『北条九代記』は、全十二巻の内、初巻から四巻までを頼朝による鎌倉幕府設立から頼家・実朝の源氏将軍三代の事績を記述し、五巻以降から北条氏による事績を記述している。特に巻七の幕府における執権体制の確立と安定に大きく寄与した北条泰時の功績が記された。巻十二においては、鎌倉幕府が滅亡に至る経過が記され、北条高時が第十四代執権となった経緯と、その愚昧さと後醍醐天皇の名君ぶりが対象的に記されている。
増渕勝一氏訳『北条九代記』の前説に当たる「北条九代記」を引用させていただくと、『北条九代記』の成立以前は、『増鏡』が鎌倉時代の通史を寿永三年(1184)七月に後鳥羽天皇が即位され、その後の鎌倉滅亡から後醍醐天皇の環京までを記している。室町期に成立した『増鏡』は、作者は不詳であるが、公卿の二条良基ともされ、公卿の社会を中心にとらえられた史観により、鎌倉幕府の実情についてはわずかの記載しか残していない。また鎌倉時代百五十余年の歴史の変遷の中で、どうして後醍醐天皇が新政に復帰できたのかという説明がなされておらず、後醍醐天皇が「世を乱り給はん」と決意し、幕府討幕の勅命を下されたところ、足利尊氏、新田義貞、楠木正成、赤松円心、名和長年らが応じた結果であるという表面的な現象化を捕らえているにすぎない。しかし、江戸初期に成立した『北条九代記』は、『増強』が説く極端に狭い宮廷社会の歴史も捕らえ、広範な武家社会の歴史を鎌倉幕府の消長に合わせて書きだす事に成功した。『北条九代記』はこれを源家・北条の発展と衰退の推移を辿ることによって、必然的に鎌倉幕府が滅びざるを得なかった過程とその実態を明らかに記している。
『北条九代記』の作者が重視したのは、儒教思想に基づく善政と仁政である。「序」に特に、上の者が「仁に復(かえ)りて徳を修め、義に本(元)づき慎み深く、礼を正しくして和を行な」えば、下の者はその恩恵を仰いで、太平の世が続き、門戸繁栄、安泰の佳運が訪れるであろうと。同じ事は巻十・十七話「貞時入道諸国行脚」の冒頭でも、「夫(それ)四海を鎮め、天下を治ることは、仁を本として義をすすめ、礼を専(もつ)はらにして徳を修め、威を逞しくして道を正しくす。その行ふ所には無欲をもって奢(しゃ)を慎んむ」と見え、こうすることにより万民はこれに靡(なび)き、上下相理融和すると説かれている。
仁義・礼徳・無欲への思考を例として三代執権北条泰時を挙げている。巻六・十二話、「廉直」。同十四話、「廉讓の道を行い、倹約をもって世を専稀ける」。巻七・十話「仁慈有道のほまれ世は高く、廉讓節義のおもいを内に貯へて、安国撫民の心ざしを昼夜明暮のつとめとし給わり」などと評されている。泰時は心が清く知欲がなく、人によく譲り、慈しみを施し、正道を行ったという事である。五代執権北条時頼には、巻八・十八話「国政を邪(よこし)まなく、人望まことにめでたく、内外につけて私なし」。巻九・三話『「仁を専(もつ)はらんとし、欲を治め給ふ」と評し、九代執権北条貞時も巻十一・五話で、「道を正しく、礼を専はらんとし、仁慈を以て恵みを施し、政理を行ふに私欲を省き給」うたと称えている。これに対し、二代将軍源頼家は巻二・七話、「慮(おもん)ばかりに拙くおはします故に、王国の器量は葉よりも薄く、政道の知恵ははかけ給ひ、只常々遊興を縡(こと)とし、鞠の友十余人、歌の友十余人、此外には近仕する人これなし」と評された。十四代執権北条高時も巻十三・五話に「天性甚はだ軽忽にして、智慮もっとも後れたり。すこぶる執権の器量に相応せず」、同十三話「奢侈(しゃし)に耽(ふけ)り、政道に暗い」と評している。彼らの失敗は仁慈・礼義・無欲の政道を行わなかった事から生じたと。また『九代記』の作者は国家正道の乱れは、巻九・三話「上下遠きがいたす所」であると時頼の言葉を引き、巻十一・十三話には、北条貞時が「上下遠き事」を恥じたという話も伝えている。その上意下達・民意上達の道が詰まるのは為政者の愚昧から生じ、その結果、自ずと天の声によって政権の事情が行われるというのも作者の思考であった。
天命が至らなければ、天下を取ることは出来ない。源頼朝の異母弟阿野全成の子・時元が実朝薨去後に反乱を起こして誅せられた事につき、巻五・一話「天命至らず、時運調はざる時は、回天の威を振ふといへども、その功はなきものとなり。只翌変を伺いがひ、時を待ちて本意をたっすべし」と記している。また八代執権時宗を討とうと計った兄である六波羅南方の北条時輔及び同公時・教時らが逆に討ち滅ぼされたことにつき巻七・五話で、「天運の命ずるによらずして、非道の巧みを企てつるも乃は、天かならず罰を施し、鬼すでに罪をうつがゆえに、亡びすといふことなし。運を計りて命を待つとは君子の智徳をいふなるべし」と評している。天命を待ってその本意を遂げるべきであり、時運を伺いえるのも君子の智徳の一つと主張しているのだ。政権の移譲は天命によるものであり、その政権は為政者の人格・行為・が仁慈・礼義・の儒教道徳にかなっている事により維持されていくという発想であり、為政者側からの発想で捉えながら人々は上に立つ者の恩恵に浴する立場にあり、その余蔭に託されるとしている。当時の為政者において現在の民主体制を示唆する発想はなく、理想の政治は為政者の善政を期待するしかなかった。
源家が滅びようと、北条氏が滅びようと、それはまさに天運が政道に暗い為政者の交替をもたらしただけであり、善政が施されば誰が政治を行おうと、それは問題にされないのである。『北条九代記』は、後醍醐天皇の京都還幸で大団円となっており、天皇もまた巻十二・九話で、「近代の名君、当時の賢王にて、慈悲徳沢のあまねきこと、一天四海その恩恵を蒙ぶり、礼譲道義の正しきこと四民六合、かの余蔭に託す」と評価されているように、政道正しく、理非の決断を明らかに行った為政者の一人にすぎないのである。作者は天皇親政を良とも言わず、武家政治を悪とも記述していない。これは、公家政治を一途に慕い、その見果てぬ夢を追い続けた『増鏡』の著者とは違うところであって、すでに武家政権の安定した時代に当たっては、為政者の政道・仁慈・に基づく安国撫民・人民安穏の恩を最大の理想とせざるを得なかったと評している。 ―続く―