十月二十日月曜日、何時もの時間に起床する。午前七時半である。今日の鎌倉の天気は、曇時々晴、気温は最高気温が二十度との事。明後日位から天気が下りがちになるとの事で、洗濯機を回す。そして何時ものように神社に参詣に行くと心地よい気温である。住居に戻りブログの資料の整理をしていると、やはり今日は鎌倉地区に出て散策しようと思い、洗濯物を干して慌ててカバンにカメラを入れ住居を出た。
(台峰 日田鎌倉女学園運動場から見た富士、大峰展)
久しぶりに葛原岡神社から銭洗弁天、佐助稲荷を廻り、鎌倉駅周辺で昼食をとって昼過ぎには住居に戻ると言った予定で出た。午前九時四十分に住居を出て、裏山の台峰を通る。写真を撮ろうとカメラを取り出すが、スイッチを入れても動かない。「あれっ」と思い考えると、先日充電したままカメラに取り付けていなかった。大失敗である。足が重くなるが、住居を出てから二十分ほどで梶原と北鎌倉に通じる道路に出た。舗装道を少し下ると、右に葛原岡神社に向かう道標があり向かう。春は梅、桜と咲き春を感じさせてくれる。秋には紅葉が見られるが、そう大した物ではない。住居から三十分少々で着く。
葛原岡は古地誌『鎌倉欖勝考』によると、「鎌倉殿と十三人」で有名な梶原景時の先祖である景成が桓武平氏の祖、葛原親王を祀る社をこの地に建てた事によるという。
葛原岡神社は、明治二十年(1887)南朝忠臣を称揚する機運により、後醍醐天皇の忠臣として仕えた日野俊基を祭神として創建された。日野俊基は、後醍醐天皇の討幕計画に参加して、正中の変(1324)で一度は挙兵計画が事前に露顕して捕獲されたが赦されており、元弘二年(1332)再び計画が発覚し同年六月三日に葛原ヶ岡で斬首となった。後醍醐天皇は、この時に隠岐に流されている。『太平記』に、俊基が処刑される直前に、家臣の後藤助光と対面し、妻からの手紙を渡した話が載せられている。俊基は、「秋をまたで葛原岡に消えゆる身の露のうらみや世に残るらん」と詠んで死に果てたという。葛原ヶ岡から源氏山に向かう少し言ったとがころに日野俊基の墓とされる宝篋印塔が国史跡として残されている。境内社えびす大黒天社、神事芸能にお渡り神事が六月三日に例祭が行われている。明治以降に由比ガ浜の土地が整備されて宅地が増えた事から由比ガ浜の鎮守しゃである。宝物として、大黒天神像、えびす神像、神輿がある。神徳としては学業成就、除災招福、交通安全等が挙げられ、境内に男石、女石が置かれ今は縁結びが有名になっている。
(日野俊基の墓)
源氏山と大仏ハイキングコースの分かれ道をハイキングコース沿いに行くと、すぐに銭新井弁天に下りる下り道に出る。毎かいこの道を下るが、かなり急で足早になってしまう。登は結構大変だと思い、登った事はなく、毎回この道を下りている。そして、すぐに銭洗弁天に入るトンネルの参道が見える。 ―続く