鎌倉歳時記 鎌倉散策 葛原岡神、銭洗弁天、佐助稲荷を廻り、二 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 銭洗弁天の奥の宮に入るトンネルの参道が見え、多くの人が、ここで写真を撮っている。このトンネルは戦中戦後の1940年ごろ(昭和三十年ごろの説もある)に開削されたと言う。本来は、佐助に下る住宅地の細い道が参道になっていた、現在は裏参道とされている。三十メートル程の暗いトンネルを通ってゆくのも神秘的な要素があり、通り抜けると進徳が授かるような明るい境内となっており、隠れ里のような様相である。鎌倉の神社の中で人が最も参詣するのが多いのは、鶴岡八幡宮であるのは言うまでもない。次に多いのが銭新井弁天かもしれないほど有名だ。正式名称は「銭洗弁財天宇賀福神社」と言う。神徳の一つに、ここの奥宮の銭洗水でお金を洗うと何倍にもなって戻ってくるというからだ。

 

 銭洗弁天が祀る宇賀福神とは、本来は日本神話に登場する宇迦之御魂に由来するとされ、中世以降に穀霊神・福徳神、財をもたらす福神として民間で信仰されていたと推測されている。しかし、両者には名前以外の共通性は少なく、その出自も不明である。また蛇神・竜神の化身とされている事もあり、天台宗においては、仏神である弁財天と集合、あるいは合体したとされ、宇賀弁財天とばれている。滋賀県の竹生島宝厳寺の弁天像は、頭頂部に宇賀神の頭を乗せており、また各地には、とぐろを巻いた蛇の上に翁や女性の頭部を持つ物もある。この鎌倉の宇賀副神社は、もともと扇ヶ谷の八坂神社の末社であったが1970年に独立し、「銭新井弁財天宇賀副神社」とした。宇賀神をそのまま神道の神を祀り、御神体は、とぐろを巻いた蛇の体に人の形の頭を乗せ、水神としている。その教えは、「明浄」「正直」を基本に据えた生き方にあるとされ、財宝を洗うことで自身、わが心の浮上を洗い清め、それにより福徳利益がもたらされると言う。

 

(佐助稲荷 本宮 奥宮)

 銭洗弁天の歴史は、源頼朝が幕府をこの鎌倉の地に開き、長く続いた戦乱も終息したが、疲弊した民を救うための加護を日夜神仏に祈っていた。『かまくらこども風土記』によると、「文治元年(1185)四巳の月(四月)巳の日の夜中、頼朝の夢の中に一人の老人が現れ、『お前は人のために何年も心配してきた。天下が安らかに、そして、人々が豊かに暮らせるように大切な事を教えてやろう。ここから西北の方に一つの谷があり、綺麗な泉が岩の間から湧き出ている。これは福の神が神仏に備えているという不思議な泉である。今、これをお前に授けるから、今後この水を汲んで絶えず用い、神仏を供養せよ。そうすると、人々が自然に信仰心を起こし、悪い者たちは何時しかいなくなる。そして、お前の命令もよくいきわたり、天下は平和に栄えるであろう。自分はこの隠里の主の宇賀福神である』。と言って姿を消してしまった。夢から覚めた頼朝が、すぐに家来をやってその場所を探らせると谷間に小さな川があり、その川を遡ると、岩の間から綺麗な水が湧き出て、夢で知らされたとおりだった。頼朝は洞窟を掘らせ、神社を立てて、夢に現れた宇賀福神をお祀りした。そして毎日その水を運んで備えたので、天下は次第におさまり、盗賊達もたちまち滅んで、人々は安楽な日々を送るようになった」。この年の十一月二十八日朝廷より、諸国守護・地頭職の設置・任免を許した文治の勅許が出された源頼朝に与えられた年である。

 

(佐助稲荷 奥宮)

 銭洗弁天の歴史は、源頼

 「正嘉元年(1257)には、北条時頼が頼朝の心を継いで、この福の神を信仰し、『新巳(かのとみ)なる金』の日を選んで人々に参拝させ、天下の通宝である銭をこの水で洗い清めれば綺麗な福銭となり、その銭は必ず一粒百倍の力を現わして、一家は栄え、子孫は長く安らかになるだろう。」と言って、自ら持っていた銭を洗って祈った。時頼の徳を慕って尊敬する人達は、争って時頼に倣い、金銀財宝や、証文や衣類まで持ってきて、この水で洗い清めるようになった。すると不思議にも、一度この水で洗い清めたお金は、どんな場合にもなくなる事はなく、お金の貸し借りなどの証文なども無事に済んで貸借共に、めでたく幸福利益を得るようになったという。それからいつともなく『銭洗水』と呼ばれるようになった。」とある。

 

(佐助稲荷 下之宮)

 江戸時代に編纂された『新編鎌倉史』に鎌倉の五名水として、金流水(今は無く山之内にあった)、不老水(山之内)日蓮乞水(名越:建長五年、安房国から鎌倉入りし、清水を求めた日連歌杖を突き刺した所に湧き出たと伝えられている)、梶原太刀洗水(朝比奈切通鎌倉側:頼朝の命で上総介平広常を討った梶原景時が、この水で太刀を清めたと伝わる)、そして銭洗水が記されている。その他水源として鎌倉十井があるが、五代執権北条時頼の時代には、発掘調査などにより鎌倉の人口が六万人から十万人であったと推測され、鎌倉市の現在の人口が十七万人ほどであり、鎌倉地区は四万人ほどである。鎌倉期において、水源の確保が如何に貴重であったかを物語る物でもある。

 

(佐助稲荷 七福神社)

 銭洗弁財天宇賀福神社の祭神は本宮・一杵島姫命、奥宮・弁財天。例祭は、中祭・四月初巳月、大祭・九月白露巳月。境内社は七福神、水神宮。神事芸能は鎌倉神楽。神徳は福徳、家内安全、商売繁盛である。奥の宮での参拝の方法として、社務所で蝋燭・線香を百円で求め、お金を洗う際に使用する「ざる」は無料で借りるとされるが、神様に祈り福徳を得るために、ささやかでも志納される事をお勧めする。また、銭洗いである事から、紙幣を洗うことは、いかがなものかとも思う。その紙幣で自動販売機などでの使用で紙つまりや、故障の原因にもなりえる可能性がある。欲というものは細やかである事とし、強欲にはならないように行うことが大切だと思う。そして今は裏参道になっている南の鳥居をくぐり、住宅街の小道の階段を下り佐助に向かった。鎌倉でも佐助の住宅地はお洒落な家々が立ち並び憧憬を誘う。 ―続く