妙法寺を出て住宅地を歩く。地図が苦手な人は、鎌倉葉山線のバス通りに出て、再び祇園山に向かってゆくと、多福山一乗院大寳寺(だいほうじ)の山門が見える。祇園山を挟み妙本寺の南東の方角にあり、日蓮宗の寺院である。大寳寺は常陸の御家人佐竹氏の屋敷があったと伝えられ、日蓮宗の寺院である。
佐竹義盛が出家し、室町期の応永六年(1399)に多福寺を建立する。その後、廃寺となり、その跡に嘉吉四年(1444)、日蓮宗一乗日出が再興した。日蓮宗に改宗し、旧寺名を山号として大寳寺となる。境内には義光の守護神であった大多福稲荷大明神が祀られており、義光が後三年の役で大巧を立てる事が出来たのも多福稲荷大明神の加護によるものとし、館に社を建てたと伝えられている。この社が大寳寺の守り神となった。その後、大町の八雲神社に合祀されたが、明応八年(1499)、休本山の松葉ヶ谷妙法寺の日照上人により、この地に勧請された。
佐竹氏の祖先は新羅三郎義光が永保三年(1083)の後三年の役で兄の源義家とともに役を鎮め、甲斐守となってこの地に館を構えたと言われる。佐竹氏の祖は昌義で、源義光(新羅三郎)の孫にあたり、清和源氏の一家系の河内源氏の流れをくむ。しかし、佐竹氏は、鎌倉時代では不遇の時代を過ごす。平安末期の佐竹氏は、常陸北部の奥七郡の多珂郡・久慈東郡・久慈西郡・佐都西郡・那珂東郡・那珂西郡などを支配していた。常陸に強い勢力であった常陸平氏の大掾氏との姻戚関係を持ち、中央では伊勢平氏、東国では奥州藤原氏と結び、常陸南部での介入により千葉常胤、上総広常との確執もあった。
(佐竹扇「五本骨扇に月丸」)
治承四年(1180)八月、以仁王の令旨を受けて挙兵した源頼朝は石橋山で敗れ、房総半島の安房に渡り再起する。直ちに千葉常胤、上総広常などを従えて坂東一円の豪族達を従えた。しかし佐竹氏は平家との繋がりが強く、頼朝に従わなかった。同年十月の富士川の戦いで平氏が戦うことなく潰走し、追討を目指す頼朝に対し、千葉常胤、上総広常などの諫言で佐竹氏討伐に向かう。坂東の地の完全掌握を狙った。佐竹氏当主の隆義は、在京中で、子息・義政・義秀兄弟が金砂城にて籠り抵抗を続けたが、上総広常は義政・義秀兄弟に会見を申し入れ、義政はこれに応じる。しかし広常はそこで義政を誅殺した。弟秀義は奥州の花園へと逃げ延びる。寿永二年(1183)に父・隆義が死去すると秀義が跡を継いだ。奥七郡の所領は頼朝により没収され、その後、頼朝に抵抗を続けたが、文治五年(1189)の奥州合戦で頼朝の軍に参戦を許され武功を挙げ、御家人の一人に列せられた。『吾妻鏡』に、頼朝軍に従軍の際に厳寺の白旗を持参したが、頼朝の端と区別がつくようにと扇を旗の上に付けるよう命じられこれ、後の佐竹氏の掃部「五本骨扇に月丸」の由来とされる。また承久の乱においても秀吉の嫡子義重らが参戦し、戦功をあげて美濃国に所領を与えられた。その時に一族の一部が美濃に移住している。また後に、和泉国や土佐国の佐竹姓が見られ、末梢と推測される。しかし、本来の所領の奥七郡は佐竹氏に戻される事なく宇佐美氏・伊賀氏・二階堂氏等に奪われ後に北条氏が地頭職を獲得した。
南北朝時代、足利氏に呼応して北朝に着き、室町時代には関東八屋形に列せられたが、足利将軍家と鎌倉公方の争いに巻き込まれることもあった。戦国時代に入ると常陸の国の統一は困難となり、戦国大名化は遅れた。安土桃山時代には豊臣軍に付き小田原攻めの戦巧で五十四万国の大名となり、豊臣六大将とも呼ばれた。江戸時代に入り、関ヶ原に進軍せず、中立的な立場を取った事で、出羽国に国替えさせられ、石高は半減させられる。明治時代に入り、戊辰戦争で官軍に付き侯爵が与えられた。佐竹氏は、たぐいまれな家系で、時代と主君に振り回されながら現在する家系を今も残す。
(佐竹義光の墓 多副神社)
大寳寺 宗派:日蓮宗。 山号寺号:多福山一乗院大寳寺。創建:文安元年(1444)。 開山:日出(にっしつ)上人。開基:佐竹義盛。 本尊:三宝祖師。寺宝:本尊、木造日蓮上人坐像、木造新羅三郎義光坐像、木造子育て鬼子母神、出世大黒天像他。
この寺院の裏に新羅三郎の墓塔があり、背後の山は佐竹山という。祇園山との区別がつきにくい。大町八雲神社の七月例祭で大寳寺門前に大町八雲神社から神輿が来て、境内の義光の墓に向かい、祝詞を奉じ、町内を巡行する。
大寳寺を後にして、再び鎌倉葉山線のバス通りを歩きだした。 ―続く