鎌倉散策鎌倉歳時記 三十四鎌倉時代を記する諸本『北条九代記』(三) | 鎌倉歳時記

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定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『北条九代記』は、鎌倉武士の生きざまを通して、武士のあり方を論述した書でもあったと、増渕勝一氏訳『北条九代記』の前説に当たる「北条九代記とは」に記されている。一例を紹介させていただくと、巻九・三話に、「『忍』の一字は上世後代不易の行いたるべき事、貴賤能く守るべし。これ身を持つ大要なり」と説かれているのもその一例である。先述の「足(た)るを知る事」と言い、この「『忍』の一字」と言い、武士に要求されるのはまさに我慢であった。いわゆる「一所懸命」「御恩奉公」の世界であり。巻三・十四話に、関東武士の誉れと称された畠山重忠の乱にて重忠の切腹の話に、重忠が切腹を決意した時、部下の「百三十四人の輩、『同じく御供申して年来の御恩を報ずべし』とて、中々一人も「落つべし(逃げた)」と申すものがいなかったと記している。同九話には、各々が主君から一所の地を賜り、その領地とする御恩を頂いたので主君がいざと言う時には、その御恩として身を捨てて奉公するという言葉が「一所懸命」として今も残されている。武士は、「後日の恥を思ふ故に、生きて名を流さんより死して誉を残せや」という意識で戦った。私見であるが、拝領した領地(一所)を命を懸けて守り、その御恩に報いるため命を懸けて奉仕する。そして鎌倉期には家よりも名を恥じの対象とし、『北条九代記』著作された江戸期には家の恥として、これらが武士道の中に取り入れられたと考えられる。

 

 宝治合戦での三浦泰村縁者の筑後知定は、幕府方に就き、観賞に漏れて訴訟する話、足利尊氏が北条高時を裏切り後醍醐天皇に寝返った話などは、将来の身の振り方に一層有利になる方の陣営を選んだにすぎないとしている。これも鎌倉期から続いた武士の道理でもあり、江戸期において個よりも家の存続として当然の道理として捉えられた。そして、『北条九代記』の作者は、武力で政権を維持するには、反対勢力と謀反人の根絶を行わなければならず、源頼朝は異母弟の義経・範頼、伯父の行家・従兄弟の義仲及び子息の義高を追討・誅殺し、義経の妾・静御前が男子を産むと由比浜でその子を殺害した。また平家滅亡後に平維盛の子・六代を出家させ命を助けたが、後に関東に呼び、殺害しており、六代の墓所が逗子市にあるのはこれらによる。

 巻九・五話にて、「謀反人の類は枝を枯らし、根を断つべしと申すは、このことなるべし」という表現の引用を忘れてはいない。「無用の仁慈」は慎まなければならないのである。また逆臣に対して厳しいのも武士社会の掟の一つの現れで、巻一・十五話に、奥州征伐において、藤原泰衡を討った普代の郎党・河太四郎は頼朝から恩賞の代わりに、「主君を殺す八虐人」の見せしめとして首をはねた。また巻十二・十八話には、元弘の乱の鎌倉攻めで北条高時が東勝寺で自害後、長子・邦時の所在を教えた高時の重恩の侍であった五大院宗繁も、「源氏に忠あるに以て、重恩の主君を殺させること、貴賤上下悪」とし、新田義貞の追求に会って鎌倉を逃げ出し、ついに乞食になって餓死したとされる。このように武士は、「足(た)るを知る事」と言い、この「『忍』の一字」と言い、武士に要求されるのはまさに我慢である事。そして、謀反人において「無用の仁慈」は慎む。また謀反人においては誅罰を科すといった事などであった。『北条九代記』は、武士道の書でもあり、これらは近代に著作された新渡戸稲造の『武士道』にも継承されている。

 

 私見であるが、鎌倉期から受け継ぐ武士のあり方を武士諸法度と武士道という名のもとに継承されたのである。江戸初期の幕府が導いた儒教と朱子学が、さらに追い風となり、徳川光圀が『大日本史』の編纂を始め、四代将軍徳川家綱の代に『北条九代記』が刊行された。執筆資料として『吾妻鏡』『太平記』『保略間記』が主体を成しているが、その補足として『五代帝王物語』『関東評定衆伝』『増鏡』『承久記』等も用いられている。また先述した『神皇正統記』等の影響も多大に受けていると思う。『神皇正統記』の「後鳥羽上皇追討は、時節に至らず、天も許さぬ事であったことは疑いの無い事である。しかし、臣下が武力で君主を打つなどと言うことは極めて非道な事である。いつの日か皇室の威徳に従わなければならない時が来るだろう。まず、真の徳政を行い、朝廷の徳威を立て、幕府を倒すだけの道を作り出す事であり、その先のことは、それが実現できてからのことである。それと同時に、私の心を無くして、征討の軍を動かすのか、弓矢を収められるか、天の命にまかせ、人々の望むところ従われるべきであろう」と記載され、これも天命と徳政の必要性を説いている。

 『北条九代記』は、これだけの資料を用いながら鎌倉期の百五十余年の通史を雜史と扱うのは如何なるものかと考える。増渕勝一氏訳『北条九代記』の前説に当たる「北条九代記とは」に「内容的には多少の錯誤はあるにしても。この時代の世相・雰囲気及び武士階級のものの考え方などを極めて簡潔明瞭に伝えている。」と記されている

  

 「鎌倉時代を記する諸本」として近世までに書かれた書籍を自身なりに選定してきたが、まだまだ勉強不足で、他に多く取り上げられるべき書籍があるだろう。私自身が思うには、現在において歴史学だけではなく他の領域の多くの学者・先生たちが、新たな解説や諸説を展開されている中、実際にその解釈が正解であり、事実であるのかを評価するには自信が古典・原書を読まなければならない。原文は蔵書とする図書館においてコピーがデジタル化して入手できる。しかし、内閣文庫蔵の『源平闘掾録』は、変体漢文(日本語を漢文に倣って主に漢字だけで綴った文)にて記されているため一般人では全く読むことは出来ない。平安期から室町期に懸けて宣旨、勅書、日記、史書(吾妻鏡統)等で用いられた変体漢文での記述は、短文であれば理解できるが、長文ともなるとやはり難関である。また和漢文になると漢字の送り仮名等があるため多少理解しやすくなるが文法の理解が必要となる。また、平安後期に万葉平仮名を崩して生まれた平仮名による話文と、漢文の書き下しである漢文訓読体が合流して生まれ、漢字を含みながらも和文の持つ自在な表現力を持つ文章となった和漢混淆文は、『今昔物語』『徒然草』『方丈記』『平家物語』など挙げられるが、仮名交じり文になると、片仮名交じり文は、理解しやすいが、平仮名交じり文となると平仮名を崩した草書風になるため解読が非常に難しい。古語の内容と文法の理解が必要になってくる。しかし地震で八百年前の原文を読む事で、その時代時代の世情、季節の移り変わり、人々の思想・心理等が鮮明に浮かび上がる。そして、その時代の解釈が自身に表現されていく。現在刊行される新書版の歴史解説書では得られない新鮮な自身の解釈が得られるだろう。 ―続く―