一、神代のはじまりの事、
日本国は、これ国常立命(クニトコタチノミコト)より事起こり、泥土煮(ウチヂニ)・沙土煮(スヒジニ)・男神・女神が始めとして現われ、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)まで、以上天神七代を渡らせ給いた。また天照大神より彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ヒコ ナギサタケ ウカヤフキアハセズ ノ ミコト)まで、以上地神五代において多くの星霜(せいそう:幾一を経る、歳月)を送り給われた。しかるに神武天皇と申せ奉るは、葺不合命の御子にて、一天の主(君主)、百皇の初めとして、天下を治め給いしよりこのかた、国土を傾ける(不安定にする)ような、万民の怖れる謀(はかり事)は、文武二道をもって及ぶものはない。好文(学問や芸術を好む)の人を寵愛せずには、誰が万機の政(まつりごと)を助けられるか。また、勇敢(ようかん:勇猛で武勇に秀でた人)を抽賞(ちゅうしょう:功績のあった物を抜き出して賞する)せずには、いかに四海の乱れを鎮められるか。それ故に唐の太宗の文皇帝は、戦士の傷口を自ら吸いって(舐めてやり)賞し(元気を与え)、漢の高祖は三尺の剣を帯して諸侯を制し給ひき。そうしているうちに、本朝(本国)にも中頃から源平両氏を定め置かれてからこのかた、武略をふるって朝家を守護し、互いに名将の名を現わし、諸国の狼藉を鎮めて、既に四百余回の年月を送り終えた。これ清和(清和天皇)の後胤(こういん:子孫)で、また桓武(桓武天皇)の累代である。そうであるけれど、皇氏を出でて、人臣に連なり、鏃(やじり)を噛み、矛先を争う合戦の志は様々である。
惟喬・惟仁の位を争いの事
そもそも、源氏と申すのは、桓武天皇より四代目の皇子を田村帝(文徳天皇の異称)と申される。これに皇子が二人がおられた。第一に惟喬親王と申され、帝は事に愛おしみ深く、春宮(東宮)にも立て、御衣を譲ろうと思われていた。第二の御子は、惟人親王と申された。いまだ幼く、御母は染殿の后と申された。関白忠仁公(藤原義房)の御娘で、一門の公卿、卿相雲客たちは、もてなし愛したので、無視できなくお思いになられた。第一継承者の惟喬親王は、先祖の定めた法制の継承者であり、国を治める文の器量が有った。第二皇子の惟仁親王には、天下の政務を助ける大臣たちがおり、これに背いて天皇の位を授けるのも、判断は自身にあり、臣下が非難しないように譲位しなければならないと考えられた。当然そうすべき事、競馬や相撲の芸をもってその徳運を知り、よって御位を譲られようとして、天安二年三月二日に、二人の三子を引き連れて右近の馬場へ行幸(天皇が外出)された。月卿雲客(げつけいうんきゃく:公卿や殿上人など身分の高い人)、花やかな衣装を着て、立派な乗り物に乗られて右近の馬場への行列に加わられた。この事、世に希な出来事で、世の中で説明のつかない事と見た。御子たちも、東宮の浮沈は、これにあると見定めた。
そして様々に祈る者共があり、惟喬親王を守護する祈禱する僧としては、柿本紀僧正真済(きそうしょうじょうしんぜい)と言う東寺の長者で、弘法大師の弟子がおられた。惟仁親王を守護する祈禱する僧としては、我が山(比叡山延暦寺)の住侶の惠亮和尚(えりゃくわじょう)と言う慈覚大師の弟子にて、偉い上人が行われた。(比叡山の)西塔の平等坊にて大威徳明王を本尊として行う怨敵退散の真言密教の法を行われた。既に競馬は十番の際(きは)に定められ、惟喬親王は続けて四番勝たれ、惟仁親王へ心を寄せられる人々は、汗を握り、心を砕きて祈念された。惟仁の御方、右近の馬場より天台山平等坊の壇所(修法の道場)へ御使い馳せ重なる事、絶え間なく続いた。
「すでに御方こそ、四番続けて負けぬれば」と申しければ、恵亮、心憂く思われ、絵像の大威徳を逆様に向け、三尺の呪物として土製の牛を取って、北向きに立て、祈念が行うと、土牛踊って西向きになれば、南に取って押し向け、東向きになれば、西に押し直し、一心不乱に砕き揉まれたが、なおその場に居ながらにして、密教における修法の用具・独古杵(金剛杵)を自ら脳を突き砕き、脳を取り、芥子の種子に混ぜ、護摩を焚く炉壇に打ちくべて黒煙を立て、一揉み揉むと、その土牛が猛り声を上げ、絵像の大威徳は、利剣を捧げて振り降ろされた。所願成就したと、御心を述べた時に、「御方こそ六番続けて語れた」と、御使い走りつきければ喜悦の眉を開き、急ぎ壇を降りられた。ありがたき瑞相(吉兆)なり、惟仁親王、御位に定まり、春宮に立てられた。それなのに延暦寺の大衆の詮議にも、「惠亮脳(ゑりょうなづき)を砕きしば次弟(惟仁)位に付き、尊意利剣を振り給えば 菅丞(菅原道真の)霊を垂れ給ふ」と申した。これによって惟喬の護持僧の真済僧正は歎きの余りに亡くなられた。御子(惟喬親王)も都へ帰らず、比叡山の麓の小野と言う所に籠られた。季節はは神無月(旧暦の十月)の末ごろ、雪気色の空の嵐にさえ、時雨れる雲も絶え間なく、都に行きかう人も稀になった。言うに及ばず、小野に住まい、思いやられて哀れであった。
在五中将在原業平は、昔、君臣の契り深くした人であり、紛々たる雪を踏み分け、泣く泣く一宮の御跡を訪ね参られるほど心優しき人であった。猛冬移り来たりて(初冬になって)、紅葉嵐に絶え、りうゐんけんがとうしやくしやくたり(柳陰軒下九冬寂々たり?;冬の九十日間)。そうでなくても、「山里はいとど(いっそう)寂しくなりける人目も草も枯れぬと思えば」、の歌のように、皆白妙(みなしろたえ)の庭の面(おも:雪の降り積もった白い庭を)跡踏を見つける人もいない。一宮は、縁側の端近くに出で、南殿の御格子を三間ばかり上げて、四方の山を御覧じ廻らして、じつに春は青く、夏は繁り、秋は染、冬は落ちるという昭明太子(染武帝の子)の、思し召し連ね、「香爐峰の雪をば簾を掲げて見るらん」と口ずさみ見られた。中将もまたこの御有様を見られると、ただ夢の心地にされるが、このように参って昔今の事などを申しうけたまわるにつけても、御意の御袂(たもと)を絞りもあへさせ給わず。鳥飼の院(現大阪府摂津市にあった離宮)の御遊興、片野(大阪府枚方市にあった狩場)の雪の御鷹狩りまで思い出し、中将はこのように申された。「忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見んとは(これが現実であることを忘れて、夢ではないかと思う。雪を踏み分けて寂しく住まわれる宮を見るとは)」。御子も取りあえず、歌を帰された。「夢かとも何か思はん世の中をそむかざりけん事ぞくやしき(どうして夢などと思えようか、今にして私は、自分が世俗の事から逃れなかった事を後悔している)」。
貞観四年(862)に惟喬親王は御出家され、小野の宮と申された【寛平九年(897)二月二十日に小野郷大森の地で薨去。享年五十四歳であった。「君が代」は作者不明とされてきたが、木地氏の藤原朝臣石位左衛門が仕えていた惟喬親王に詠んだ歌と言う説がある】。そして、文徳天皇が御年三十にて御崩御され、第二皇子の惟仁親王が九歳で御位を譲られた。清和天皇である。後に丹波の国水の尾の里に閉じ籠られ、水尾の御門と申された。皇子は多くおられた。第一は陽成院、第二を貞固親王、第三を貞元親王。第四を貞保親王。この皇子は琵琶の名人であり、桂の親王と申され、心をかけし女は、月の光を待ちかねて蛍を袂につつみしも、この御子の御事であり、今の滋野氏の先祖である。第五は貞平親王、第六は貞純親王と申され、その御子経元は、六孫王と申されたのは、この人であった。その子に多田の新發智満仲、その嫡子が摂津守頼光、次男が大和守頼親、三男は多田の法眼として山法師にて、三塔第一の悪僧であった。四郎河内守頼信、その子伊予の入道頼義、その嫡子が八幡太郎義家、その嫡子が対馬守義親、次男に河内判官義忠、三男に式部大夫義國、四男に六条判官為義、その子左馬守義朝、その嫡子に鎌倉の悪玄太吉平、次男に中宮大夫進朝長、三男右兵衛佐頼朝に、上超す源氏はいなかった。
この六尊王、皇氏を出て、初めて源の姓を賜わり、皇族を去って人臣に連なった後、多田満仲より、下野守義朝に至るまで七代は諸国の竹府(国司任命の証として与えられた竹製の信符)に名をかけ、武芸を持って将軍の弓馬に施し、家にあらずして、四海を守り、白波を超えた。されば、各権を争う故に、互いに朝敵になり、源氏世を乱せば、平氏勅宣をもつて、これを征罰して朝恩に誇り、平相国が傾くならば、源氏詔命(しやめい)に任せて、これを罰して勲功を極めた。しかれば、近ごろ、平氏退散して、源氏自ら世に誇り、四海の波瀾を治め、一天の蜂起を鎮めしたこの時、緑林枝枯れて、吹く風穏やかなる。それにより、叡慮を背く賊徒は、色を雄剣の秋の霜(鋭利な剣)に冒され、朝廷の掟を乱す白波は、音を上弦の月(平和な治政を)に澄ます。これは、ひとえに羽林(源頼朝)の威風、前代にも超えて、運てうの故なり。しかるに、青侍(せいし身分の低い若侍)を秘めて、都以外での乱れを征し、私曲(行動に反した不正)の争いを止めてさせ。付き従う無い者はいなかった。
―続くー