鎌倉散策 鎌倉歳時記 五、名越から日蓮上人の寺院を巡る 上行寺 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 鎌倉葉山線を歩くと浄土宗の安養院の三門が見える。 山号寺号、祇園山安養院田代寺。創建、嘉禄元年(1225)。開山が良弁尊観(りょうべんそんかん)で、開基が北条正子である。本尊として阿弥陀如来像が安置されている。

開基が北条正子であり、この寺院の前に建てられている案内文を見ると、

『尼将軍と称される北条正子が、夫である源頼朝の冥福を祈るために佐々目ガ谷に建立した祇園山長楽寺が前身であると伝えられます。その後、鎌倉時代末期に善導寺の後地(現在地)に移って安養院なったといわれます。安養院は北条正子の法名です。延宝八年(1680)に全焼したため、頼朝に仕えていた田代信綱がかつて建立した田代寺の観音堂を移します。こうして「祇園山安養院田代寺」となりました』とある。

 

 境内には名越派開祖尊観が植えたという槙が残り、また横には、日限(ひぎり)地蔵を祀った祠が置かれている。決まった日数内に願いを叶えてくれると言い、鎌倉二十四所地蔵尊の第二十四番目の地蔵尊である。また本堂の裏には鎌倉に現存する最古の宝篋印塔があり、徳治三年(1308)の銘が刻まれている。また小さな供養塔が置かれ、北条政子の供養塔とされている。  

五月には、鎌倉葉山線に沿う寺院の石垣の上に濃い桃色の花のツツジが綺麗に咲き乱れる。今回は日蓮上人の遺跡の寺院を訪ねているので、記載はこの辺にしたい。

 

 安養院の右向かいに上行寺の山門が開けられている。そこには日蓮大上人弘教の霊場とあり、山号寺号を法久山大前院上行寺と言う。正和二年(1313)に、日範上人が創建開山した寺院であり、本堂は明治十九年(1886)に名越松葉ヶ谷の妙法寺下の法華堂を移築したものと言われている。江戸後期に、肥後の大名細川家が造ったとされ、軒の表欄間には竜の彫り物、格天井には花鳥絵、欄間には十二支の彫刻が施されている。本尊は三宝祖師で、本堂には日蓮上人像、開山日範上人像が安置されている。

 

 

(上行寺 山門 本堂)

 上行寺は癌封じの寺と知られ、看板や旗が置かれ、張札などが多く張られた寺である。すべての病、特にがんに効験があるとされ、瘡守(かさもり)稲荷を祀る稲荷堂と鬼子母神を祀る薬師堂がある。瘡とは、皮膚にできる出来物・腫物等を意味し、感染症である天然痘を痘瘡や疱瘡と総称している。なお、瘡毒として梅毒の俗称としても知られており、江戸期においては遊郭の近くに瘡守の社が置かれるなどされ、現在も全国各地に存在している。また、法華経において鬼子母神は、十羅刹女(十羅刹如:仏教の天部における十人の女性の鬼人)と共に法華信仰者の擁護と法華経の弘通を妨げるものを処罰することを誓っている事から、日蓮はこれに基づき文字で表現した法華曼荼羅に鬼子母神の号を連ね、二者に母子関係を設定している。この事が、法華曼陀羅の諸尊の彫刻化や絵像化が進む中で法華経信仰者の守護神として鬼子母神の単独表現の基となった。近世に入って以降、法華経陀羅尼品に依拠する祈禱が盛んになり、鬼子母神を祈禱本尊に位置付けるにいた事もあり、鬼型の鬼子母神像も多く造られるようになった。これは法華経の教えを広めることを妨げるもの(仏敵)を威圧する破邪重複の姿を表現したものである。今も堂を訪れる人も多く、昔も今も、病を癒すために神仏にすがる人が多い事を示している。

 

(身代わり地蔵 薬師堂)

 上行寺の本堂右手に身代わり鬼子母神と癌封じの瘡守稲荷が祀られており、北条政子が源頼朝の「おでき」を治すためにこの瘡守稲荷を参拝したという。『吾妻鏡』では頼朝が死去する四年ほど前からは歯痛の病に苦しんでいたと記されており、現代の歯周病と推測される。頼朝の死因は落馬とされるが、当時の武士が馬から落馬することは、非常に恥辱な事であった。『吾妻鏡』はこの期間欠落しており、死去の日時や詳細は不明である。これらは公家の日記、『猪熊関白日記』、『保略間記』等に頼朝の死去が記されており、特に『猪熊関白日記』に、「頼朝は重い飲水の病となり、その後に亡くなったという噂を聞いた」と記載されている。「飲水の病」とは、のどが渇き大量の水を飲む病で、現在の糖尿病を指す。糖尿病の三代合併症が糖尿病性網膜症、神経障害、腎症が挙げられ、他に動脈硬化、感染、歯周病なども併発が高い。糖尿病の動脈硬化による狭心症・心筋梗塞、脳梗塞や脳梗塞などの脳卒中が起こりやすく、また高血糖地になると意識障害なども発症し、落馬したのではないかと考えられる。出来物は糖尿病による神経障害と血流不全、易感染状態のために発症しやすくなる。これらが進むと糖尿病性壊死に陥る。頼朝が落馬後、病床にて半月ほど生存しており、落馬時に脊髄損傷が起こし、尿崩症により死に至ったとも考えられる。頼朝の死は諸説あるが、現代総合的に考えると糖尿病を患っていた事により、連鎖的に病状が併発し死に至ったと推測する。上行寺の「おでき治療」は、あながち事実であったように考える。  ―続く