鎌倉も少しずつ気温が下がり、秋の気配を示しつつ、気温が二十度前後の日が続く。しかし、数日前から曇天と雨の日が続き憂欝な毎日である。十月三十一日、持病で毎月の受診のため大船のクリニックに行く。今日は久しぶりの良い天気で、十時半には診察も終わり、調剤薬局で一月分の薬を処方される。まだ十一時前で、こんな良い天気には運動不足解消のため鎌倉地区を散策することを決めた。大船から横須賀線で鎌倉駅に着く。名越までバスで行き、安国論寺から妙法寺、安養院、別願寺、八雲神社、常栄寺、妙本寺、本覚寺、そして鎌倉駅に戻る。所要時間は三時間から四時間ぐらいだろう。
鎌倉駅東口のバス三番乗り場から十一時半の逗子方面のバスに乗る。今回は、長勝寺には向かわずに、安国論寺から鎌倉駅に向かって歩く。私は日蓮宗の宗徒ではないが、鎌倉市の百十三の寺院の中、二十八寺が日蓮宗の寺院であり、鎌倉で中世の歴史を学ぶ上で日蓮を避けて通ることはできない。また、日蓮宗の寺院は、拝観料を志納するところが少なく、季節に応じた綺麗な花が咲く所も多く、鎌倉を散策するには、非常に良い寺院である。しかし、仏教施設なので仏さまに、家族の守護と先祖への感謝をお祈りすることが大切である。
長勝寺は、今回、記載のみに留めて置きたい。建長五年(1253))に日蓮上人の松ヶ谷草庵を結び、法難跡として妙法寺、安国論寺、長勝寺の説がある。日蓮聖人に帰依した石井藤五郎長勝が伊豆の流刑から戻った日蓮上人のために自邸の庵を寄進し、創建が弘長三年(1263)とされ、これが起源とされている。しかし、『新編鎌倉志』、『新編相模風土記稿』において明らかではない。現在の寺社案内書『鎌倉古社寺辞典』においても「草創や寺史については未詳」とされている。開基である石井長勝が復興して長勝寺を創建したとされるが、自邸に庵を結び、寄進したと考えられる。草庵を日静(日蓮宗六条門流宗祖)が貞和元年(1345)に京都山科区へ移転し、本圀寺の前身としている。京都移転時に開基の石井藤五郎長勝は、正安元年(1299)に没しており、その後は荒廃した庵を日際が再興し石井山長勝寺を号したと言われ、江戸幕府からの朱印状も与えられた。しかし、この説も江戸時代に入ってからの検証であり、未詳と言わざるを得ない。
寺院は広大で、今も修行道場の寺院として宗徒の活動の基盤の地となっている。毎年二月十一日、十時半からに大國祷会(こくとうえ)と言われる荒行が行われる。当日拝見する為長勝寺を訪れた。大國祷会は国家安泰と世界平和を祈願し、千葉県の法華経寺で百日間、午前二時半起床、三時から三時間毎に一日七回「水行」を行い、食事は一日二回の梅干しと「粥」だけの修行である。そして最後の冷水を浴びる荒行を長勝寺で行う。団扇太鼓を打つ僧侶に先導され、七~八人の修行僧が一組となり、合計四組の荒行が順次なされた。経を唱えながら水行場に入り、ふんどし姿で一心に経を唱える。一切経の言葉が聞き取られ、寒気の中で水行を行ってきた為か、唱える経も、だみ声になっている。そして一斉に手桶から水をかぶる。水行場の一メートルほど後ろでないと、同じように水をかぶってしまう。この荒行を満了すると「修法師」という資格を得られる。この鎌倉では節分の日は瀧口寺でも「水行」が行われるが、大國祷会は「水行」を行う人数も多い。
この日は立春に入っているものの、まだまだ寒気が肌を刺す。気温は五度ほどであり、今は鎌倉の冬の風物詩になっている。
一般的な散策には、安国論寺からの参拝の方が良いと思われる。散策目的に安国論寺と妙法院のどちらが松葉ヶ谷草庵だったのか自分で検証してみるのも面白いだろう。鎌倉駅よりバスで十分少しで名越に着く。バスを降りると道路から脇の住宅街に入るとすぐに安国論寺の門が見える。 ―続く