再び鎌倉葉山線を少し行くと時宗藤沢清浄光寺末(じしゅうとうたくしょうじょうこうじまつ)の稲荷山超世院別願寺(投下さん調整院別願寺)がある。弘安五年(1282)に公忍上人が真言宗能成寺(のうじょうじ)を時宗に帰依し、別願寺とした。その後鎌倉における時宗の中心となり、室町期には足利一族が深く親交を深め鎌倉公方の菩提寺となり繁栄する。足利氏満、満兼、持氏の寄進状拾通余りが残されている。また高さ三メートルほどの足利持氏の供養塔と言われる法等が境内に置かれている。この供養塔は、珍しく四方に鳥居が浮き彫りにされ、鎌倉末期の作とされている。しかし、持氏は永享十一年(1439)に死去しており、鎌倉幕府が滅亡した弘元三年(1333)からおよそ百年後である。供養塔の制作年時と持氏の死去がかけ離れていると思うのは私だけだろうか。
鎌倉葉山線を少し歩き、北の住宅街に入ると、鬱蒼とした樹々の中に八雲神社がある。鎌倉に八雲神社は大町、常盤、西御門、山ノ内と四社ある。古い厄除開運の社として知られており、地元では「八雲さん」「お天王さん」と呼ばれ、親しまれている。新年初神楽、夏の神幸祭が有名である。神幸祭の神輿渡細や,細い敷地内を両側の木々が夏の日差しを遮り、本殿が開かれて、巫女の舞う神楽は幻想的に映し出される。祭神は須佐之男命、稲田姫、八王子命の他、本殿左奥に稲荷神社、諏訪神社、於岩稲荷社。右奥の石段を上ると御嶽三峰社の社があり、四社が境内社として祀られている。
その横が祇園山ハイキングコースの登り口である令和元年の九月の台風以降三年ほど通行止めになっていたが、今は復旧開通して祇園山ハイキングコースとして知られている。宝物殿が本田横にありガラス越しに神輿等を見ることができる。
八雲神社を出て住宅地を北にのぼると常栄寺の門にたどり着く。宗派は日蓮宗。山号寺号を慧雲山(えいうんざん)常栄寺と号する。創建は慶長十一年(1606)で、開山は日詔。開基は日祐(にちゆう)法尼。本尊は三宝祖師。寺宝は日蓮上人にぼた餅を進めた嫗が使っていたという鉄漿(おはぐろ)壺と木鉢が残されている。
鎌倉の切通内での日蓮宗の寺院が多いのは大町、材木座であり、切通外では腰越が多い。各寺、日蓮上人の逸話が多く残されている。日蓮は、松葉ヶ谷の法難後、一時、下総に逃れたが、弘長元年(1261)に鎌倉に戻り、再び活動し、辻説法を行った。しかし、幕府に捕らえられ、伊豆に配流される。弘長三年(1263)には配流をとかれ、鎌倉に戻る。
文永五年(1268)高麗王の使者がフビライの国書を持って太宰府に着いた。日蓮上人は以前から持論の『立正安国論』により、外国からの侵略を提言していた。再度、上呈しなおし、法華経に帰依するよう幕府執権北条時宗に献上した。文永八年(1271)九月十二日、日蓮上人は幕府により罪人として捕らえられ、裸馬に乗せられ鎌倉の大路、小路を引き回された。その後、佐渡に配流されることになっていた。
寺伝によれば、この地は鎌倉時代に源頼朝が山上に由比ヶ浜を遠望するために桟敷(一段高いところ)を作ったとされる。その後に宗尊親王の近臣で、ここを守護していた印東次郎左衛門尉祐信の妻の日蓮宗の女(淺敷尼と言われる)が、引かれて行く日蓮に護摩のぼた餅を捧げたという伝承がある。幕府は引き回しの後、佐渡に配流する前に竜ノ口で日蓮を斬首する計画であった。斬首が行われようとした際、江の島の方から月光のような光の物が現れ太刀取は目がくらみ、倒れ臥した。他の武士たちも恐怖におののいて逃げ去り、日蓮は奇跡的に死罪を免れて佐渡に配流された。これが日蓮四大法難の一つの瀧口法難である。後に日蓮が刑を免れたことから、「首繋ぎのぼた餅」の逸話が生まれ、「御首繫に護摩の餅」として有名になった。また腰越の法源寺にも同じような逸話があり、老尼が日蓮にぼた餅を捧げようとしたところ転んでしまい砂まみれになった。日蓮は、そのぼた餅を喜んでいただいたとされ、この事により砂の代わりに護摩がまぶされていると言われている。
江戸時代、紀州徳川家家老水野重義の娘で日蓮宗に帰依した日祐尼が開基。池上本門寺十四世と妙本寺を兼帯する日照が開山。寺名は淺敷の尼の法名「妙常日栄」が基になったと言われている。門には日蓮宗の自問「橘」と源氏家紋「笹竜胆」が掲げられている。
常栄寺では、法難があった九月十二日に、祖師像にぼた餅が捧げられ、参詣の人たちにも供養接待が行われる。このぼた餅には厄除けとされ、多くの人が終日参詣でにぎわう。小さな境内であるが、春にはレンギョウ、シャガ、夏にはアラレハンゴンソウ、ジンジャー、秋にはコスモスと等季節に応じて可憐な花が咲いており、鎌倉において心安らぐ寺院のひとつである。 ―続く