鎌倉散策 鎌倉歳時記 十、名越から日蓮上人の寺院を巡る | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 これまで、名越から大町の鎌倉葉山線沿いの日蓮上人、日蓮宗の寺院を巡ってきた。本覚寺の楼門の前の小町を北に行くと、日蓮上人の辻説法の地や日蓮宗の寺院の妙隆寺も訪ねる事も出来る。しかし、この辺にして、鎌倉駅へ戻ることにした。この散策路では、昔は途中で食事をするところなどがあったが、今はそれと言ったお店が無いので鎌倉駅周辺に戻ってから食べるようにしている。

 

日蓮宗は、鎌倉新仏教として、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗、時宗が、この時期に創設されている。これは従来、政治的に国家鎮護・仏教研究を目的とした南都六宗や天台、真言宗の官寺や貴族の私寺として創建された宗派とは違い、貴賤に関わらず極楽浄土を求める民衆救済の宗教として設立され変遷していった。現在では、どの宗派においても葬儀の関与がなされているが、平安期において天台、真言宗の平安二宗の僧籍を持つ者は、高貴な人の葬儀の儀式として出家の導師としてその責を担っていたが、大衆における葬儀と言うものには関与していなかった。この鎌倉新仏教は民衆救済において極楽浄土への標として葬儀に関与していく特徴を持つことになる。他の鎌倉新仏教として創建された宗派は、民衆救済の教義と共に宗派始祖に対しての尊称と崇拝をもって崇められるが、日蓮宗のように日蓮像を作成し本殿に置かれることはほぼ無いであろう。

 

 日蓮は、承久四年(1222)に安房国長狭郡東条郷片海(現千葉県鴨川市)の漁村で生まれたとされた。諸説あるが下層の漁民ではなく、漁民をまとめる荘官級の立場であった者の家に生まれたとされる。長狭郡は、治承四年(1180)石橋山の戦いに敗れた源頼朝が安房国平北郡猟島(現千葉県去難聴竜島)へ渡海した際に、隣接する長瀬郡の大半を支配していた平氏に属す武士団の長狭常伴は、頼朝が上総国の上総広常の元に向かう途上、襲撃して三浦義澄に露見され返り討ちに会い討たれた所であり、これもまた興味深い。

 日蓮は十二歳で、初等教育を受けるため安房国の天台宗寺院であった清澄寺にのぼった。日蓮は幼少時から清澄寺の本尊である虚空蔵菩薩に「日本第一の智者となしたまえ」と言う「願」を立てており、また自身の生まれる前年に起こった承久の乱で真言密教の祈祷を行った朝廷方が、何故鎌倉幕府に敗れたのか疑問を持った。また仏教界においてなぜ多くの宗派が分立しあっているのかとも疑問を持ったとされる。清澄寺にはその疑問を解消し得る学匠がおらず、日蓮は既存の宗派の教義に盲従せずに、自身で経典に取り組み、経典を基準として主体的な思索を続けた。十七歳の暦仁元年(1238)に出家し「是生房蓮長」の名を与えられている。寛元三年(1245)に二十四歳で比叡山に遊学して主に横川の寂光院(定光院)に住持した。比叡山に入山するには遅い年齢であるが、比叡山では、法華経を中心に天台本格思想を学び、八年の間で、近江の三井寺、奈良の薬師寺、東寺、京の仁和寺、紀州の高野山、摂津の天王寺と遊学し、『十住毘婆沙論尋出御書』、日興『原殿御返事』にて、比叡山で「阿闍梨」の称号を得たとされる。しかし比叡山の資料には記されていない。その後、建長五年(1253)に清澄寺に帰山している。遊学の成果として清澄寺の僧侶に示す場が設けられた。日蓮は念仏と禅宗が妙法蓮華経を誹謗する謗法を犯しているとし、「南無法蓮華経」の題目を唱える唱題行を説いている。

 

 法華経の経典は、仏教史において西暦四十五年頃から二百年ごろに成立し、わが国では聖徳太子の仏教とともに伝来した。奈良期に律宗・天台宗を学んだ鑑真が、天平勝宝五年十二月に日本へ来日して律宗の戒律と天台宗の教義を伝え法華経も伝えている。平安期に空海・最澄により中国から持ち入れられた密教に比べ早期の経典であった。また鑑真は、戒壇院で始めての受戒を行われている。正式に僧となるには中国に留学し受戒を受けなければならず、朝廷は、その経験者が日本に戻り受戒を与え、年に二人の官僧の立場を許した。当時は、私度僧(自身が出家を宣言した僧)がほとんどで、伝戒師を介した制度を用いる朝廷の施策から、その後、東大寺において受戒が行われる。平安初期に比叡山も戒壇の受戒を行われることが許され、一年間に得度を許された年分度者が割り当てられるようになった。その後も各宗派において受戒が実施されるようになる。このように天台宗における法華経の教義は、当時旺盛していた専修念仏や禅宗に比較し、日本における仏教教義の初めと言って過言ではない。天台宗では、南無妙法蓮華経の題目を唱える事は修行としても行われており、日蓮の比叡山の遊学で、「専修題目」のみを行う事を主張した。しかし、日蓮が念仏と禅宗を破折させたことは大きな波紋を広げることになる。

 

 建長五年(1253)に四月、日蓮は「是生房蓮長」の戒名を改め「日蓮」と号し、「南無妙法蓮華経」と題目を唱える立教開宗を行った。源埼玉県川越市小仙波帳にある中院の尊海僧正から恵心流の伝法感情を受け同年、清澄寺を退室。そして鎌倉に移り名越の松葉ヶ谷に草庵を構え布教活動を開始する。布教活動の内容は、日蓮が『諫暁八幡沙』、『御義口伝』で、他の仏教宗派を非難した四箇格言で、真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊であり、『法華経』を一乗とする立場から『法華経』に依らない、もしくは釈迦を卑下したりする仏教宗派を誹謗正法だとして批判した。『法華経』以前の釈迦が説いた教えは、全て方便で説かれたものであるから成仏する道ではないという爾前無得道論(にぜんむとくどうろん)に 基づく主張で、それを各宗派の教えに特徴を合わせて批判する。また「建長寺も極楽寺も寿福寺も鎌倉の寺を焼き祓い建長寺の蘭渓道隆も、極楽寺の両官房忍性も首を刎ねて由比ヶ浜に晒せ」と過激な発言を行った。文応元年(1260)に『立正安国論』を著わし、前執権で幕府の最高権力者の北条時頼に進言した。その四十日後に、松葉ヶ谷の法難として、念仏宗徒らにより松葉ヶ谷に襲撃を受けながらも再び布教活動を行うが弘長元年(1261)伊豆国伊東へ配流となる。伊豆国法難である。

 

 文永元年(1264)十一月十一日、安房国長狭郡東条郷の地頭を勤めていた東条景信が、念仏の信徒であったために日蓮の言動に激しく怒り殺害しようとした。小松原法難である。日蓮は、兄弟弟子の浄顕房・義浄房に導かれ清澄寺を離れた。

文永八年(1271)七月、幕府は御成敗式目第十二条「悪口の咎」により佐渡流罪を決定した。龍ノ口刑場にて処刑されかけるが、処刑を免れた。龍口法法難である。これは文永五年(1268)に蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となった時期で、日蓮は執権北条時宗、平頼綱、建長寺蘭渓道隆、極楽寺良観などに書状を送り多宗派との公場対決を迫った事が、世の中の体制において争乱を及ぶ可能性があったため幕府は日蓮の流罪を決定したと考えられる。『立正安国論』を著した時期、鎌倉は正嘉の大地震により多くの被害を出していた。『立正安国論』によると大規模な災害や飢餓が生ずる原因は法然の教えによるもので、為政者を含め人々が正法に背いて悪法に帰依しているところにあるとし、その際に難を止めるために正法に帰依することが必要であると主張した。また悪法に帰依し続けたならば内乱と他国からの侵略により日本が滅びると予言、警告を行っている。この他国侵略の予言は、臨済宗の禅宗が広まる中、南宋から逃れた禅宗の僧による発信で周知していた事が推測され、日蓮はそれらの情報を基に主張したと考えられる。

 

 文永十一年(1274)春に佐渡流罪が赦免され、幕府評定所の平頼綱から蒙古襲来の予見を聞かれた日蓮は、「世も今年はすごし候恥」と述べ、幕府に対する三度目の諫暁を行った。再び罪人として扱われようとした中、五月に身延部一帯の地頭であった南部(波木井)実長の招きに応じて波木井郷(身延)に入る。蒙古による二度の襲撃である元寇は、辛くも退けることが出来、日蓮の他国による侵略の予言は覆った。そして日蓮は病を得て常陸国へ湯治に向かうが、弘安三年(1282)十月十三日、池上宗沖邸(現東京都大田区にある大本山池上本門寺)にて入滅。享年六十一歳であった。

 私自身、宗教家としての日蓮は、日蓮は自己顕示欲が強い宗教者であったと考える。またその行動は、自身の主張の正当性を求めるためには、他宗への誹謗中傷と災害時期であった鎌倉の為政者や民衆に対しての「法華経」に帰依しなければ災難が継続するという主張は、恫喝に思えてしまう。現在では、宗教家として全く受け入れられないと考える。しかし、この鎌倉期においては、これだけの行動力を持ち反体制的な布教活動を行った人物であったことは間違いない。現在においてカリスマ的な存在であったとも言えるだろう。また同時期、この鎌倉の極楽寺で社会福祉活動を行った僧の忍性と対比して考える事によっても興味を引く人物である。鎌倉は日蓮衆の寺院が、鎌倉地区、龍ノ口、腰越、鎌倉山周辺などに多く存在し、その時代と日蓮を知った上で、その遺跡・旧跡を訪ねてみるのも面白いと考える。  ―了―