鎌倉散策 鎌倉歳時記『曽我物語』二、伊東を調伏する事 | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 ここに、伊豆の国の住人のである伊東二郎祐親の孫、曽我の十郎祐成(すけなり)、同五郎時致(ときむね)という者が居て、藤の巻狩りの将軍の陣内にも関わらず、親の仇を討ち取り、武芸を戦場に施し、名を後代に留めた。由来を正しく尋ねれば、則ち一家の輩は、工藤左衛門祐経が原因であった。例えれば、伊豆国の伊東・河津・宇佐美、この三ヵ所を総じて楠美庄と号し、この所有者は楠美の入道寂心であった。在俗の時は工藤大夫祐隆と言う。男子を多く持ったが、皆早世して遺跡は既に絶えようとしていた。その間、継娘(妻室の連れ子)の子を養子に取って、嫡男に立てて伊東を譲りると、武者所(むしゃどころ:院の御所を警護する武士の祗候する詰め所)に参らせて、工藤武者祐継と名乗らる。また死去した嫡子の子・嫡孫がおり、次男に立てて河津を譲り、河津の二郎祐親と名乗らせた。それなのに、寂心が死去した後、河津祐親が思うには、我こそが正統な嫡子であり、家督を譲られるべきであるが、全く血縁の無い継娘の子が、この家に入り、相続する事こそ、面白くないと思うようになっていた。これは真に神の御心に背き、子孫も絶えてしまう悪事である。たとえ他人であると言えども、親が養子として譲る上は、秩序を乱す事があってはならない。ましてこれは、寂心が、内々に継娘のもとに通って産ませた子であり、実際には伯父である。譲られた上に争うことは無益であり、よくよく申し合わされた。しかし祐親は止むことなく、訴訟を度々起こす。しかし、所領や財産などを記した譲り状を探す間、伊東の所領となり、河津は負けてしまった。その後、朝廷の身分の高き者には、親しみながら、内々面白くなく思い続けた。しかしながら自身の力が及ばず、年月を送る。

 

 ある時、祐親は箱根の別当を密かに呼んで、種々にもてなして酒宴が過ぎる頃に近くに寄り、畏(かしこ)まって言うには、

「かねてより知られているように、伊東は、嫡孫の祐親が相続すべきところを、思わず継娘の子が来て、父の墓所、先祖代々受け継がれた所領を横領された事は、余りに口惜しく、御心をもためらい申している。さらなる上は、伊藤武者が二つなき命をたちどころに失うように調伏して見せてください」と申したので、別当は聞き入れながら何事も言わず黙り込み、しばらくして、

 「この事、よくよく聞き給え。一腹一生(同じ父母から生まれた兄弟姉妹)にて勝る物は無いが、二人は兄弟であることは明らかな事。朝廷において訴訟が開かれ、既に判決をなされた上は、打ち解けられない恨みは、あるだろうが、直ぐに危害を加えようとする心を起こしては、親の遺言に背くことで、あってはならない。神明は正直な者に宿り給い、守っていただけ、定めて天の加護を有るのです。冥の照覧(せうらん:目に見えぬ神仏が御覧になっている事)も恐ろしい。その上、愚僧(私)は幼少より父母の塵欲(じんよく:色・声・香・味・触・法の六塵の貪欲)を離れ、師匠の閑室(人気のいない静かな部屋)に入り、諸説の教法を学び、圓頓止観(ゑんどんしくはん:天台宗の修行実践法の一つで、法華経にのっとった観法)の門を望み、一食ごとにに稼穡(かしょく:種まきと収穫)の艱難(かんなん:困難にあって苦しみ悩むこと))を思い、衣を着る時には糸を紡ぐの辛苦を偲ぶ。僧が着用する袈裟を墨に染て、頭を丸め、釈迦が説き遺した教えに任せ、五戒(不殺生戒・不偸盜戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒)を保ちしよりこのかた、物の命を殺す事は、仏は特に戒められた。それゆえに、一切の命ある物は三身仏性とて三体の仏がおられる。そうであるから人の命を奪う事は、三世(前世・現世・来世)の諸仏を失う事と同じである。どちらから考えても思い寄らざる事である」と言って、箱根に帰られた。 

 

 河津は言わなくてもよい事を申して、別当が承知する事はなかった。その後、手紙により重ね重ねて申したけれども、なお用は運ばず。どうしようかと思って、密かに箱根に登り、別当に見参して、近くに寄って囁いた。

「ものの数には入る身ではありませんが、昔より師檀の契約(しだんのけいやく:師僧と檀那の約束)は浅からず、頼み頼まれますように。祐親が身においては、一生の大事、子々孫々までもこの要であってはならず。再び申し入れたる条、まことに恐れ少なからずあるが、まわりまわって伊東の武者の耳に入ったならば、重ねて難しい状態になります。そうすれば一族の盛衰にかかわります」と、念を押して申しあげた。

 

 はじめは別当も大いに拒んだが、実際に檀那(施主)の情けも捨て難く、大方、承知されて、河津の里へと参られた。別当、心苦しい事ながら、旦那の「頼み」と申されるなら壇を立て荘厳(しょうごん:堂や仏像を綺麗に飾ること)して、伊東を調伏させられける事は空恐ろしい事であった。はじめ三日の本尊には、来迎の阿弥陀三尊(臨終の際に現れ、極楽浄土へ向かえる阿弥陀仏と観世音、勢至の二菩薩)、六道能化である天道・人間道・畜生道・餓鬼道・地獄道・修羅道の衆生を救済・強化する地蔵菩薩、旦那である河津次郎の所願成就のため伊東の武者の二つ無き命を取り、来世においては観音勢至蓮台に傾倒して極楽浄土の仏の住む清浄な地に導かれ給え。わずかの時でも地獄に落とされることの無いように、他に念なく祈られた。後の七日の本尊には、怨敵降伏のための修法の本尊とされる烏蒭沙摩(うすさま)明王、金剛童子、五大明王の利験殊勝を四方にかけて、紫の袈裟を着て種々に壇を飾り、誠意を尽くし汗もぬぐわず、顔も動かさず、一心不乱に祈られた。昔より今に至るまで、明王の、邪鬼を降伏させて仏法を守護する力、今に始まる事無く、七日間の期限を達する御前四時頃に、青壮年期になる伊東の武者の首を明王の剣の先で貫き、壇上に落ちるのを見て、祈禱の効験が現れたと、別当は壇を降りた。恐ろしい施行の事である。  ―続く―