銭洗弁財天宇賀福神社を後にして住宅地の細い階段を下りて行く。鎌倉地区でも扇ヶ谷、笹目、佐助等は、お洒落な家々が立ち並ぶ。平日の月曜日でありながら観光客は多い。数人が大きな声を出し、笑う声は住民にとって不快なもので、プライバシーが失われる事もあるだろう。そんな中、久しぶりと思える青空と風、そして空気が、気持ちがいい。
(当日の銭洗い弁天から佐助稲荷神社に向かう)
しばらく道順に沿って歩くと 突当りを右に行くと佐助稲荷の朱に塗られた鳥居が見えてくる。京都の伏見稲荷のように鳥居が立ち並びトンネルの状態になるが、鎌倉の佐助稲荷は、おおよそ五十メートル位だろうか。京都伏見稲荷にくらべるとその長さは比較にならないが、やはり幻想的な雰囲気を漂わす。「隠れ里の稲荷」と称され幽邃な参道になっている。令和元年の九月の台風の強風により拝殿、本殿が崩壊した。そしてこの鳥居を通り抜けると拝殿が目の前に建立されている。ほぼ二年程度経って綺麗な拝殿が建立されて、本殿が整備されたが、以前の幽邃な幻想的な雰囲気は失われた。以前は苔むした岩や、樹々の根元に、小さな陶器の白い狐の像が余りにも多く置かれ、鎌倉でも一種独特な景観を示す神社であったが、整備されたのでその数もかなり減少している。拝殿の裏の上部に本殿があり、拝殿でお祈りをして、そのまま帰る人もいる。是非とも本殿で感謝を告げたいものだ。以前は敷き詰められた狐像を新たに置くのが難しいくらいのかずであったが、今はかなり余裕があるようだ。
(当日の佐助稲荷神社の参道、拝殿、奥宮)
佐助稲荷の名称は、社殿によると伊豆蛭ガ小島に配流されていた源頼朝が病に臥した時、翁の姿を借りた「隠れ里の稲荷」と名乗る神霊が夢に現れ、挙兵を勧めた。頼朝はこの託宣に従い旗揚げし、平家を下してこの鎌倉後に幕府を開く。後に頼朝は、「隠れ里」と呼ばれるこの地で祠を見つけて、畠山重忠に命じ、社を建立させたと伝わる。その為に、佐助稲荷神社のある佐助ガ谷の名称は、源頼朝が右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ:兵衛府に配属された次官心得)と言う官位についており、権佐の位階、従五位以下を示す左から佐殿(すけどの)と呼ばれ、頼朝の「佐殿」を助けた事から佐助という地名が付いたと言われている。佐は、すけ〔介・助〕とも呼ばれ、佐と助が連結・複重したとも考えられる。またこの地は千葉介、三浦介、上総介の三介の屋敷があり「三介ガ谷」と呼ばれたのが転訛した物ともされる。
(令和元年前の佐助稲荷神社)
佐助稲荷神社の祭神は、他の稲荷社と同様に食物、特に稲を司る「宇迦御魂(倉御魂)神」が祀られており、他には大己貴神(おおなむちしん:大国主命の別称)、猿田彦命、大宮女命、事代主命(大国主命の子)の四神が祀られている。宝物に豊受姫命像がある。例祭は二月初午日。で毎月初午の日には縁日が開かれる。神徳は商業繁盛、病気平癒、学業成就、縁結び(参道登り口に縁結び十一面観音を祀る)。元は、鶴岡八幡宮の飛び地境内社であったが、その関係が解かれ独立した。
拝殿で手を合わせ、日常に感謝し、裏の階段を上って本宮へ行き再び手を合わせた。本来、神社仏閣は災害が少ない地に建立されるが、令和元年の台風の風は相当なものであった。北鎌倉と大船の中間にある私の住居も、暑い中で窓のシャッターを全て閉めて夜を過ごしたものである。御成り通りに取り付けられた金属製の看板も倒れ落下してしまった。佐助稲荷神社が昔の鬱蒼とした幽邃で幻想的な雰囲気が戻るのは、かなりの年月が必要であろう。
(令和元年前の佐助稲荷神社)
鎌倉駅に戻るため鎌倉市税務署前に出て、市役所通りを歩く。市役所を過ぎてお蕎麦屋さんに入り、天ざるそばとビールを注文し、ほっと一息をついた。この散策ルートは、鎌倉駅西口から、佐助稲荷、銭洗弁天、葛原岡神社、そして化粧坂を下り、鎌倉駅西口に戻るコースや、またその逆のコースで歩かれている。佐助稲荷、銭洗弁天は、人気のあるコースであるが、気軽に行て鎌倉らしい風景が広がる散策コースである。 ―終わり