であったので、たやすくお暇をいただくことは出来なかった。しかしながら、この状況において代理人を伊豆に下らせ、領地の返還を催促した。伊東はこれを聞き、
「祐親より他に全く他の地頭(荘園を支配する者)はいない」と言って、若い家来衆達を勝手気ままに追放した。
京より下る代理人は田舎の仔細を知らないため、急ぎ京へ戻り一臈(郎:工藤祐経)にこれ等の事を訴える。
「その様な事ならば祐経は伊豆に下る」と言って出発しようとしたが、思慮深い者が、安全な方策を考えれば、人が間違いを犯すという事を聞きながら、自身もまた田舎に下って負けまいと劣らぬほどに相論し、乱暴を引き起こし、両者が領主から離れる身となる。その上、道理を持ちながら、伊藤祐親と争い、恨みをつのらせる事は無益である。祐経の方が道理にかなっているならば、訴訟において負ける事は無く、田舎より祐親を召し上させて、上位の人の裁決を仰ぐように思う。所領の相続についての道理を次々に差出して、院宣を下して頂くように小松殿(平重盛)の御状を添えて検非違使(警察及び裁判権を持つ)に、伊東を京都に召し上がらせ、真実の所領の知行者となることだ。田舎にて無理にも押し通し、打ち叩けるが、院宣を得て重ねて強く召したならば、一門がすぐに駆け付けて集まれば、策を用いる者・論述の上手い者が寄合って談合しても、道理は一つもない。
祐継が在命の時より憑かれた様に、どの様にしてでも伊東の所領を祐親が拝領しようと長年心にかけ続けて、その後十余年の知行をした所である。訴訟は自身にとって重大事で、金銀を用意して臣下を密かに奉行所へ出向かせた。そういえば確か、中国の六朝時代の『文選』の言葉に、「青蠅(せいよう:オオバエ)は水晶を穢さず、邪論百も、聖を惑わす」と申せども、奉行が心を引かれるのも道理である。漢書を見るに、「水いたって清ければそこに魚棲まず、人いたって賢なれば内に友なし」と記されている。それゆえ、奉行には賂(まいない、賄賂)を重くして、祐経の訴状が通らないのは無念である。「月は明らかならんとすれども浮雲これを覆い、水は澄まんとすれども泥沙(でいしゃ)これを穢す」。君主が賢なりと言うが、臣下これを穢す理(ことわり)によって、地券文書は箱の底に置かれ、朽ち果て、空しく年月を送る間、祐経は憤りを抱き、重ねて訴状を奉行所に捧げた。其の状には、「伊豆の国の住人伊東工藤一郎平祐経、重ねて言上、早く御裁許を被らんと欲する仔細の事。右の件の条、祖父楠美の入道寂心が他界の後、親父伊東武者祐継が、舎弟祐親と兄弟の仲が、不和であったため、対決度々及びましたが、祐継が当腹寵愛(現在の本妻から生まれた子)であるため、安堵の御下し文(領地保証をする公文書)を賜って、すでに数ヶ年を経ておりました。ここに、祐継が臨終の際に病の床に臨む時、河津の次郎祐親が、意趣を忘れてすぐに訪ねて来られた。その時、金石(祐経)は、生年九才でありました。伯父河津の次郎祐親に地券書を、母ともに預け置いて八ヶ年の春秋を送りました。親代わりとして頼る物ではなく、伺候(傍にいて仕える)の臣と申すべき。結局は、世の中の正しい筋道に任せ、伊東次郎に給わるべきか、又、祐経が給わるべきか、相伝の道理について憲法(法)の裁定を仰いで頂きたく。よって誠惶(せいこう)誠恐、(恐れ畏まり)言上如し件。仁安二年三月日 平祐経」と書いて捧げた。
公事所に此の条を開いて見て、当面間違いなく道理にかなうため、煩わしく思う人々が寄合って話し合った。実際に祐経の訴状は、一として道理や事実に合わない事は無い。これは裁許しなければ憲法(法)に背くことになる。また伊東は、賄賂を与えて万事を奉行に頼もうとした。しかしながら、祐経の訴状は間違いなく道理にかなっていると、奉行所の裁定として所領の安堵の状を二つ書いて、大宮(太皇太后藤原多子)の令旨を自身に下された。伊東は半分たりとも譲れぬ所、奉行の御恩と喜びで本国へと下った。(後漢書の)「書は言葉を尽くさず、言葉は心を尽くさず」と言われるが、祐経は言葉を失った。十五歳より本所に参り日朝暮給仕をし、今年八ヶ年か、九ヶ年かと思えるに、重ねて御恩こそ蒙ること無く、先祖の所領の半分を召される事は、何事であるか。源(みなもと)濁れる時は清からんを飲み、形(かたち)歪める時はかげ長閑(のどか)ならんを思うと、伽陀(仏教音楽の声明)に見えたり。
父祐継の世代には、所領をこの様に分けられなかった、今どうして私が半分の所領の主になるのだ、これは、ひとえに親方ながら伊東祐親が行った事である。我が身こそ京都に住むとも、前後は皆弓矢取りの遺恨である。この事を恨むべきであるとして、密かに都を出て駿河国の高橋と言う所に下り、吉川・船越・荻野・神原・入江の人々は外戚(外祖父母の地)で、親しい者が二百余人集まり、伊東祐親を討って両所を一人で治めるようにと思うようになった。この儀は神の御心さえどうかと思われる。例えば、さしあたる道理は明らかだと思われるが、昔の恩を忘れてすぐに悪行をたくらむ事、伊東が昔を思い、「天授が古も訪ねべきにや」(堤婆達多:釈迦の弟子となったが、後に背き、師を殺害しようとして失敗した)。第一に叔父なり、第二に養父なり、第三に舅なり、第四に烏帽子親なり、第五に一族の中の老者なり、いずれにしても愚かな事である。このように思い立つが恐ろしい。実に思慮あるべき者だろうか。その上、知行を奪う事は不可思議である。祐親はこれを返り聞きて、嫡子河津三郎祐泰、二男伊東九朗祐清、その他一門の老少を呼び集め、用心を厳しくしたので祐経は力及ばず。是は「富貴にして善をなしやすく、貧賤にして功をなし難し」と、今こそ思い知らされた。その後、伊藤の次郎祐親は、この事をありのまま京都へ訴え、「長く祐経を本所の伊東荘・安美荘へお遣わしになりませんように。年貢・雑役に着ては、芥子粒ほども残らず納めます」と言って両所を自分の物にしてしまった。祐経は、身の置き場をなくして、また京都に帰り、密かに住むこととなった。とにもかくにも祐経は伊藤に悩まされ、本意を失うのみならず、祐親は祐経の妻女を取り返して、相模国の住人土肥次郎実平の嫡子弥太郎遠平に嫁がせた。その様な伊藤祐親の所業に対し、異論を唱える者は本国にはいなかった。しかし、「巧者なき不義の富は、禍(わざわい)の媒(なかだち)」と『左伝』(史書『春秋』の代表的注釈書の一つ)に記されている。そうであるなら、行く末はどのようになるだろうと思えた。
工藤一郎祐経が中途半端な事を言い出して、伯父に仲を違われ、夫妻が分かれ、所帯はうばわれ、身を置きかねて、やきもきする間に給仕もおろそかになった。そうなれば主君のご機嫌も悪くなり、仲間との関係もよそよそしくなり、積もり積もった長年の悩みに焦がれて、再度密かに本国に下った。祐経の家来であった大見小藤太、八幡三郎を招き寄せて、泣く泣く囁いた。「各々(おのおの)、よく聞け・相伝の所領を横領されるのも恨むが、結局女房までもが取り返されて、土肥弥太郎に嫁がせた事は口惜しいこと余りある。今は命を捨てて、矢を一つ射おうと思う。人に知られては何もすることが出来ない。我又、良い機会をうかがえば、人に見破られて本意を遂げることが難しい。そう言って止めることではない。どうしたらよいだろうか、各々(おのおの)さりげなく、狩や漁の所にて良い機会を窺い、矢を射てくれないか。もし、かねてからの願いを遂げた時には、重恩をいつまでも報じてもあまりいる。どうであろう」と語った。二人の郎党は、「おっしゃるまでもございません。弓矢を取り、世を渡ると申せども、一生に一度の命を投げ出す時と承ります。それゆえ古き言葉にも、『破れやすき時は会い難くして、しかも失いやすし』。この仰せこそ、名誉の事であります。ぜひこの命においては、君に捧げ致します」と、各々座敷を立つと、頼もしく思えた。伊東祐親は、少しもこの事を知らずして悲劇が訪れることになる。 ―続く―