江戸期に入ると、先述した水戸藩が、明暦三年(1657)頃に「彰考館」と称する修史局を置き、『大日本史』『新編鎌倉志』が編纂され始められている。徳川光圀は、この『大日本史』の編纂事業で鎌倉期の資料が少ないことを痛感し、延宝二年(1674)五月に現地調査団の団長のような形で鎌倉に赴き、調査を行った。この調査報告書が『鎌倉日記』であり、光圀自身が書いた観光日記でも、旅行記でもない。それを纏(まと)めたのは、家臣の良広基経らであることが巻末に記載されている。
延宝二年(1674)五月二日に金沢(現六浦)の施鳥羽市に付き、その夕刻に水戸藩が建立した英勝寺に到着している。江戸藩邸の近侍が先着して、全ての用意を整えて出迎えた。「全ての用意」とは、光圀の身の周りのことだけでなく、鎌倉の主要な寺、鎌倉のそれぞれの土地の長老に、その土地の歴史について説明できるようにしておくという通達も含まれていた。光圀は鎌倉中を回り、同月八日には、英勝寺より、藤沢の清浄光寺(通称遊行寺、時宗総本山)により、神奈川宿に泊まり、九日に江戸藩邸に戻っている。鎌倉滞在が一週間であったために、自身が回れなかった名越、川崎大使などは家臣を派遣して見学(調査)させた。
当時の調査団の調査と言っても、当然地理にも詳しくなく、また史実についても詳細な知識・研究が進められていなかった事で、土地土地の古老・長老から説明を受け、そのまま記録するといった作業であった。これらの説明に対しての分析を行うだけの見識は無く、江戸初期においては土地土地において、このように伝わった伝承があると言った読み方をすると的を得た解釈ができるとされる。
この様に江戸期には、戦乱が収まり、新たに文化的志向が強くなり、歴史、地誌において編纂が行われていく。その為に編纂所・学問所の建立が増えて行った。水戸藩の「彰考館」の建立以前の慶長十二年(1607)には、徳川家康に僧形の学者として儒学・朱子学に精通する林羅山を江戸に招き、二代将軍徳川秀忠の講書を行っている。寛永元年(1624)には、三代将軍徳川家光の侍講となり、伝記・歴史の編纂校訂、古書・古記録の採集、「武家諸法度」の選定や外交文書の起草など多岐にわたり行った。これらについて補足的説明をおこなっていく。
寛永七年(1630)には、家光から江戸上野忍岡に五千余坪の土地と二百両を与えられ、寛永九年(1632)に江戸上野忍岡に私塾(学問所)と文庫として孔子廟を建設し、尾張徳川家当主徳川義直が同地内に聖廟を建立し「先聖堂」の扁額を与え、「先聖殿」と称した。寛文三年(1663)には四代将軍家綱から林家二代当主鵞峰(がほう)に「弘文院学士」の号が与えられ、林家塾は「弘文館」(弘文院)と称される。元禄三年(1690)に五代将軍綱吉は、神田湯島に六千坪の土地を与え、聖廟を建立し林塾を移し、綱吉が親書による「大成殿」の扁額を与えた事から、講堂は「先聖殿」から「大成殿」に改称された。大成殿及び付属の建物を総称して「聖堂」として、地名を取って「湯島聖堂」と称され、また同地は孔子の生地である「昌平郷」にちなんで「昌平坂」と命名されたため「昌平坂聖堂」とも称された。元禄四年(1691)に綱吉は林家三代当主林信篤(鳳岡)に蓄髪(還俗)を命じ従五位下に叙して大学頭の官職に任じた。以後代々大学頭の官職は林家が世襲して任じられ、西洞の趙の役割を担っている。
この「昌平坂聖堂」(湯島聖堂)で江戸幕府は、武蔵国の地誌の編纂に携わせて、天保元年(1841)『新編武蔵風土記稿』全二百禄十五巻が完成された。それに引き続き相模国の地誌を大学頭林述斎(林衡)の建議に基づいて昌平坂学問所地理局が編纂に携わる。天保十二年(1841)に十二年をかけて『新編相模国風土記』全百二十六巻が編纂された。『新編武蔵風土記稿』『新編相模国風土記稿』ともに、明治維新後の大正と昭和の時期に合わせて計五十四巻刊行された『大日本地誌大系』に収録されている。これらの地誌は地誌取調書上を各村にて提出させた上、実地に出向し、調査知っている。調査内容は、自然、歴史、農地、産品、神社、寺院、名所、旧跡、人物、旧家、習俗、土地、地域についての事柄に渡っている。新編とは奈良期の地方の文化風土や治政等を国ごとに記録編纂させ天皇に献上した報告書である古風土記に対し新しいという意味で付けられている。現在で言うところの歴史学、民俗学と文化人類学などに対して当時の重要な資料として存在している。 ―続く―
Wikipedia引用 聖堂(江戸名所図会より)、元昌平坂聖堂での博覧会(昇斎一景・1872年))