鎌倉散策 鎌倉歳時記 七、名越から日蓮上人の寺院を巡る 妙本寺 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 常楽寺から住宅地を少し歩くと、右手に山門が見え、その中に八角形の仏閣風木造建築が見える。幼稚園で、園児が楽しく遊んでいるのもほほえましい。山門をくぐり大きな杉の林が参道として鬱蒼とした比企が谷の風景を感じさせてくれる。この地は、鎌倉期において、源頼朝の乳母である比企禅尼が嫁いでいた氏族である比企氏の邸宅があった。比企禅尼は、武蔵の国比企郡の豪族の比企達宗の妻で、平治の乱で敗れ、生き残った頼朝が配流された伊豆時代から、養子の能員(よしかず)を介して生活やその他多くを援助している。

 

 その後、能員は挙兵した頼朝に仕え、信頼される御家人の一人であった。娘の若狭局を頼朝の嫡子・頼家に側室に嫁がせ、子の一幡が生まれる。建久十年(1199)に頼朝が死去すると、二代将軍を継承した頼家の舅、そして一幡の外祖父として勢力を拡大する中、北条氏との対立が生じるようになった。建仁二年(1203)二代将軍頼家が重病に陥ると、源実朝の祖父時政が外戚としての立場と実朝の遺領分与について比企能員と争い、「比企の乱」が起こる。能員は、時政に仏事の相談があるために時政の名越の自邸に呼び出されるが、一族郎党は引き止め武装するように訴えたが、武装すればかえって怪しまれる無防備で時政邸に出向き門を通り屋敷に入ろうとしたところ、だまし討ちの謀殺が行われた。その後、武装していた時政の軍勢が比企谷に押し寄せ、屋敷に火をかけられ、比企一族の者と幼い一幡(六歳)は自刃した。境内には比企一族の供養塔や一幡の袖塚が置かれている。

 

 比企氏対北条氏の対立は、北関東を領する藤原氏対南関東を領する坂東平氏の対立抗争とも見られ、頼朝死後、将軍の裁量権を廃し十三人の合議制が始められたのもこれらの対立と既得権を得た有力御家人の集合であった。しかし、藤原秀郷の末裔とされる藤原北家魚名流の足立遠元、安達盛長、藤原北家道兼流の八田知家等と縁戚関係を取っていたが、彼らは北条時政に与して比企谷を攻めた。それが勲功に対し所領が与えられる当時の武士たちの生き様なのか、それとも平治の乱で長年源家に仕え源義朝に従って共に戦い、敗れた武人としての関係が左右したのか。この比企の乱で、やはり重要視されるのが、三浦義澄の三浦氏の存在であったのではなかろうかと私は考える。

 この妙本寺は、姻戚関係を持ち、同氏族でありながら統率が取れず、北条時政に攻め滅ぼされた比企能員の政治的工作が時政に劣っていたと言わざるを得ない。奇跡的に病気が快復した二代将軍頼家は、既に側室と子・一幡を亡くし、光景であった比企氏が壊滅していた。すでに朝廷より将軍職が実朝に宣旨されていた。その後、頼家は修善寺に幽閉され、北条義時により惨殺されている。

 

 妙本寺、は山号寺号を長興山(ちょうこうさん)妙本寺と号し、日蓮宗の寺院である。開山は日蓮聖人。開基は比企大学三郎熊本。そして創建は文応元年(1260)である。今は「杉の寺」とも称されている。

 比企一族滅亡後も儒官として幕府に支えていた能員の末子、比企大学三郎熊本が、後に日蓮宗に帰依し、文応元年(1260)、日蓮(日郎とも)を開山として妙法寺が創建されたという。長興山妙本寺の名の長興は能員の法号で、妙本は室の法号にちなむ。

創建の年、文応元年(1260)七月、日蓮が『立正安国論』を著して、北条時頼の近臣・宿屋光則を通じ献進した。そこには他宗の批判も記載されていた事や、辻説法での他宗の批判により念仏衆たちの怒りをかい、八月に松葉ヶ谷の草庵(現妙法寺隣接の地)が放火される。日蓮が身延に隠遁すると、直弟子の日郎がこの寺を拠点に布教活動を行い、やがて妙本寺は日郎門下の拠点として信仰を集めた。郎門(日郎の門流)の三長三本の一寺に数えられている(千葉県長谷山本土寺、池上の長栄山本門寺)。本覚寺、妙法寺、妙本寺は日蓮宗鎌倉三ヵ寺と称されたこともある。境内には比企一族の供養塔、二代将軍頼家に嫁した若狭局の霊を祀る蛇苦止堂、一幡を祀る袖塚などがある。本堂は唐門仕様である。本尊は十界大曼荼羅御本尊。寺宝:日蓮聖人臨終の際、その枕元に掲げられた日蓮上人の自筆本尊。在命中に刻まれたという祖師道の日蓮聖人像。日蓮在命中日法が彫った像で、妙本寺、身延久遠寺、池上本門寺の三体を一本の木から作られた像と言われている。徳川慶喜の手による写経『撰法華経』等がある。

 

 祖師堂の左手の道を登って行くと、墓地となり、その奥に竹御所の墓が置かれている。竹御所は、源頼家の娘で頼朝の血を引く最後の女性であった。比企の乱後、北条政子の庇護のもと成長する。頼朝の血を引く竹御所は、政子の死後において幕府関係者から幕府の権威の象徴として御家人の尊敬を集め、政子の実質的な後継者となった。しかし二十八歳になる竹御所は、寛喜二年(1230)に十三歳になった摂関家将軍藤原頼経の十五歳年長の正室となっている。夫婦仲は円満であったと伝えられ。その四年後の文暦二年(1234)に懐妊し、後継者誕生に期待されたが、難産の末男子を死産する。竹御所も死去した。享年三十二歳であり、是により頼朝直系子孫は絶え源氏将軍の血筋が断絶した。妙本寺の竹御所の墓には「源媄子墓 鎌倉幕府二代将軍源頼家の息女で四代将軍源頼綱河野夫人である。文r的元年(1234)ぅ月二十七日三十二歳で逝去 尚統治は新釈迦堂の地である」と記されている。位記(詔勅)には名を鞠子、妙本寺の寺伝によると媄子(よしこ)とされるが本名では無いとされ、『吾妻鏡』に「竹御所」の記載が記せられている。また藤原頼経は朝廷より源家を称することが許されておらず、源頼経は歴史的に認められていない。

 

 最近結婚式の前撮りと言ったものが流行っているとの事で、よく花嫁が白むくの着物姿で撮影している。また着物姿の女性を雇い、プロかアマチュアが写真を撮影している。鎌倉駅より近くで、鬱蒼とした参道、開かれた境内は、春には桜、海棠がそれぞ花を咲かせ、夏には、青々と深緑の葉に染められた樹木を見ることができる。総門から祖師道に向かう石坂の脇に水路が流れており、六月から七月初旬にかけ、蛍を見ることができるらしい。秋には赤く染まった紅葉が美しい。冬は雪で城に彩られた境内は水墨画を見るようである。賑わう鎌倉の中でも、平日では静寂の中で過ごせる寺院であり、私の好きな寺院のひとつである。 

―続く