鎌倉散策鎌倉歳時記 三十五鎌倉時代を記する諸本 終章「古典」 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 古典を読むことにより、現在刊行される新書版の歴史解説書では得られない新鮮な自身の解釈が得られるだろう。また、作成された当時を窺いながら、その用いられる言葉の美しさも知ることが出来るだろう。古典での作品で、現代訳本・注釈・注訳本などがあるが、やはり注釈・注訳本で読むことをお進めする。異本などの資料を照合して、間違った語句などを訂正し、古書を校訂した校訂本と本文の語句や文書を取り上げてその意味を解説する注釈・注訳本などが、現在の漢字・平仮名活字で表記されて和漢混淆文で記されている。現代文訳であると翻訳者の感情や思想が入り、語意が簡略されたり、誤訳されたり、削除されたりしているため、注釈・注訳本をお勧めしたい。

 

 文法・古語の意味は必要だが、理解しやすい古典からとりつけば、次第に理解出来るようになるのが不思議な事だ。余談であるが、日本の古典は多くの場合は、男性執筆の場合に万葉仮名を用い和漢混淆文で記載されている。また女性執筆の場合平仮名の変形仮名を用いられている。草書風であるため読む事さえ難しい。しかし我が国は、島国であった事から言葉の意味(語意)は多少変化したものはあるが、語彙、文法は現代の文様とほとんど変わらない。このため学校教育により古文が科目とされ、勉強するのである。そして『平家物語』を読むことが出来るのである。また、今は次第に少なくなってきたが、私が幼少であった頃は時代劇も盛んで、その台詞の端々に古語が使われていた。「左様でござりまするか、実に哀れな事でござりまする」と言った事からも、古語の節回しなどが自然に身についた。今も千年前の作品である『源氏物語』は、女性ファンも多く、昨年の大河ドラマの『光る君』が放映され、作品を読む人も増えたという。私自身お勧めしたいのは、今回記述させていただいた「鎌倉時代を記する諸本」にあげた諸本である。特に八百年前につくられた『平家物語』をお勧めしたい。

 

 『平家物語』灌頂巻の「大原人」の一説を御紹介したい。壇の浦の戦いで敗れ、建礼門院は入水したが源氏に引き上げられた。京に戻り、出家して父清盛や安徳天皇の生母として滅び去った平家一門と安徳帝の菩提を弔うために、京の都から山奥の大原に入る様子を描いている。()部を注釈の部分で読み辛いかもしれないが、一度試みていただきたい。

「されども冷泉大納言隆房卿・七条修理大夫信孝卿の北の方(平清盛と二位時子の娘で建礼門院の同母妹)、しのびつつやうやうにとぶらひ(忍びつつようやく訪れて)申させ給いけり。『あの人々共の育みに手有るべしとこそ(あの人たち〔隆房・信隆のの北の方〕の世話になろうとは)、昔は思はざりしか』とて、女院御涙を流させ給へば、つきまゐらせたる女房たちも、みな袖をぞしぼられける。此の御すまいも都猶近くて、玉ぼこの(道の枕詞)道行き人の人目も多くて、露の御命(はかない命が絶えようとする、僅かな時間)、風を待ん(かぜをまたん:は松に置かれ九梅雨が風に吹かれて散る寸前の姿)程は、うき事聞かぬふかき山の奥(辛く悲しい事が耳に入らない山深い奥地)へも入りなばやとおぼしけれども、さるべきたよりもましまさず(願いを満たしてくれるような手掛かりもない)。ある女房の参って申けるは、『大原山(現京都市左京区)の奥、寂光院と申所こそ、閑にさぶらう』と申ければ、「山里は物さびしきことこそあるなれども、世のうきよりはすみよかんなるものを(騒がしい京の都より住みやすいかと)」とて、おぼしめしたたせ給いけり。御輿なんどは、隆房卿の北の方の御沙汰(お手配)ありけるとかや。

 

(京都 大原の里)

 文治元年長月(ながつき:九月下旬)の末に、彼(かの)寂光院へ入らせたまふ。道すがら四方(よも)の梢(こずえ)の色々なるを御覧じすぎさせたまふ程に、やまかげなればにや、日も既に暮れかかりぬ。野寺の鐘の入りあひの音すごく(夕暮れを告げる鐘の音がすごく寂しく聞こえる)、わくる(ふみあるく)草葉の露しげみ、いとど御袖ぬれまさり、嵐はげしく木の葉みだりがはし(乱散る)。空かき曇、いつしかうちしぐれてつつ(いつの間にか時雨がふってきて)、鹿の音かすかに音信(ずれ:鹿の鳴き声がかすかに聞こえ)て虫の恨みも絶え絶えなり(悲しみを訴えるような虫の鳴き声が絶え絶えに聞こえる)。とに角にとりあつめたる御心ぼそさ(何やかや、見るもの聞くものすべてが交りあってかもし出された心細さ)、たとへやるべき方もなし。浦づたひ島づたひせし(平家が都落ちして西国に落ちた)時も、さすがかくはなかりし物をと(そうはいっても、これほどではなかったのに)、おぼしめす。露結ぶ庭の萩原霜がかれて、籬(まがき:竹・柴で庵で作った垣)の菊のかれがれに、うつろふ色を御覧じても、御身のうえとやおぼしけん(草葉が色あせて行く様を、御自分の身の上さながらと思われたのであろう)。仏の御前に前らせ給いて、『天子聖霊成等正覚、頓生菩提(安徳天皇の御御魂も正しい悟りを開き給い、平家一門の亡魂も速やかに仏果を得ますように。正しく完全な悟りを成就いたします)』と、いのり申させ給ふにつけても、先帝の御面影ひしと御身にそいて(ぴったりと御身にまとわりついて)、いかならん世にか思し召し忘れさせ給ふべき。さて邪行員の傍らに、方丈なる御庵室を結んで、一間(ひとま)を御寝所にしつらひ、一間をば仏所に定め、昼夜、朝夕の御つとめ、長時不断(昼夜絶え間なく)の御念仏、おこたること無くて、月日を送らせ給ひけり。

 

(京都 大原の里 寂光院)

 かくて神無月(かみなづき:十月十五日)の五日の暮れがたに、庭に散りしく楢(なら)の葉を踏み鳴らして聞こえければ、女院、『世をいとふ(厭う:さける)所に、何者のとひくるやらん。あれ見よや。忍ぶべきものならば、急ぎしのばん(隠れなければならない人でしたら、急いで隠れましょう)』とて見せらるる(仰せられる)に、をしか(牡鹿)のとほるにてぞ有りける。女院、『いかに(ほんとう)』と御尋ねあれば、大納言佐殿、なみだをおさへて、

 岩根ふみ誰かはとはん楢の葉のそよぐは鹿の渡るなりけり(このような山の中の岩の根を踏んで誰かが訪ねてきましょうか、楢の葉がカサコソ音を立てるのは、鹿が通って行ったのです)

女院哀れにおぼしめし、窓の小障子に、この歌をあそばしとどめさせ給ひけり(御書留になったのです)。・・・」  

(京都 大原の里 寂光院)

 如何だったでしょうか。注釈文が添えられていると、文法が理解できなくともそれなりに読むことが出来、文章の意味も理解できたのでは。八百年前の文章を読むことが出来、意味を理解できるのは本当に驚きで、不思議な事である。これは西欧人にとっては驚愕することであり、英語においては、古代英語・中世英語・近世英語・現代英語と語意と文法が違い、専門家であっても四百年前のシェークスピアの作品を当時の言語では読むことや、理解することは難しいとされる。したがって一般の学生や人々は読むことも、理解することもできないという。シェークスピアの作品は現代英語でしか読まれていないのだ。またわが国の古典の文章は、特に音色とその意味合いが、多くの意味を含みながら季節に合わせた表現もある。本当に複雑であるが、その文章の美しさは、他の言語には無いと思われる。このような日本語をこれからも残し、当時に記された書物を読解することで、自分自身の解釈とした歴史観を持つことが出来るのは本当に面白い事である。  ―了ー

 

(京都 大原の里 寂光院)