鎌倉散策 五代執権北条時頼 五十、疫病 | 鎌倉歳時記

鎌倉歳時記

定年後、大好きな鎌倉での生活に憧れ、移住計画や、その後の鎌倉での生活の日々を語ろうと思います。家族を大阪に置き、一人生活を鎌倉の歳時記を通し、趣味の歴史や寺社仏閣等を綴っていきす。

 『吾妻鏡』康元元年(1256)七月六日条に、四月十日に亡くなった時頼の祖母の矢部禅尼(北条泰時の後室)の為に一切経が供養されている。導師は若宮別当僧正隆弁であった。矢部禅尼は三浦義村の娘で、建久五年(1194)二月二日の泰時元服時(当時十二歳)に、源頼朝が三浦義澄に泰時を婿とするように命じている。その六年後の正治二年(1200)頃に泰時に嫁いだとされ、建仁三年(1203)に嫡子時氏が生まれた。しかし時期は不明だが後に離縁しており、泰時の後妻である安保実員の娘が建暦二年(1212)に泰時の次男・時実を産んでいるために、それ以前に離別したと考えられ、離縁の理由は不仲が生じたわけでもなく不明である。

 矢部禅尼はその後、三浦氏佐原流の佐原盛経と再婚して、佐原光盛・加納(三浦)盛時・横須賀時連の三子を産んでいる。嘉禎三年(1237)に幕府から和泉国吉井郷が与えられ、孫の時頼が三浦矢部郷までで下文を届ける使いをしている。北条氏と対立して起こった宝治元年(1247)の宝治合戦においては、佐原氏の多くが三浦氏側に属し共に滅んだが、矢部禅尼の子及び異母兄たちは、北条氏側に属し戦った。これらは、矢部禅尼が関与したと考えられる。盛時が後に三浦姓を継承し、再興するが、矢部禅尼が亡くなった後の待遇は、以前の三浦氏に及ぶ事はなかった。時頼は祖母の死に当たり五十日の喪に服し、同年七月六日に一切経が供養されたのである。

 

(北条時頼像)

 この年の夏の時期頃に鎌倉新仏教の一つ、日蓮宗の祖である日蓮が鎌倉に進出してきたとされ、その後に北条時頼と嫡子・時宗に関与していくことになる。

七月頃に、北条時頼は鎌倉の山之内に最明寺が建立したと考えられ。『吾妻鏡』同年七月十七日条に、「将軍家(宗尊)が山之内の最明寺に参られた。この寺院を建立した後、初めての御礼仏である。相州(北条時頼)が出家されると内々に取りざたされていた。その名残りを思われたためか、特に今日の御出の儀を整えられた」と記され、時頼の仏教信仰の強さが読み取れるが、出家の記述がこの年の後に実際に起こる事は、『吾妻鏡』の編纂者の演出によるものかと思うほど功名である。

この年は、日本全国において疫病が猛威を振るい、赤斑瘡(あかもがき:はしか)、赤痢が流行していた。八月十一日、鎌倉を追放され京都に送還された摂関家将軍であった九条頼経が赤痢に罹り三十九歳で死去した。そして、九月二十四日には、子の二代摂関家将軍の九条頼嗣が、赤斑瘡により享年十八歳で死去している。『百連沙』によると二十五日に赤斑瘡により死去している。親子ともども疫病を罹患して頼経の死に際して、中流公家の吉田経俊の日記『経俊卿記』には、「将軍として長年関東に住んだが、上洛の後は人望を失い、ついには早世した。哀しむべし、悲しむべし」と記された。

 

 『吾妻鏡』康元元年八月十一日条にて、北条時頼の長子・時輔が元服した。「相州(北条時頼)咽子息が元服され、相模三郎時利(後に時輔と改名)と号した。加冠は足利三郎利氏(後に頼氏と改名)」。

 同月二十四日、将軍家(宗尊)が御病気で奥州(北条正村)・相州(北条時頼)以下が群参した。二十六日には病気が悪化したため、若宮応じ別当隆弁が不動護摩を行っている。また御所で泰山府君祭が行われ(安倍)晴茂朝臣が奉仕し、出羽前司(二階堂)行義が奉行した。

 同年九月一日条、「将軍家(宗尊)の御病気が赤斑瘡(あかもがき:麻疹)であり、若宮別当隆弁が(鶴岡八幡)宮寺に参籠し、御祈禱をされた。赤斑瘡は現在流行しており、諸人は(罹患を)免れなかった。祈禱として百座仁王講が行われ、清左衛門尉(清原)満定が奉行した」とある。

赤斑瘡(あかもがき)は、現在の医学会での病名を麻疹としている。ウイルスを病原体とする感染症の一つで、一般的には、はしかと呼ばれている。古代から度々流行を繰り返し、人々は疱瘡(ほうそう:天然痘)と赤斑瘡(あかもがき:麻疹)を疫病として恐れおののく生活を強いられていた。非常に感染力が強く、感染者の約三十パーセントが合併症をきたし、肺炎や脳炎などにより致死的となる事がある。日本の歴史上で初めて確認されているのは、長徳四年(998)で、藤原道長の絶頂期であった。栄華物語に「あかもがさといふものが出きて上中下分かず病みののしる」と記されている。また、藤原嬉子は万寿二年(1025)八月三日に皇子(後の冷泉天皇)を出産したが出産直前に麻疹に罹患し、出産二日後に死去している。享年十八歳であった。

 

 同年九月十五日、鎌倉中に赤斑瘡(あかもがき:麻疹)が流行り、北条時頼も赤斑瘡に罹患する。『吾妻鏡』九月十六日条、「晩になって、相州(北条時頼)の御病気について『去る六月二十六日が御衰日に当てられたにもかかわらず、初めて出仕されたため、今、御病気となりました。その慎みがあるべきです。」と陰陽道が勘申した。そこで大山府君祭が行われた。また時頼の女子も赤斑瘡となった。邪気が交わっているという。

十九日には、将軍家(宗尊)が治癒し沐浴しているが武州(北条長時)の嫡男(後の義宗)〔四歳〕が赤斑瘡を患った。二十五日には相州(北条と息より)が、病気が回復し、初めて手足を洗われた。二十九日には、沐浴をし、治癒している。しかし二十八日には越後守(金沢実時)の妻室が赤斑瘡の病を患った。

 同年十月九日、改元の勅書が鎌倉に届き、去る五日に建長八年を改め、康元元年とされた。同日、建長六年十月六日に生まれた時頼の幼女が赤斑瘡により死去する。

『吾妻鏡』康元元年十月十三日、には、「相州(北条時頼)の姫君が死去した。このところ御祈禱が行われており、日光法印(尊家)が愛染王供を行われ、法印清尊は千手供を勤めた。阿闍梨(頼兼)・験者は、それぞれ死去の後、壇を壊して退室したという」。享年三歳であった。

 

 赤斑瘡を治癒した北条時頼は、十一月三日に赤痢に罹患する。同月二十二日には、赤痢の病気が軽くなったという。そしてこの日、執権を北条長時に譲る武蔵国国務・侍別当及び鎌倉の邸宅を同じく長時に預けられた。ただし家督(後の時宗)が幼い間の眼代としてであった。翌二十三日に時頼が三十歳で出家し、法名を覚了道崇とした。同月三十日に生前二死後の利益を願って行う仏事、逆修を行う。

 同年十二月十一日に鎌倉に大きな火災が起こり、勝長寿院が延焼した。翌正嘉元年(1257)八月二十五日、勝長寿院造営の雑掌として観覚(北条重時)が御仏堂を担当する事になる。この年は、幕府にとっても北条時頼にとっても災厄に苦しめられた年であったと言えよう。しかし、これらの事象により、何時自身が死去するかわからない事から、兄経時のように自身の子息が得宗家を継承せず、弟時頼に執権を譲った事が教訓となったように考えられる。時頼が出家をなして執権を自身の嫡子に譲る得宗家の継承に全力を向けたのかもしれない。  ―続く