鎌倉に居住してきて、この鎌倉散策鎌倉歳時記のブログ配信を始めた。当初鎌倉での居住の状態や風物詩、鎌倉中の神社仏閣を記し、中世の鎌倉期の歴史、そして鎌倉期に編纂・成立・著された古典等の解説等及び現代文訳を行ってきた。そろそろ何かまた新しい事を試みなければならないと思う。一度、事を始めると、半年がかり前後の課題となるため、思う事も多くある。 鎌倉期の中世の歴史愛好家としての私が一番好きな『平家物語』は、とても長文であり、また多くの現代訳文が存在している。二番目に好きなものと言うと『曽我物語』を思い浮かぶ。今年になりこのブログで記した、「鎌倉期に鎌倉をきした書物」で紹介し、また数年前に『曽我物語』の解説も記した。
『曽我物語』は、鎌倉幕府を創設した源頼朝が行った「富士の巻狩り」での曽我兄弟の仇討を主題に記したものである。そしてその『曽我物語』には、源頼朝が平治の乱で流刑されていた伊豆での当時の状況が記されている数少ない話が盛り込まれている。そして物語の内容は、仇討を基軸としながら、それらの秘話や、物語の側面に仏教思想が唱導的に語られた。『曽我物語』は、鎌倉中期から後期に物語の原初形態が成立したと考えられ、東国において『曽我物語』の「真名本」、漢文体で叙述された真名本『曽我物語』が成立したと考えられる。そして南北朝期から室町期に懸けて「仮名本」が成立したとされる。
『曽我物語』には、この時期に伊豆の伊東に所領を持つ同族で、異母兄弟の河津祐親と工藤祐継が、その所領争いを行っていた。祐親は祐継の死後に伊東荘を奪い取り、伊東祐親と名乗り、嫡子の祐泰が河津姓を名乗り河津祐泰と名乗る。工藤祐継の嫡子・工藤祐経は、朝廷などに訴訟を行うが、伊豆での権力を掌握した伯父である伊東祐継に握りつぶされていた。配流されていた源頼朝の饗宴が行われ、伊東祐親・祐泰が伊豆の山中に狩りに出た際に、祐泰は矢を射られ命を絶つ。この首謀者が、後に頼朝が重用した工藤祐継の子・祐経であった。河津祐泰には二人の子・兄の一萬五歳、弟の箱王三歳がおり、祐泰が無くなると、祖父の伊東祐親は嫁を小領主の貧しい曽我太郎祐信の下に嫁がせ、二人の子も引き取られた。父を殺害された祐泰の遺児である二人の兄弟、母はと共に、貧しい暮らしを負わされる。そして後に、兄の一萬は元服後に曽我十郎祐成(すけなり)と名乗り、弟の箱王は五郎時致(ときむね)を名乗った。
源頼朝は以仁王の令旨を受け挙兵し、平家を打倒して滅亡させた。この際に、伊東祐親が平家方に加担したため捕らえられ、頼朝の重臣・三浦義澄の舅であったために義澄の預かりとなっている。また源頼朝は、幕府設立後に、関東での武家政権を確立し、工藤祐経は、次第に頼朝の臣下として御家人を拝聴し、近臣として功績を挙げて行った。頼朝の妻・政子が懐妊したために助命歎願され、義澄預かりの祐親は赦免されるが、その直後に祐親はこれを潔とせず、「以前の行いを恥じる」と言い残し自害している。その後に頼朝は、奥州征伐を終え、元服した嫡子・頼家を連れ、大規模な富士野の巻狩りを行う。その中で河津祐泰の子である二人の兄弟による工藤祐経に対しての仇討が行われた。
物語には、仇討の成就と兄祐成の壮絶な討ち死が記され、捕縛された時宗は事の経緯を頼朝に直接尋問され、その真意と毅然とした態度に感銘を受けて赦免しようとするが、討たれた工藤祐経の子・犬房丸の涙を流した訴えにより、時致の身柄を引き渡され、梟首される。そしてその知らせを受けた曽我兄弟の兄祐成の妾であった大磯の遊女・虎御前が時成の母と養父の曽我祐信の地を訪ね、出家をして諸国巡礼と、巡礼により仇討で被害を受けた女性達とのめぐり逢を物語として唱導的に描かれた。この虎御前の「女語り」から遊行巫女・比丘尼(びくに:尼の格好をした私娼)・瞽女(ごぜ:女性盲人芸能者)により日本各地で広まったとされる。私自身は、この物語は最初の頼朝の配流時の内容、仇討の過程と壮絶な二人の死、そしてその後の虎御前の諸国巡礼が、仏教的説話的に語られるところに感銘を受けた。
近年、高名な先生方が現代訳文を記されるが、読んで見ると古典の文章一句がかなり抜け落ち、またかなりの文章が要約され、中国の史記等を用いた部分の割愛等が多く、物足りなく思う。そこで自身も勉強の過程として再度『曽我物語』を読んで、自分自身による現代文訳を記していきたいと思う所である。岩波文庫、穴山孝道校訂、王堂本『曽我物語』を使用し、現代訳を行う。また長文になるため、長い時間が必要とされるが、お付き合いいただき、共に学んでいければと思います。
―続く―