妙本寺の山門を出てまっすぐに進み、滑り川の夷堂橋を渡ると、本覚寺の仁王門がある。こちらが楼門であり、楼門は阿形吽形の仁王像があり、邪鬼を祓い、寺院の表門となる。鎌倉期かにおいて若宮大路沿いには、鶴岡八幡宮の参道として神聖化されたために門を置くことは許されなかった。若宮大路沿いの大巧寺や本覚寺はその名残を示している。若宮大路・鎌倉駅に向かう横道には小ぶりの薬医門があり、鎌倉に住む人は、若宮大路・鎌倉駅から大町・材木座方面に向かう時に、本覚寺境内を通り抜け、夷橋を渡る。少し便利なショートカットになっている。そして、通り行く鎌倉の人たちは、宗派に関わらず、本堂の前を通る際に立ち止まり、頭を下げるか、手を合わせる。「東身延」「日朝様」とも呼ばれて親しまれている寺院である。
もともとは、この地に天台宗の夷堂があり、夷堂は源頼朝により、幕府御所の裏鬼門にあたるため、鎮護の目的として建てられた。文永十一年(1274)、日蓮が佐渡に配流された後、赦免され、再び鎌倉に戻り、滞在した所でもある。後に、ここから身延山へと移った。元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めで焼失したが、永享八年(1436)、日蓮宗に改宗し、日出(にっしつ)によって幕府滅亡の際に焼失した夷堂の地に日蓮宗の本覚寺を創建した寺院である。
第二世日朝(1422~1500)は、三十代後半で本山身延久遠寺の住持(代十一代)となり、諸堂塔を整備し、中興の人と尊ばれている。また、身延に参詣することができない婦女子、老人の為に、身延に有った日蓮の遺骨を本覚寺に分骨した。その為に本堂右わきに日蓮上人御分骨堂がある。日朝は多くの寺院を開き、自身が目を患った時、法華経と自らの回復力で治癒し、江戸時代に眼病に霊験あらたかで、学徳を得ることができると言い伝えが広がった。目薬の日朝水がある。本覚寺は後に後(小田原)北条家の保護、秀吉、家康の寺領寄進により広大な寺域を誇っていた。境内には鎌倉末期から南北朝時代にかけての相模の刀工として有名な正宗の墓と石塔があり、また鎌倉有数の百日紅の大木が、八から九月にかけて赤い花で覆われる。
本覚寺 (ほんかくじ)の宗派は日蓮宗であり、山号寺号を妙厳山(みょうごんざん)本覚寺と号す。開山は日出で、本尊は釈迦三尊である。寺宝は南北朝期の作、本尊木造釈迦如来像および両脇待座像(市文化財)。木造二天立像(持国天、多聞天)。日蓮上人真筆。松平定信筆、東身延額が残されている。
鎌倉七副神として、えびす様が祀られている。鎌倉七副神は、北鎌倉の浄智寺の布袋様(家庭円満)。鶴岡八幡宮の弁天様(芸の神、財運を招く神)。宝戒寺の毘沙門天様(病魔退散、財宝富貴の神)。妙隆寺の寿老人様(長寿の神様)。本覚寺の夷様(商売繁盛、五穀豊穣の神)。長谷寺の大黒様(出世、開運の神)。御霊神社の福禄寿(知恵の神様)の七か所の寺社に祀られた七福神の事で、最近、一日で回れるため七福神巡りを行い、御朱印を頂くことが流行っている。正月のえびす講は、三日、そして一般的な十日の日にも行われ、商売繁盛を祈願して多くの人が集まる。福娘が福餅、御神酒をふるまう。また、十月の第一日曜日に人形供養が行われ、他の地域にない、鎌倉の風物詩となっている。 ―続く