鎌倉散策 五代執権北条時頼 五十一、北条時頼の出家 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』康元元年十月二十三日、時宗は山ノ内に建立した最明寺で出家した。三十歳である。この年、北条重時が連署を辞任し、重時の異母弟の北条正村が連署に就いた。幕府の権力基盤は、北条得宗家を中心に確立し、重時は、その後継者をつくるため自身を退けて、嫡子長時に家督を譲り、極楽寺流北条氏の基盤を固めたと考えられる。

『吾妻鏡』同年七月十七日条には、「将軍家(宗尊)が山之内の最明寺に参られた。この寺院を建立した後、初めての御礼仏である。相州(北条時頼)が出家されると内々に取りざたされていた。その名残りを思われたためか、特に今日の御出の儀を整えられた」と記されており、時頼は既に出家の準備を進めていたようにあるが、実際には真実で有るか否か定かではない。

 

 『吾妻鏡』は、この時期頃から編纂が始まったとも考えられており、幕府の編纂者が特に北条泰時・時頼の功徳について記述されているため、「内々に出家が取りざたされていた」と断定するには、難しい点も残る。得宗体制が確立した中、連署であった重時が出家をし、長子・時輔が元服し、時頼にとっては、これからが自身が導く体制の時期であった。しかし、九月に当時日本全国で流行していた麻疹に罹患し、回復はしたが、三歳になる娘が同疾患に罹患して十月に早世している。十一月三日には、時頼が赤痢に罹患し、同二十二日に小康状態となった事で、執権職及び武蔵国・侍所別当・鎌倉小町邸を北条重時の嫡子で義兄・長時に譲った。そして二十三日に最明寺で出家をし、覚了房道崇(最明寺入道とも)号している。この際、結城朝広・時光朝村、三浦光盛・盛時・時連、二階堂行泰・行綱・行忠が後を追い出家をしたが自由出家のため罪に問われ、出仕を停止されている。実際に病が回復していたならば彼らの後追い出家は起こらなかったと考えられる。また、当時の麻疹・赤痢などの疫病は、致死率の高い病で、自身の死により、北条得宗体制の崩壊と嫡子・時宗の執権擁立が閉ざされる事に恐怖を覚えたのかもしれない。三十日には、死後の冥福を祈るための逆修の法要を行った。逆襲を行った事で、この時は、まだ死の淵に合ったのではないかと考えられる。

北条時頼の「道崇」という法名であるが、時より以前の得宗の法号は、義時が「観海」、泰時が「観阿」、経時が「安楽」であり、時頼の父・時氏は「禅阿」であった。しかし時頼以降は、時宗が「道杲」貞時が「崇演」、高時が「崇鑑」と、いずれも時頼の法号を一字とっている。細川重男氏は、元々は北条義時の号であったとされる「得宗」の語が、実は「徳崇」で時頼が義時を顕彰するために送った禅宗系の追号ではないかと推測している。時頼自身も禅宗に傾倒しており、その後も得宗家において継承され、法号においても北条時頼が絶大な権力を有して得宗家を確立した事が窺える。

 

 北条時頼は、北条長時に執権職を譲ったのは、この時に嫡子・時宗がまだ六歳という幼少であったために、「眼代」(代理人)として長時に譲ったとされている。時宗の母が葛西殿で北条重時の娘であるため、岳父(舅)の重時の嫡子・長時であれば、北条得宗体制の維持と時宗の執権擁立を可能と考えられたからであろう。通説では出家の目的は嫡子・時宗への権力移譲と後継者指名の為と言われ、朝廷と同じように院政を行う状況を作り上げる事とされている。出家をせずとも嫡子・時宗の後継者擁立と権力移譲は可能であったのではないかと考えられ、そして翌年の康元弐年(正嘉元年)二月二十六日には、七歳になる時宗を元服させており、二度の重篤な疾患を患ったために、自身が何時死去するかを考えて早急に継承したと考えられる。また、これらの継承に関して、北条時頼が、兄・経時から執権を譲られたとされる際に背景があると考える。兄・経時の長子・隆政・当時六歳と次子頼助・当時三歳がいたが、通説では、摂関家将軍の基に反得宗派の北条氏庶流(名越北条)と御家人(三浦氏・千葉氏)が政局に影響を及ぼすことを懸念して、幼少の子息では、それに対抗できないと考え、弟の時頼に執権を譲渡したとされる。この執権職譲渡も真相はさまざまな説が出ており、時頼が強奪したなどの説があるなど、『吾妻鏡』のみで真実を読み取ることは難しい。経時の子息二人は、その後に僧として生きている。

 

 北条時頼は、康元二年(1257)正月の埦晩の差配を行っている事から健康を取り戻し、一日の埦晩の後に将軍家(宗尊)は御行始めにおいて、相州禅室の(道崇、時頼)の邸宅に出かけており、依然として時頼が最高権力者の地位にあった事を示している。二月ニ十六日には、正寿を嫡子として元服が行われ、時宗と号した。後の『吾妻鏡』記載の正月の埦晩は、全て北条得宗家と、北条重時の極楽寺流、そしてその庶流である北条正村の正村流北条氏が就いている。北条時頼と重時は、名目上出家をしたとは言え、後も鎌倉幕府の実権を保ち、序列として一、二位をしめていた。これらの結果、時頼の私的な得宗への権力集中が行われ、執権・連署も形骸化していく。そして康元二年三月十四日に世紀元年に改元された。

  

 『吾妻鏡』正嘉元年八月一日に、鎌倉では戌の刻(午後八時頃)に大地震とのみ記されており、同月二十三日条、「戌の刻に大地震。音がして、神社・仏閣で一つも無事な物は無かった。山岳が崩壊して民家が転倒して、築路は全て破損した。諸所で地面が割れ、水が噴き出した。中下馬橋の辺りの地面が割れ、その中から炎が燃え出した。(炎の)色は青という」。

同月二十五日にも地震があり、小さな揺れが五六度続いたとある。地震の祈祷が御持僧と陰陽道の者に命じられ、寺社仏閣の修理と造営について雑掌が定められた。

 九月四日条には、「申の刻(午後四時頃)に地震があった。先月の二十三日の大地震の後、今に至るまで小さな揺れは止むことが無い。このため(安倍)為近朝臣が天地災変祭を奉仕した。御使者は伊賀前司朝行という」。

 同年十一月八日、「大地震。去る八月二十三日の様であった」。二十二日は、藤次郎左衛門入道の家の失火により、若宮大路が焼失し、多くの御家人宅に延焼して田楽辻子に至って鎮火している。この年は、北条時頼が出家した後に、権力基盤を構築していった年でもあり、譲渡した執権として北条長時が実務処理をこなしながら、決定権は、北条時頼が下していく初年度であった。しかし鎌倉では地震が続き、多数の神社仏閣に被害をもたらした年でもあった。  ―続く