鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』三、伊東死去の事 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 伊東武者(伊藤祐継)は、これらを夢とも知らず、思いがけず奥野(伊豆半島東部の遠笠山周辺)で狩りをしようとして、射手を そろえて勢子(狩場で鳥獣を追い立てる人夫を雇い)と家来の若侍を供にして、伊豆の奥野に入った。季節も夏の末になり、峰に重なる木々の隙間より、村々がなびく様に見えた。祐継は思わぬ風邪に冒され、気分が悪くなって、目的の狩場を見ずに近くの野辺より帰られた。

 

 日数が経つにつれ、いよいよ病が重くなっていく。この時に九歳になる子の金石を呼んで、自ら手を取って言うには、

「いかにもお前は、十歳にもならないのを、見捨てて死ぬ事こそ悲しい。生死は限りあり、逃れる事は出来ない。汝を誰が憐れに思い、誰が愛しんで育てる者があろうか」と、しきりに涙を流した。金石は幼いので、ただ泣くより他は無かった。金石の母は、近く寄って涙を抑えて言うには、

「思い通りにならない現世であっても、せめて金石が十五歳になるまで待っていただきたく。それでも多くの子もおらず。また掛け替えのある子も身内にはおらずし。如何にすればよいのでしょうか」と嘆くのは当然の道理である。そこに、弟の河津次郎祐親が訪ねて来て、この有様を見て、兄の祐継に近寄り申した。

「今やこれまでとお見受けいたします。この世に深く思いを残す事は、お止めになり、一筋に来世の菩提を願われるのが良いでしょう。金石殿においては祐親がこのように後見し、決して疎略には扱いません。心安らかに思いなされ。それ故に『史記』の言葉にも「昆弟(こんてい:兄弟)の子は、猶(なお)し己が子の如し(兄弟の子は、相変わらず我が子と同じ)と言われる。どうして疎かに扱うはずがない。」と、祐継これを聞き、内に害心が有るのも知らず、大いに喜び、かき起こされ、人の肩にかかり、手を合わせて、祐親を拝み、しばらくして苦しそうな息をつき、

「何と、ただ今の仰せられた言葉こそ命のある間に嬉しく思います。最近は、何となく風説により親族関係も途絶え、心もとない事と思っていたところ、この様に仰せられたのが、重ねて本来の望むことでありました。それでは、金石をひとえに貴殿にお預けさせていただきたい。甥であるが実子の如く思い、娘多く持たれる中で、万却(まんこう)御前と婚姻させ、十五歳で元服させて、上洛させ、この楠美の荘の本領を小松殿(平重盛)に見参してお目に入れていただきたい。そして貴殿の娘と金石がこの所領を妨げられずに知行させていただくよう願ってください」と言って、伊東の地券文書(ちけんもんじょ:官符から下された土地所有の証とする文書)を取り出し、金石に見せた。

 

 「汝に直に取らすべきところだが、いまだ幼い。お互い親であるから疎かな事は無い。母に預けておく。十五歳になれば受け取れ。しっかりと見ておけ。今より後は、伯父である河津殿を、まことの親として頼れ、河津殿の心に背いたり、憎まれないようにするのだ。私も草葉の陰に立ち沿って見守る」と言って、文書を母に渡した。そして、今は心も休まり、床に伏した。そうして、日数も経って行くと、いよいよ祐継は弱り果てて、七月十三日の寅の刻(午前三時ごろ)に四十三歳で亡くなった。哀れな例えである。弟の河津次郎(祐親)は表面上では嘆き悲しむふりをして、内心では非常に喜び、箱根別当を拝んだ。凶暴な悪事で得た利益はあると言えども、一時的なもので、結局最後には、常には子孫に報を受けることになると思われる。やがて河津は我が家を出て、伊東の館に入れ替わり、密かに考えることがあったが、兄のため忠節を示して、祐継の後家にも子(金石)にも劣らず、ねんごろに供養した。七日七日の他、百ヵ日、一周忌、三回忌に至るまで、諸善の忠節を尽くす。人はこれを聞き、「神を奉る時は神がそこに「おられる」様に、死者に仕える時には死者が生きているように仕えよ」と、『論語』の言葉のように感じさせた事こそ愚かであった。さて金石には親しみやすい女房をつけて養う。祐親は遺言を違えずに金石を十五歳で元服させ、楠美の工藤祐経と号させた。やがてその秋に娘の万号に合わせ、祐親が祐経を連れて上洛し、小松殿の見参に入れ、祐経を京都に留めおいて、祐親自身は国に帰った。

 

(京都 法観寺の塔)

 その後、しっかりと役に立つような武士は一人もつけず、宿老になりうる者もいなかった。所領や財産においては、祐親一人が横領して、祐経には屋敷の一所も配分しなかった。中国の六朝時代の『文選』の言葉に、「徳を積み、努力を重ねる事、その善をなさざれども、時には用いる事あり、善を捨て、理に背くことは、その悪をなさざれども、時に滅ぶる事あり。身の危うきは勢いの過ぎるところなり、禍(わざわい)の積もるは、寵(ちょう:愛しみ)の盛んなるを超えてなり」。しかし、祐経は、誰が教えたのか、御所を離れず、奉行所において身を粉にして働き、裁定にも慣れてゆき、善悪を分別し是非・道理をわきまえて、諸事に気配りを行い手跡普通に優れ、和歌の道を心にかけ、優雅な宴席に参加して、その衆に連なると、工藤の風雅な男と称された、召された。十五歳より武者所に仕えて、礼儀正しく、男柄も尋常であり、田舎侍でもなく、奥ゆかしい者として、二十一歳で武者所の一臈(いちろう:筆頭)を務めて、工藤一臈(郎)と尊敬された。

―続く―。

 

(京都 六原 清水寺)