鎌倉散策鎌倉歳時記 三十二鎌倉時代を記する諸本『北条九代記』(一) | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 江戸幕府を設立した徳川家康は、神道思想よりも、仏教思想と儒教・朱子学による政治政策を務めたように思われる。家康は、多くの書物を研鑽し、特に『吾妻鏡』において、関東武士による武家政権の政治形態を踏襲した。自身が歿した以降の徳川家・江戸幕府の政治形態と家督継体を作り上げている。幕府の政治形態は、鎌倉幕府の執権制度とは若干違う。二万五千石以上の譜代大名から複数の老中を任命し、月番制で政務を執り、筆頭者を老中首座として事実上の執政として幕政を導かせている。譜代大名であり、所領の蕃の石高は十万前後が最高であり、権力と財政は特筆する者は出なかった。また権力を集中させなかったと言って良い。よって、鎌倉期の北条氏による世襲に伴う執権体制ではなく、権力の集中を起こさず、幕政が支えられた。

 

 室町幕府においては、政治組織形態は鎌倉幕府の形態をほとんど継承している。しかし、管領職においては斯波氏、畠山氏、細川氏が就いて「三職(三管領)」と称し、山名氏、一色氏、土岐氏、赤松氏、京極氏、上杉氏、伊勢氏の七氏が「七頭」と称され、それぞれの奉行職も兼任し、多くの外様大名も守護大名として権力と財政を持ち、政権に影響力を与えた。室町幕府の政治形態は守護大名の合議制で、長期の南北朝の争乱により、守護はその権力を拡大し、任国の管理者から、領国支配者となっている。それらにより、応仁の乱等の戦乱が続き、将軍の権威が失墜し、そして権威の失墜は守護大名の失墜を意味した。そして下克上が頻繁に起こる戦国時代へと入って行くことになる。

 

 

 戦国期において織田信長、豊臣秀吉、が戦乱を平定し、徳川家康が豊臣政権を倒して江戸に幕府を開く。政権の正当性を求める家系において、織田信長の織田氏には諸説あるが、一般的に平氏の末裔とされており、徳川家康の徳川家は、清和源氏の末裔である新田氏の流れを汲むとされている。『太平記』等の南北朝期において、北朝の正当性を示唆しながら、朝敵とされた足利とは別に、南朝の後醍醐帝に付き従った新田源氏である正当性を示す意向があったのかもしれない。そして家康は、鎌倉期と同様に朝廷との距離を開け、江戸において実質的な武家政権を踏襲したのである。

 徳川家康の仏教政策は、三河時代から苦慮した仏教勢力の一向一揆と、戦国期の石山合戦の宗教勢力の拡大と台頭を危惧した。石山本願寺を主体とした浄土真宗は、全国的に教団が拡大していくと、教団内部にも対立構造が見え、家康は、東本願寺と西本願寺へと分裂させ、宗教勢力と権力を拡散させている。鎌倉期においても鎌倉幕府は、従来の比叡山(天台宗)、高野山(真言宗)、南都六宗の権力集中を拒み、臨済宗、真言律宗の僧を鎌倉に招き、鎌倉での宗教勢力をひざ元で管理しながら、権威と勢力の分散を行った。また、鎌倉期においては、「御恩と奉公」という形で御家人を統制し、臣下として従順に幕府に従わせるために、北条泰時が選定した御成敗式目(貞永式目)を策定した。御成敗式目は一方、御家人を領家・領主から守る方でもあった。これを江戸幕府も継承し、当時に見合った武士の規範となる「武家諸法」度を定めている。しかし、この「武家諸法度」は、半が犯せば取り潰し、個人が犯せば切腹と言った権力の集中を許さない方であったことが伺える。添いてこれ等に正当性を持たせるために、武士の教育に関して儒学思想と朱子学の思想を持ち込み、忠臣としてあるべき姿の思想操作を行った。

 

 儒教は、将軍や大名、庶民に至るまで、儒学の教えにより忠孝や礼儀、身分制度や上下関係を重視する幕府の求める社会秩序に合致した。武士の規範として藩学の創設、また庶民にも寺子屋制度などにより、識字率を高め、道徳的規範を広く浸透させている。儒教、特に朱子学は学問と教育としての活用が重視され、社会の安定に大きく貢献した。識字率を高めた事は、文化的においても西欧列強と比較にならないくらい高く、後の幕末、及び維新においての我が国の発展に多大な貢献を成す力となっている。これらの仏教政策と教育政策が、幕府が二百六十年余り続いた要因でもあり、現在においても日本文化を継承する要因であったと言えるだろう。

  

 この時期の延宝三年(1675)に、『北条九代記』全十二巻十八話の雑史書が成立している。著者は浅井了意の作とも言われているが、詳細は不明である。『北条九代記』は、『吾妻鏡』『保略間記』『太平記』等に拠り、北条時政から高時に至る鎌倉期の北条得宗家九代の事績を物語風に論評を加えて著された。儒教的徳目を基準として政権の推移を天命思想により説明している点に特色がある。北条氏の執権は、得宗家以外を含め十六代続いており、北条得宗家の執権としては、北条時政・義時・泰時・経時・時頼・時宗・貞時・高時の八代である。『太平記』巻第一話に「其(義時)より後、武蔵守泰時・修理亮時氏・武蔵守経時・相模守時頼・左馬権頭時宗・相模守貞時・相続いて七代云々」と記され、また『梅松論』上にも「執権次第は、遠見守時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時、高時、以上九代皆以て将軍家の御後見として政務を申し行ひ云々」とあるように、いずれの場合も執権職に就かなかった時氏が記されている。奥富敬氏の「北条九代記」『歴史読本』昭和五十年七月臨時増刊号に、北条義時の法号を「徳宗」からら出ているとし、本書は北条氏嫡流(本家)の家督、「得(徳)宗」家の北条時政から高時に至る九代を記述した物であると記している。  ―続く―