妙本寺の方丈の門の左を進むと、急で長い階段があり、そこを登って行くと、蛇苦止堂・蛇苦止明神に至。妙本寺を参詣する時には、是非とも訪ねてもらいたい。ひっそりと佇む社殿は、ほとんど人が訪れず、鎌倉期の比企の乱を思い浮かべることが出来るだろう。蛇苦止明神例祭が、九月一日に蛇苦止(じゃくし)堂で行われ、檀家ではないが、妙本寺に連絡し、一般での参加の許可を得て、例祭に参加させていただいたことがある。明神とは日本の神仏習合における仏教的な神の称号の一つであり、寺院を守護する祭神としても、それぞれの神が寺院の境内もしくは隣接地に置かれている。
(蛇苦止堂)
蛇苦止堂の由来については、『吾妻鏡』文応元年(1260)十月十五日条には、「相州正村(北条正村)の息女が邪気を患い、今日の夕方、特に苦しんだ。比企判官(比企能員)の娘である讃岐局の霊により祟りであることを自ら申したという。讃岐局は大蛇となり、頭に大きな角があり、火炎のようである。常に苦しみを受けて今は比企谷の土の中にいると言った。これを聞いた者は身の毛もよだつ思いであったという」。正村はこの時は五十五歳で、建仁三年(1203)の比企の乱から五十七年もの前の事であった。正村とその娘はしばらくこの怨霊に苦しめられる。
『吾妻鏡』十一月二十七日条には、「今日、相州(北条政宗)は一日経を書写された。これは、正村の息女が邪気を病んでおり、比企能員の娘の霊詫により、能員の娘の苦しみを和らげるためである。夜になり供養の儀式が行われた。若宮の別当隆弁を招き唱導 (供養を行う導師)とした。説法の最中、その姫君(正村の娘)は苦しみ乱れ、舌を出して、唇を舐め、身を動かして足を伸ばした。全く邪神が出現したかのようであった。聴聞のために(能員の娘の)冷気が来たのだという。僧正(隆弁)が加持した後、 (政村の娘は)呆然として言葉を発するのを止め、眠るようにして本復したという」。
根拠は不明だが、若狭の局は後に讃岐の局と同一人物とされ、後に呼ばれるようになったのか、編纂者の誤記であるかは不明だが、同一人物である。一幡の母が若狭局の霊が正村の娘に取り入ったのが『吾妻鏡』に記されているのも興味深い。
(蛇苦止堂境内)
『吾妻鏡』では、建仁三年(1203)九月二日の比企の乱で、比企一族は自邸に籠り防戦するが、屋敷に火を放ち一族は自害した。若狭局と一幡もその時に焼死したとされ、同月三日条には、大輔房源性が、故一幡君の遺骨を拾おうとしたところ、焼けた死骸が多く混じり、探す術もなかった。(一幡の)乳母が言った。『最後には染付の小袖を召されていました。その文様は菊枝でした』。ある死骸の右わき下に小袖が僅かに一寸余り焦げ残っており、菊の文様がはっきり見て取れた。そのためこの文様によって一幡君の衣装と分かり、(遺骨を)拾い申し上げた。源性は(遺骨を)首に懸けて高野山に出発した。奥の院に奉納するという」。妙本寺の祖師堂の境内右に竹杭で囲まれた五輪塔が置かれ袖塚とされている。また、『愚管抄』では一幡とともに逃げ延び、二か月余りたった後、十一月三日に北条義時の郎党に捕らえられ殺されたと記されている。
(妙本寺 比企一族の墓 一幡袖塚)
蛇苦止堂には、蛇苦止の井、または蛇形(じゃぎょう)の井と呼ばれる井戸があり、松葉ヶ谷の六方の井と繋がっているとされ、今も蛇が二つの井を往復しているという。寺伝によると比企が谷で一族が滅ぼされた時に若狭局が家宝を抱いてこの井戸に身を投げ、蛇に化けて今もその宝を守っているという。そして蛇苦止明神は、妙本寺の守護神となっている。 ―続く
(蛇苦止堂 蛇苦止の井 境内)